「進化」についての対話

以下は、AA氏の掲載許可取得済み。
F>:筆者の発言
A>:AA氏の発言
この色の背景色は筆者のメイル
白い背景色はAA氏のメイル
はじめまして…ですよね(笑)?
「感想メール」どうもありがとうございました。

F> 私には現存する生物がそんなに合理的に完成され
F> たものとは思えません。

う〜ん、ちょっと誤解されているようなので少し補足しますね。
私は何も(人間を含む)あらゆる生物が「合理的に完成している」なんて思って
いないんですよ。むしろ毎日様々な「変化」を繰り返しながら、日一日と「進
化」し続けてるように感じています。
ここで「変化」に注目すると、「変化」によって生まれた「新しい特徴(特性/
性質)」のうち、生き残るものと消えて行くものがでてきますね。生物学的に言
えば「淘汰」ということになるかと思うんですけど、この場合、消えるものには
消えるだけの理由が、生き残るものには生き残るだけの理由が、やはりあると思
うんです。そうした「取捨選択」を経て積み重ねられたものが「進化」であり、
ですから「変化」と「進化」はその変わり具合をどのレベルで括るか?の違いな
んじゃないでしょうか?少なくとも私はそのような区別をつけています。F
さんは「進化」を「変化」と言い換えるべきだとおっしゃっていますが、「取捨
選択」のレベルを内包するという意味で私はあえて「進化」という言葉を使って
いるんですよ。まぁそのように読み取れないのは私の文才のなさゆえのことです
けど(笑)。
ですから様々な「変化」のレベルでは、それこそ神のみぞ知ると言うか、ほとん
ど不確定で偶然な「たまたま」「とりあえず」も確かに見受けられます。しかし
それが「取捨選択」のレベルを経ると、やはり「たまたま」「とりあえず」だけ
では生き残れないような気がするんですよね。
長くなったのでまとめましょう(笑)。「変化」というフェーズで切り取れば確
かに「たまたま」や「とりあえず」という非合理性も認められますが、それをも
う少し上位の「進化」というフェーズで切り取れば、そこにはもはや「たまた
ま」「とりあえず」という非合理性は認められないだろうと。もちろんこれは私
の個人的な見解なので一般論ではありませんが(笑)。

ところでFさんも私と同じコアラ住人みたいですね。大分人ですか?それと
も福岡の方?
ともあれ、今後ともひとつよろしくお願いいたします。
それではまた。

     
AA 様


A> はじめまして…ですよね(笑)?

そうです。初めましてです。突然のメイルにお答え頂きありがとうござ
います。

A> F> 私には現存する生物がそんなに合理的に完成され
A> F> たものとは思えません。

A> う〜ん、ちょっと誤解されているようなので少し補足しますね。
A> 私は何も(人間を含む)あらゆる生物が「合理的に完成している」なんて思って
A> いないんですよ。

その点は私の誤解だったようですね。なんとなくそんなニュアンスを感
じたもので・・・。

A>         むしろ毎日様々な「変化」を繰り返しながら、日一日と「進
A> 化」し続けてるように感じています。

そうですね。「変化(^_^;)」しています。「進化」というと何かある理
想の形があって、それに向かって変化している、といったニュアンスが
付きまといます。

A> ここで「変化」に注目すると、「変化」によって生まれた「新しい特徴(特性/
A> 性質)」のうち、生き残るものと消えて行くものがでてきますね。

その、「生き残るもの」と「消えて行くもの」が出てくるのは、その変
化がその生物の生存に影響する範囲の環境にたまたま合っていた訳です
ね。しかし、もしその生物を違う環境に持っていったら死に絶えた可能
性もあるわけです。つまり、「その変化がたまたまその環境で起きた」
だけであり、合理性(もちろん生物も物理や化学の法則に従っていると
いう意味では合理的ですが)とはちょっと違うもののように思います。
つまり、「生き残った」というのは結果論に過ぎないように思うのです。
AAさんは「合理的」という言葉の意味をどんな意味で使われたのでし
ょうか。

A>                         この場合、消えるものには
A> 消えるだけの理由が、生き残るものには生き残るだけの理由が、やはりあると思
A> うんです。

それは結果的に見れば「ある」と思います。「この形質がこの環境で種
の存続にこのような形で効果があった。」というように。その意味では、
その種は、ある短い時間スパンで、「種の維持に効果的な形質を持って
いる。」ということは言えるでしょう。しかし、その形質も未来の視点
からは滅びの1歩を踏み出した形質かもしれません。

A>      そうした「取捨選択」を経て積み重ねられたものが「進化」であり、
A> ですから「変化」と「進化」はその変わり具合をどのレベルで括るか?の違いな
A> んじゃないでしょうか?少なくとも私はそのような区別をつけています。

確かに今存在している生物は、過去から現在にかけて巧く存続し得たと
言う意味では「進化」したといえるかもしれません。しかし、未来に対
して現在の姿は有効といえるのでしょうか?もし、環境も含めた全てを
システムとして考えてその1構成要素として生物を見たときに、環境の
変化も含めて、その生物が種を維持できるであろうとの予測が可能なら
ば、それは確かに種を存続し得るという意味で「進化」と言えるかもし
れません。

どんな時間スパンで見るかと、どんな空間スパンで見るかは重要でしょ
うね。そして、生物のようなオープンシステムについては、環境の変化
を抜きには考えられない訳で、地球という環境も常に変化しているわけ
ですから、「進化」や「合理的」という用語を使用するにはかなり慎重
でないと問題を混乱に導くように思います。

A>                                 F
 
A> さんは「進化」を「変化」と言い換えるべきだとおっしゃっていますが、「取捨
A> 選択」のレベルを内包するという意味で私はあえて「進化」という言葉を使って
A> いるんですよ。

例えば、今の人類も恐らく遠い(あるいは近い)将来滅びるでしょう。
すると、今人間に起こりつつある変化は進化なのでしょうか。それをも
進化と考えるのであれば、考え方として一貫性はあると思います。べつ
の言い方をすれば、環境に適応しきれずに、既に滅んでしまった種につ
いて、それが辿った「変化」の過程は「進化」と呼べるのでしょうか?
これを「進化」呼ぶのであれば、一貫しているとは思います。しかし、
それでは、「『進』化」と呼ぶ意味が解らなくなります。

A> ですから様々な「変化」のレベルでは、それこそ神のみぞ知ると言うか、ほとん
A> ど不確定で偶然な「たまたま」「とりあえず」も確かに見受けられます。しかし
A> それが「取捨選択」のレベルを経ると、やはり「たまたま」「とりあえず」だけ
A> では生き残れないような気がするんですよね。

確かに「今」生き残っていることは事実ですが、将来滅びるということ
は無いのでしょうか?もし、その可能性が無視できないとしたら、「今」
生き残っていることを「進化」と呼べるのでしょうか?

A>                   「変化」というフェーズで切り取れば確
A> かに「たまたま」や「とりあえず」という非合理性も認められますが、

「たまたま」や「とりあえず」は非合理的でしょうか?やはりここでも、
「合理的」の意味が問題のように思います。

A>                                 それをも
A> う少し上位の「進化」というフェーズで切り取れば、そこにはもはや「たまた
A> ま」「とりあえず」という非合理性は認められないだろうと。

何をもって「進化」したと言うかですね。ある時点と環境で種の維持に
効果的であった変化が、より長期的な見地からは滅びの変化である可能
性もあると思うのです。刻一刻変化する環境に今は合っている変化が次
の環境の状態に合うという保証は無いでしょう。

私にとって生物とは、「環境の変化にたまたま巧く合った変化を起こし
てとりあえず現存できている、自己複製分子」に見えます。

○結果論でなく、何をもって「合理的」と言い、何をもって「進化」と
 言うか。

が問題のように思います。「結果的に今生き残っているものを進化した
ものという。」というのでは、トートロジーに近いですから。

A> ところでFさんも私と同じコアラ住人みたいですね。大分人ですか?

はいAAさんと同じ大分です。AAさんのページを見て知識の深さに敬
服しております。

A> ともあれ、今後ともひとつよろしくお願いいたします。

こちらこそよろしくお願い致します。ぶしつけな質問に丁寧にお答え頂
きありがとうございました。
     
ども。
天気が悪くてイマイチでしたけど、GWはいかがおすごしでしたでしょうか?
メールありがとうございました。
1通目と2通目でたしかに差出人の名前が違ってましたけど(笑)、別に気にもし
てませんでしたよ。
「進化」や「合理性」についてのご意見、今回も大変興味深く拝読しました。


F> 「進化」というと何かある理想の形があって、それに向かっ
F> て変化している、といったニュアンスが付きまといます。

私とFさんの根本的な違いのひとつがそこでしょうね。「進化」について、
私にはそのような目的論的(あるいは合目的論的)なイメージはないんですよ。
どこかに「理想の形」が既にあって、「それに向かって変化している」というイ
メージは私の中にはありません。あくまでも可能性としてひらかれているという
ことであって、いわば「結果」に関係ない「後先考えないチャレンジ」とでも言
いましょうか(笑)、そんな感じなんです。そういうニュアンスを含ませること
を狙って「進化」という言葉を使っているのですが、なるほど、正しい定義もな
しに使っては混乱させるだけなのかも知れませんね(笑)。ただしインターネッ
ト的にはその方がおもしろいのであえてこのままにしておきます(笑)。そのお
かげでこうしてFさんともメールできているワケですから(!)。

F> 環境の変化に突き動かされて常に生存への最適解がフラフラ
F> と変化している。こんな場合にそれにそった変化がたまたま
F> 起きたのを「進化」というのはそぐわない気がするのです。
F> 私にとって生物とは、「環境の変化にたまたま巧く合った変
F> 化を起こしてとりあえず現存できている、自己複製分子」に
F> 見えます。

このあたりがFさんの考えの核心かな?と思うんですけど、もちろん「その
とおり」なワケですよ。Fさんがまるで生物学系の専門家のように思えて来
るほど(笑)「模範解答」だと思います。
ただその上で私の意見を述べさせてもらうなら、「フラフラと変化する」ことも
「たまたま巧く合った変化を起こす」ことも、私にはやはり「進化」だと思える
のです。もちろん「後先考えないチャレンジ」としての「進化」ですが…。
私が言う「合理的」とは、この場合「何があっても生き残ろうとする/生き延び
ようとする生物の本質的欲望」に「その動き(現象あるいは変化)」が合致して
いるかどうか?の判断だと思うんですよ。ある「環境の変化」が起きた場合、生
物はその変化を乗り越えようとして様々な変化体を作って来るでしょ(決して諦
めないと思う)?そうして形作られた「様々な解」の中から最適なものが淘汰さ
れて残るようになっている。この淘汰過程は取捨選択を含む遠大なものですから
当然「最適解がフラフラと変化している」ように見えるワケですが、実は生物そ
のものの「環境変化を乗り切りたい」という本質的な欲望に合致している、かな
り「合理的な変化」なんだろうと思うワケです。ですから「たまたま巧く合った
変化」を起したに違いないけど、その「たまたま」はやはり生物の本質的欲望に
対しては合理的なんだろうなぁと。
むしろ「フラフラと変化する解」や「たまたま巧くあった変化」を起こしうるシ
ステムこそが、生物の有する最も合理的な部分ではないか?と思うんですよね。
その「ゆらぎ」というか、揺れ動く振幅の自由度をキープしているところに生物
の合理性を見るワケです。そしてそれに反抗するガン細胞(細胞のガン化)はち
ょっと理解できないと。それがあの文章の要約になります(笑)。


ところでFさんの文章からはかなり知的な香りがしますね(笑)。いったい
どのような人物なのでしょうか?ホームページをお持ちでしたら今度はアドレス
なども教えて下さいませ。
それではまた。
     
AA 様


A> F>「進化」というと何かある理想の形があって、それに向かっ
A> F>て変化している、といったニュアンスが付きまといます。
A> 
A> 私とFさんの根本的な違いのひとつがそこでしょうね。「進化」について、
A> 私にはそのような目的論的(あるいは合目的論的)なイメージはないんですよ。

なるほど、了解いたしました。私が「進化」と呼ぶのはおかしいと主張
するのは、世間では「進化」という用語を合目的論的なニュアンスで使
用していることがほとんどであることからです。私自身はAAさんと同
じく、進化を合目的論的とは捉えていませんので、世間で使用されてい
る「進化」という用語を使いたくないのです。

A> F> 私にとって生物とは、「環境の変化にたまたま巧く合った変
A> F> 化を起こしてとりあえず現存できている、自己複製分子」に
A> F> 見えます。
A> 
A> このあたりがFさんの考えの核心かな?と思うんですけど、

正しい理解ですね。ちゃんと話が通じるのは気持ちが良いものです。

A> 私が言う「合理的」とは、この場合「何があっても生き残ろうとする/生き延び
A> ようとする生物の本質的欲望」に「その動き(現象あるいは変化)」が合致して
A> いるかどうか?の判断だと思うんですよ。

このあたりがAAさんの私との根本的な違いのように思います。
「何があっても生き残ろうとする/生き延びようとする生物の本質的欲
望」というようなものは無いと私は考えています。正に「いろいろな変
化をしたものの中にたまたま生き残るものがあった」のであって「変化」
さえも「生き延びようとして変化をする」といった合目的論的なもので
はない、と考えています。

私は、

a.たまたま自己複製機構を持った分子ができた。
b.ただし、その自己複製機構は完全でなくかなり頻繁に間違いを起こ
  す。
c.複製の生産量はかなり高い(もちろん環境によるが)。

この三つの条件をもった分子ができた段階で、現在まで生物が存続し得
たことが物理化学的、確率論的に必然になった、と思っています。これ
は、欲望や本能という言葉で語るべきものでは無いのではないかと思い
ます。

A>                    ある「環境の変化」が起きた場合、生
A> 物はその変化を乗り越えようとして様々な変化体を作って来るでしょ(決して諦
A> めないと思う)?

これは極めて合目的論的な考えのように思います。生物は「環境変化が
起きた場合に、その変化を乗り越えようとして変化体を作る」のでしょ
うか?私にはそう思えません。環境変化が起ころうが起こるまいが、常
に変化体は作っているけれども、環境変化が無ければ多くの場合現在の
形のままが生きやすく、変化したものは滅びた、環境変化が起こった場
合には、変化したものの中に巧く生き延びたものがあった、というのが
実状のように思います。これは「結果」であって「残そうとした」訳で
はないと思うのです。

A>                その「たまたま」はやはり生物の本質的欲望に
A> 対しては合理的なんだろうなぁと。

ここですね。「生物の本質的欲望」というものを認めるかどうかですね。
AAさんの立場は、

○生物には本質的に生き延びようとする欲望がある。
○ここで言う「合理的」とは、その欲望に合致することを言う。

と解釈してよいでしょうか?ならば、生物(自己複製分子)が発生してか
らどの時点でその「欲望」が備わったとお考えですか?

A> その「ゆらぎ」というか、揺れ動く振幅の自由度をキープしているところに生物
A> の合理性を見るワケです。

生物が「揺れ動く振幅の自由度をキープしている」ということにはほぼ
同意できるのですが・・・。そこでおっしゃる「合理性」というのは、
種あるいはその変化体を生き延びさせるという基準に照らしてのことで
しょうか?「自由度をキープしている」ことは合理性というよりも、そ
の性質をもったものが巧く生き延びた、という結果論のような気がしま
す。後から見れば確かに「巧くできている」のですが。

A> どのような人物なのでしょうか?ホームページをお持ちでしたら今度はアドレス
A> なども教えて下さいませ。

とても貧弱なものですが、ホームページは

  http://www.coara.or.jp/~fujita/

です。よろしく。
     
AA 様


A>                    ある「環境の変化」が起きた場合、生
A> 物はその変化を乗り越えようとして様々な変化体を作って来るでしょ(決して諦
A> めないと思う)?

これは、ある種の魚では環境が悪くなると雌の比率が増加する、といっ
たようなことを指しておられるのでしょうか?

確かに種としてそういった性質をもつものもあります。しかし、これも
「変化を乗り越えようとした」からではなくて「変化を乗り越えて存続
した種には、たまたま持ったそんな性質が有効に働いたものもあった。」
という結果論なのではないでしょうか。

ただし、何でも「結果論」ですまそうとしている訳ではありません。こ
れからは、「遺伝子操作」ということが可能になってきていますから、
予測される環境変化に対応するために、特定の性質を遺伝子に組み入れ
ることによって生き残りを促進する、といったことがあり得るでしょう。
このような場合は、「生き残り」という目標に対して特定の性質を指定
した訳ですから、結果論ではないと考えてよいでしょう。

--------
「本能」という用語は厳密な(科学的な)議論では使用しない方が安全で
す。定義が曖昧/困難(下手をするとトートロジーになる)な用語です。
     
ども。
あまりにも素早い返事に大変驚きました(笑)。
メールありがとうございます。
今回も興味深く拝読しました。

F> 「何があっても生き残ろうとする/生き延びようとする生物の本質
F> 的欲望」というようなものは無いと私は考えています。

これはもう認識の違いなのでどちらが正しいというワケでもないんでしょうが
(笑)、私はやはり「生き延びようと欲する本質」は「ある」と思うんですよ。
ただその「本質」と「結果」とは一切関係なくて(ですから結果論的ではないん
ですね)、「生き延びたい」と欲する生物がすべて「生き残れる」ワケではな
い。「生き延びるために変化する」のではなく、「生き残れるかどうかは分から
ないけど、とりあえず精一杯変化させていただきます!」という感じ(笑)。
「生き残ろう」とする目的があって、それを達成しようとしてるという意味では
確かに「合目的論」でもあるんだろうけど、その目的が達成されるかどうかは誰
にも分からないワケです。ですから「合欲望論的」と言った方がしっくり来るか
も知れません(笑)。

F> 現在までの生物の存続は、欲望や本能という言葉で語るべきもので
F> は無いのではないかと思います。

この点に関して言えば「私は欲望論者だから…」としておきましょう(笑)。

F> 生物は「環境変化が起きた場合に、その変化を乗り越えようとして
F> 変化体を作る」のでしょうか?私にはそう思えません。環境変化が
F> 起ころうが起こるまいが、常に変化体は作っているけれども、環境
F> 変化が無ければ多くの場合現在の形のままが生きやすく、変化した
F> ものは滅びた、環境変化が起こった場合には、変化したものの中に
F> 巧く生き延びたものがあった、というのが実状のように思います。
F> これは「結果」であって「残そうとした」訳ではないと思うのです。

う〜ん、Fさんてかなりドライな感じですね(笑)。私はもう少しウェット
なので、やはり「残そうとする意志/欲望」を肯定的に見てしまいます。ただ繰
り返しますけど、自らの変化によって環境変化を乗り越えられたものもあれば、
環境変化を乗り越えるだけの変化ができなくて滅びたものもあり、やはり「欲望
(本質)」と「結果」とは全く別なワケです。この不連続性があるからこそ、結
果論的とか目的論的という見方とは(程度差なのかも知れませんが)ズレて来て
ると思うんですよね。
私の勝手な解釈ですけど(間違っていたら否定して下さいね)、Fさんは
「生物が生き残れるか否か」があたかもその生物内部の要因だけで決定されるか
のように思われているような気がします。だから「結果論的」「目的論的」とい
う言葉が出て来るのかなぁ?と。「変化」と「結果」とがFさんの中では連
続性を有しているため、「後から見れば」という視点が出て来てしまうのではな
いか?と。

F> ○生物には本質的に生き延びようとする欲望がある。
F> ○ここで言う「合理的」とは、その欲望に合致することを言う。
F> と解釈してよいでしょうか?

まったくそのとおりです(笑)。

F> ならば、生物(自己複製分子)が発生してからどの時点でその「欲望」
F> が備わったとお考えですか?

それは大変難しい問題ですね(笑)。そもそも「発生」を自動詞と見るか他動詞
と見るか…。発生してからどの時点で備わったのか?というよりも、その根源と
なる「発生」そのものが私には「欲望」に基づくものだと思えるので。


早速ホームページに行ってみました。貧弱?とんでもない!内容の濃さに驚きま
した。すごく幅のある内容ですね。これから少しずつ読ませていただきます。
それではまた。
     
AA 様


A>     私はやはり「生き延びようと欲する本質」は「ある」と思うんですよ。

なぜ、そう思われるのですか?それを仮定しなければならない/した方
が良い、という理由は何なのでしょう。

A>   「生き延びるために変化する」のではなく、「生き残れるかどうかは分から
A> ないけど、とりあえず精一杯変化させていただきます!」という感じ(笑)。

これは、「生き残るのが目的ではないけれど、変化したらたまたま生き
残った」という結果論とどう違うのでしょう。それと、次の文の内容と
矛盾するような気がしますが。

A>「生き残ろう」とする目的があって、それを達成しようとしてるという意味では
A> 確かに「合目的論」でもあるんだろうけど、その目的が達成されるかどうかは誰
A> にも分からないワケです。

目的が達成されるかどうかは関係無いように思います。少なくとも「目
的を達成しようとして、変種をつくる。」ことは「合目的論的」だと思
うのですが。

A>             ですから「合欲望論的」と言った方がしっくり来るか
A> も知れません(笑)。

「欲望(この場合は生き延びること)を充たす。」という「目的」があっ
て「そのために」変種をつくるのならば、合目的論的だと思いますが。

A> F> 現在までの生物の存続は、欲望や本能という言葉で語るべきもので
A> F> は無いのではないかと思います。

A> この点に関して言えば「私は欲望論者だから…」としておきましょう(笑)。

「欲望」や「本能」という言葉が出て来る余地があるのかどうか疑問で
す。

A> F>                          環境変化が
A> F> 起ころうが起こるまいが、常に変化体は作っているけれども、環境
A> F> 変化が無ければ多くの場合現在の形のままが生きやすく、変化した
A> F> ものは滅びた、環境変化が起こった場合には、変化したものの中に
A> F> 巧く生き延びたものがあった、というのが実状のように思います。
A> F> これは「結果」であって「残そうとした」訳ではないと思うのです。

A> う〜ん、Fさんてかなりドライな感じですね(笑)。

ドライですか?・・・上記のように考えた方が事実をすっきり説明でき
るように私は感じるのですが。

A>                             やはり「欲望
A> (本質)」と「結果」とは全く別なワケです。

「欲望(本質)」という表現はどう言う意味でしょうか?「欲望=本質」
という意味ですか?それはそれとして、少なくとも「欲望」と「結果」
が別というのは、当然ではあるのですが、

A>                      この不連続性があるからこそ、

これが解りません。「欲望」と「結果」は別のものでしょうから「不連
続」なのは言うまでもないことと思いますが、これがどうして次の文に
つながるのかが解りません。もう少しご説明を。

A>                                    結
A> 果論的とか目的論的という見方とは(程度差なのかも知れませんが)ズレて来て
A> ると思うんですよね。


A> 私の勝手な解釈ですけど(間違っていたら否定して下さいね)、Fさんは
A>「生物が生き残れるか否か」があたかもその生物内部の要因だけで決定されるか
A> のように思われているような気がします。

私の文のどこからそのような理解が生じるのか解らないのですが、間違
っています。以前のメイルにも書きましたように、「生物はオープンシ
ステムであって、環境を含めたシステムとして考えないとだめだ。」と
考えています。自然淘汰や「進化」という考え方も当然そのことが前提
にあると思います。

A>                    だから「結果論的」「目的論的」とい
A> う言葉が出て来るのかなぁ?と。

もし、仮に私が「『生物が生き残れるか否か』がその生物内部の要因だ
けで決定される」と考えているとして、そうするとどうして、「だから
『結果論的』『目的論的』という言葉が出てくる」ことになるのでしょ
うか?

A>                「変化」と「結果」とがFさんの中では連
A> 続性を有しているため、「後から見れば」という視点が出て来てしまうのではな
A> いか?と。

「『変化』と『結果』が連続性を有する。」というのがよく解らないの
ですが、私の理解ではこの場合の「変化」とは「遺伝的な変種ができる
こと」であり、「結果」とは、「何回かの複製を経たときにその変種の
子孫が生き延びている。」ということだと思っているのですが。そのど
こをもって「連続性」とおっしゃっているのでしょうか。

A> F> ならば、生物(自己複製分子)が発生してからどの時点でその「欲望」
A> F> が備わったとお考えですか?

A> それは大変難しい問題ですね(笑)。そもそも「発生」を自動詞と見るか他動詞
A> と見るか…。発生してからどの時点で備わったのか?というよりも、その根源と
A> なる「発生」そのものが私には「欲望」に基づくものだと思えるので。

ちょっと理解できないのですが、「自己複製分子」が何かの「欲望」に
よってできた、ということですか?
     
ども。
Fさんの返事はいつも早いので、こちらは常にタジタジ状態です(笑)。
ちょっと身内に不幸があって返事が遅れてしまいました。


F> 生き延びようと欲する本質はあるのかどうか

Fさんは「それを仮定しなければならない/した方が良い、という理由」を
お尋ねですけど、そのようにロジカルなものではないのです(笑)。生物(ある
いは「世界」といってもいい)の本質をどこに見い出すか?というスタンス(認
識論)の話なので。逆にFさんは生物の本質をどのあたりに置かれているの
でしょうか?「欲望」や「本能」との兼ね合いも含め、少し聞かせてほしいで
す。

F> それって「合目的論的」じゃないのか?

たしかにおっしゃる通り(笑)。ですから「ある意味では」と前回書いたとおり
です。ただ「生き残りたい」という目的(欲望)があって、それを達成する(=
結果を出す)ためにのみ全ての変化/生成が生まれるワケではないと思うんです
ね。「生き残りたい」という目的を達成してるつもりでも、その過程では当初の
目的に必ずしも一致しない変化体もつくってしまうワケで、ですから全てが徹頭
徹尾「目的」「結果」に支配されているワケでもない。このあたりに「合目的論
的」「結果論的」と呼ぶにはやや大きすぎるズレが存在するように思えるので
す。目的に向かっているつもりになっていても案外そこに向かっていない部分も
同時に内在してるというか(このあたりは意識と無意識の構造が参考になるでし
ょう)、そういう不連続性を見ちゃうワケですね。あるひとつの結果から単線的
に遡考することは可能ですが、その過程では無視され忘れられる変化体もあり、
ですから目的論的・結果論的に遡った見方をするのは私としてはあまりピンとこ
ないのです。まぁ「そんな気がする」という程度の話なので(笑)「それもやっ
ぱり目的論的だよ、結果論的だよ」と言われればそれまでなんですが…。

A> Fさんはドライなのか?

これは大変失礼しました(笑)。こちら側の勝手な思い込みだったようです。た
だFさんは生物固体の中に主体性をあまり見ていないように思えるのでそう
書いたまでです。私は主体の中に「欲望(メールを書いている段階で本能や目的
という言葉も出て来ましたが、基本的に私はそれらの単語はあまり好きではあり
ません)」を見い出し、それは「結果」とは必ずしも結び付いていないと考えて
います(かといって別物でもない。「結果」を生み出す重要な要素ではあるけ
ど、それだけでは「結果」は生まれてこない)。Fさんは主体の中に「欲望
(本能や目的でもいいですが)」を見ない、それどころか主体など結果から遡考
した時にたまたま垣間見えるものにすぎない、と、そう言っておられるように思
えたのです。生物を「自己複製分子」と言い切るところに「頭の良さ(キレ具
合)」は感じますが、ちょっと冷たすぎる感じがして(笑)。
これは全くの余談ですけど、一方でそういう考え方は「構造主義」という哲学?
の概念で「アリ」なんですね。Fさんの言う「生物はオープンシステムであ
る」という言い方もかなり「構造主義」的に聞こえます。生物固体を環境を含め
たシステムとして考えることは確かに基本ですが、そのシステムにおいて固体と
環境とはFさんの中で等価になっている気がするんですよ。そして「システ
ム」であるがゆえに全ての要素はロジカルに整然と連関し合っているように思え
る。私はそこに「欲望」という非システム的/構造的な要素を持ち込んでしまい
がちです。その相違点に連続性/非連続性に関するFさんの質問に対する答
えを感じていただければ良いのですが。
もちろんこれも一方的な思い込みかも知れません。Fさんは阪大出身のよう
ですけど(HPによれば)、もし哲学系の出なら「釈迦に説法」でしたね(笑)。
いや失礼しました。


時おり勝手な思い込みによる不快な文章があるかも知れませんが、それはひとえ
に私の性格から来るものです(笑)。ご容赦くださいませ。
それではまた。
     
AA 様


A> Fさんの返事はいつも早いので、こちらは常にタジタジ状態です(笑)。
A> ちょっと身内に不幸があって返事が遅れてしまいました。

これは、済みませんでした。私の返事が早くてもどうぞごゆっくりなさ
ってください。お返事を強制するものでもありませんので、最終的にお
返事が無ければ、私との議論に興味を失われたものと考えます。

A> F> 生き延びようと欲する本質はあるのかどうか
A>         逆にFさんは生物の本質をどのあたりに置かれているの
A> でしょうか?「欲望」や「本能」との兼ね合いも含め、少し聞かせてほしいで
A> す。

一般的に言って「何々の本質は?」という設問は適切ではないと思いま
す。例えば、「猫の本質は?」などと聞かれて答えられるでしょうか?
仮に答えたとして、その答えは「猫」をちゃんと説明できているでしょ
うか?多分、できていないと思います。

何かについて語るときに「本質」というような用語で表現されるような、
ある意味で抽象化・単純化された答えを要求すると必ずおかしな認識に
陥るようです。私にとっての「生物」は現存する生物です。これらはす
べて、DNAやRNAに基づく自己複製機能により同種あるいは類似の
ものを複製している、という特徴を持っているということは言えますが、
それは「顕著な特徴」以上でも以下でもなく、それで「生物」を語った
とは思いません。

「欲望」については、「種」の問題と「個」の問題を分けて考えるべき
だと思います。「種」の問題において「欲望」を論じるのは適切ではな
いのではないかと思っています。個としての生物については、その行動
様式から「生きようとする欲望」を仮定することで、行動の説明がやり
易くなると思います。もちろん、「欲望」も物理的・化学的メカニズム
が明らかになれば、仮定する必要はないでしょう。例えば、ある種のウ
ィルス(仮にウィルスを生物と認めるとして)が感染対象にくっつくのは、
「欲望」で議論するよりも、生化学的な観点で議論する方がすっきり説
明できます。ただ、人間のような高度に複雑な(特に大脳のようなとて
つもなく複雑な神経系を持った)動物を見るときには、「欲望」を仮定
することは「欲望」以降の行動を議論するときに有効でしょう。

「本能」という用語は私には意味が無い用語です。

A>   「生き残りたい」という目的を達成してるつもりでも、その過程では当初の
A> 目的に必ずしも一致しない変化体もつくってしまうワケで、ですから全てが徹頭
A> 徹尾「目的」「結果」に支配されているワケでもない。このあたりに「合目的論
A> 的」「結果論的」と呼ぶにはやや大きすぎるズレが存在するように思えるので
A> す。

それは、問題解決のための知識や戦略が十分でなかったり適切でないと
いうことではないのですか?

A>   目的に向かっているつもりになっていても案外そこに向かっていない部分も
A> 同時に内在してるというか

問題解決のための知識や戦略が適切でなければ、そういったことは良く
起こりますね。ただ、それを、改めて「不連続性」というような形で取
り上げる意義があるのかどうか・・・。

A>             (このあたりは意識と無意識の構造が参考になるでし
A> ょう)、そういう不連続性を見ちゃうワケですね。

「意識」「無意識」については、また面白い議論がありそうですが、こ
こでは、触れません。

A>                        あるひとつの結果から単線的
A> に遡考することは可能ですが、その過程では無視され忘れられる変化体もあり、
A> ですから目的論的・結果論的に遡った見方をするのは私としてはあまりピンとこ
A> ないのです。

位置が正確には判らない敵を鉄砲で撃つ場合に、必ず当る訳ではないけ
れど、およその方向に向けて100発くらい撃ったら当った、という場
合に、目的論的かどうかということですね。私は、「その方向に向けて
撃つ。」というのは目的論的な行動と思うのですが。敵がどこに居るか
判らないときに、目くら滅法に打ちまくったら当った、という場合も目
的論的ですね。撃てば弾が飛び出して当る可能性がゼロではないことに
期待を掛けているのですから。鉄砲と言うものを知らなくて、単に好奇
心でいじっていたら暴発して敵に当った。その敵が自分を殺そうとして
狙っていたことを知らなかった。という場合はその個人の生き延びは結
果論的ですね。

こういう好奇心をもった味方が、多数の敵の中にポツリ、ポツリと居る
状況で、もし味方にとって鉄砲が豊富に手に入る環境だとしたら、暴発
の弾が自分や味方に当る確率よりも周りの敵に当る確率が高い訳ですか
ら、ポツリ、ポツリと居た味方の誰かが生き残る確率は高くなるでしょ
う。これは、味方の存続に有利に働くでしょう。これは、結果論的です
ね。

A> A> Fさんはドライなのか?
A> これは大変失礼しました(笑)。こちら側の勝手な思い込みだったようです。

いえ、私はドライかもしれません。ドライと言われることは全く気にな
りません。ただ、自分の知識や経験・感覚に最もフィットする考えを選
んでいるだけです。

A>                                    た
A> だFさんは生物固体の中に主体性をあまり見ていないように思えるのでそう
A> 書いたまでです。

「生物『個体』の主体性」というのは正に「個」の観点ですね。生物の
個体と(他の個体も含めた)環境を対置する観点からは、「生物個体の主
体性」というものを仮定することは有効でしょうし、私も無視しません。
「個」としての特性が「種」としての特性に関係することは当然ですが、
観点が違うと思います。

A>                       Fさんは主体の中に「欲望
A> (本能や目的でもいいですが)」を見ない、それどころか主体など結果から遡考
A> した時にたまたま垣間見えるものにすぎない、と、そう言っておられるように思
A> えたのです。

上にも書きましたように、「生物個体」について「欲望」を仮定するこ
とは、個体の行動についての分析をするときには有効と思います。これ
までの議論は「種」としての生物についてのものだったですよね。

A>       生物を「自己複製分子」と言い切るところに
A>           ちょっと冷たすぎる感じがして(笑)。

多くの人は(人間を含めて)生物を「自己複製分子」と言い切ると、冷た
いと受け取り、例えば「だから、人間をモノのように扱う。」と思って
しまうらしいですが、全くの誤解というか、単なる思考の短絡ですね。

単なる「自己複製分子」であってもそれが人間のように複雑に組み上が
れば喜んだり悲しんだりする訳です。そのことを人々は目の当たりにし
ているにも拘わらず、「単純なものはいくら複雑に組み合わさっても単
純だ。」という思い込みに囚われて、短絡的判断をしてしまうのでしょ
う。AAさんもご存知のように、非常に単純な万有引力の法則と、ニュ
ートンの質点の運動方程式に従う自由空間中の3体問題でさえ、解析解
は無い(数値解は求まるが)のですから、60兆個の細胞が複雑に組み合
わさった人間が基本的に炭素、酸素、水素、窒素、カルシウムと微量の
他の元素からできているからといって、単純だというのは間違いである
ことは明らかでしょう。

A> これは全くの余談ですけど、一方でそういう考え方は「構造主義」という哲学?
A> の概念で「アリ」なんですね。Fさんの言う「生物はオープンシステムであ
A> る」という言い方もかなり「構造主義」的に聞こえます。

私は「哲学」は苦手です。以前に「ハイデッガーの〜〜」という本を読
みかけたのですが、何を言いたいのかさっぱり解らず放り出しました。

A>                                 「システ
A> ム」であるがゆえに全ての要素はロジカルに整然と連関し合っているように思え
A> る。

「システム」も生物のように、情報的にオープンなだけでなく物理的に
もオープン(常に、外部から物質を取り入れ、自分の部分である不要な
細胞を捨てて物理的にも変化している)なシステムですから、仮に整然
と関連し合っていても、単純ではないことは明らかですね。どの面を見
て「整然としている」と見るかも問題ですし。

「ロジカル」ということについても、例えば「感情」や「感」、「欲望」
といったものも、脳の作用であり、『その作用を人間がちゃんと理解し
ようとしたら、ロジカルな理解しかあり得ない』、と考えています。
(こう言うと「すべて論理で説明できるのか?」という見当はずれの反
応が返ってくることが多いのですが。)
「ロジカルに整然と関連し合っている」と認識をするのは人間であって、
対象が「『本当』にどうなっているか」は(誰にも)判らないでしょう。
しかし、「理解」ということをしようとすると人間はロジカルにならざ
るを得ない。

A>   私はそこに「欲望」という非システム的/構造的な要素を持ち込んでしまい
A> がちです。

その「非システム的/構造的な要素」について、AAさんがいろいろと
考察・研究なさって、AAさんのおっしゃる「本質はこうだ」という何
かを見つけたとして、その結果は、ロジカルな理解・記述になるのでは
ありませんか? ロジカルであることから逃れられますか?それとも、
(非システム的な)「欲望」については思考を停止なさいますか?もし、
そうならば、それは既に宗教ですね。私は「欲望」ついても考えたいし
理解したいのです。

A> もちろんこれも一方的な思い込みかも知れません。Fさんは阪大出身のよう
A> ですけど(HPによれば)、もし哲学系の出なら「釈迦に説法」でしたね(笑)。

残念ながら工学系です。哲学は講義も受けたことがありません。子供の
時は哲学めいたことが好きだったのですが・・・。こんな議論をすると
いうことは、今でも哲学『的』なことは好きなのでしょう。

A> 時おり勝手な思い込みによる不快な文章があるかも知れませんが、それはひとえ
A> に私の性格から来るものです(笑)。ご容赦くださいませ。

いえいえ、全く問題ありません。議論におつき合い頂きありがとうご
さいます。むしろ、私の方が、切り口上的な書き方が多いですから。
     
ども。
大分市内はすっかりワールドカップモードに突入しています。毎日浮れていま
す。そんなワケで返事を書かなければならないメールを溜めてしまい、今必死に
なって書いているところ(笑)。
Fさんには掲示板の方にも書き込んでいただき、本当に感謝しております。
そちらはワールドカップ、盛り上がってますか?


F> 私の返事が早くてもどうぞごゆっくりなさってください。

あ、ありがとうございます(感謝)。内容のあるメールはあまり書けないので心
苦しいのですが(笑)、今後ともひとつよろしく。「議論に興味を失った」ワケ
ではないんですけど、私もFさんも多少は似つつ、根本的には異なる認識を
持っており、しかもそのどちらが正しいというワケでもないし、ましてやそこに
是非をつけるのが目的でもありません(ですよね?)。そんなワケでメールとい
うスタイルでやり取りを行う/続けることにちょっと限界を感じているところで
す。Fさんの考える『生物とは』(もちろんこんな大雑把な括りである必要
はありませんが)という話をFさんのHPで公開された方がスタイルとしては
適切かな?と。その方が様々な方の意見も聞けますし。

F> 「何々の本質は?」という設問は適切ではない

たしかに(笑)。これは質問の仕方が悪かったですね。でも「欲望」に関する
Fさんのスタンスは何となく分かったので了とします。

F> 位置が正確には判らない敵を鉄砲で撃つ場合に、必ず当る訳で
F> はないけれど、およその方向に向けて100発くらい撃ったら当
F> った、という場合に、目的論的かどうかということですね。

う〜ん、その例え話で本当に合ってるのかどうかはちょっと分かりません
(笑)。でもせっかくだからその例え話を使って話を進めましょう。
Fさんは上記例を「目的論的」だと判じるワケですが、私はこれを「ある意
味で目的論的」だとしか判じられません。目的論的だと言われれば否定はしませ
んけど、そう言い切るにはちょっと抵抗があるという、そんな気がするのです
ね。「位置が正確には判らない敵」を「撃ち倒したい」という目的と、「およそ
の方向に向けて100発くらい撃つ」という行為とは実はそれほど結び付いていな
いと思うんです。
本当に「撃ち倒したい」という目的を果たしたいのなら、盲滅法に銃を撃つので
はなく、先ずもって敵の気配を探ること(音を聞くとか臭いを嗅ぐとか)が重要
になります。実際の戦争を想像すれば分かるように、ある部隊が生き残るには盲
滅法の射撃は単なる弾丸の無駄遣いであり(それは多くの場合戒められるし、戦
術的には最低の選択です)、実際はいかに索敵作業を素早く行なえるかというと
ころにどこの国の軍隊も力を注ぎます。ですから「敵を撃ち倒したい」という目
的を遂げようとする場合に、「盲滅法に撃つ」のはあまり目的論的ではなく、例
示するなら「敵を捜索する」「照明弾を撃ち上げる」などの方がより目的論的だ
と思うのです。
Fさんは「目的」を遂げようとして行われる行為を、その指向性によって
「目的論的」だと判じますが、私は「目的」と「行為」との間にロジカルな結び
つきがあって初めて「目的論的」と言いたいのです(そこに「結果」は含まれて
いないのでご注意ください)。銃を向ける「およその方向」とは全く逆の方向に
敵がいる可能性もあるし、敵が101人いるかも知れない(笑)。そのような状況
下で「盲滅法に100発撃つ」というのは必ずしも目的論的だとは言い切れない気
がするのです。

F> 「個」としての特性が「種」としての特性に関係することは当
F> 然ですが、観点が違うと思います。

たしかに「個」と「種」の話をごちゃ混ぜにしていたかも知れません(笑)。し
かし逆に言えば私の中で「個」と「種」の話はたぶん完全には切り離せないもの
でもあるのです。「個」と「種」とをいったん分けなければ議論にならないと言
われればそれまでですが(笑)、そういう分離がきちんとできないんですよね。
「欲望」もやはり「個」と「種」の両方で見られるし、それらがどのように結び
付いているか?は必ずしもロジカルではなかったりする(この点では哲学よりも
社会学を参照することが有効かも知れません)。

F> 「単純なものはいくら複雑に組み合わさっても単純だ」という
F> 思い込みに囚われて、短絡的判断をしてしまうのでしょう。

「自己複製分子」という言い方に冷たい印象を抱くのは確かに「そのまんま」で
すね。「単純なものはいくら複雑に組み合わさっても単純だ」というのは確かに
短絡、て言うかちょっと考えが足りない(笑)。ただこの点についてもFさ
んのように手際良くは判じられないんですよ(この手際の良さが「冷たい」印象
を生むのだと思います。要するに「頭がいい」と同義だと思って下さい!)。
「単純」「複雑」はよくよく考えてみると区別するのがとても難しいものだと思
うのです。

F> 私は「欲望」についても考えたいし理解したいのです。

これは重要な「欲望」ですね(笑)。私はなにも「欲望はロジカルには解明でき
ないものだ」などと宗教チックなことを言っているのではないんです(私は無神
論者です)。そうではなく、「欲望」はある自明のものだと思われていた/信じ
られてきたシステムや構造を打ち壊す力を持っているという、そういう意味で
「非システム的/構造的な要素」という言い方をしたのです。もちろん「欲望」
そのものもロジカルに(あるいはフィジカルに)理解可能ではあるでしょう。し
かしそこで解明された「欲望のシステム/構造」を打ち壊すのもまた「欲望」だ
と思うのです。このある種の入れ子構造は前述の「単純」「複雑」論にも当ては
まるかも知れません。

F> 今でも哲学『的』なことは好きなのでしょう。

そのようですね(笑)。いいことです。試しに「構造主義」関係の本をちょっと
読んでみたらどうでしょう?きっとFさん的にハマれると思いますが…。ハ
イデッガーは簡単なことを難しく言う学者先生なので文系向きです(笑)。理系
にはちょっとキツイですね。


届いたFさんのメールについて、ほとんど挙げ足取りにも似た返事ばかり書
いている私ですが(笑)、どうもこういうのに限界を感じているのです。それは
楽しい「会話」だし、なるほどと感心するところも少なくないのですが、当初の
「進化」「変化」用語論からは随分横滑りして来てるし(それはそれでいいので
すが)、議論がだんだん場当たり的になって来ている感じが否めません。それは
多分に私の責任なのですが(とにかく返事を書くだけで精一杯なので)、そろそ
ろ一区切り入れてもいい頃かな?と。
冒頭にも書きましたが、Fさんの考える世界をそろそろHPで公開してもいい
んじゃないでしょうか?極めてロジカルで冷静な切り口による生物?の話をちゃ
んと読んでみたい気もします。ともあれ、一度考えてみて下さい。
それではまた。
     
AA 様

A> Fさんには掲示板の方にも書き込んでいただき、本当に感謝しております。
A> そちらはワールドカップ、盛り上がってますか?

実は私はサッカーや野球にはさっぱり興味がありません。野球やサッカ
ーで放送番組の時間がずれたりするのが迷惑と感じている一人です。
 
A>           私もFさんも多少は似つつ、

そうですね。ものの感じ方や世間に対する見方などはかなり似ています
ね。だから話が通じそう、ということでメイルを出し始めたのです。

A>                          根本的には異なる認識を
A> 持っており、しかもそのどちらが正しいというワケでもないし、ましてやそこに
A> 是非をつけるのが目的でもありません(ですよね?)。

正直に申しますと、AAさんの考え方はどこかに矛盾があるように感じ
ています。最も興味があるのは、AAさんがなぜAAさんのように考え
るに至ったか、です。

A>   Fさんの考える『生物とは』
A>         という話をFさんのHPで公開された方がスタイルとしては
A> 適切かな?と。その方が様々な方の意見も聞けますし。

HPで真正面から生物を語る程の知識はありませんので、今のところ、
生物についてのHPを作る予定はありませんが、その内考えましょう。

A> F> 位置が正確には判らない敵を鉄砲で撃つ場合に、必ず当る訳で
A> F> はないけれど、およその方向に向けて100発くらい撃ったら当
A> F> った、という場合に、目的論的かどうかということですね。

A> 本当に「撃ち倒したい」という目的を果たしたいのなら、盲滅法に銃を撃つので
A> はなく、先ずもって敵の気配を探ること(音を聞くとか臭いを嗅ぐとか)が重要
A> になります。

「本当に『撃ち倒したい』」場合でもそう言う情報収集手段がとれない
場合には「およその方向に向って撃つ」のがその場合の最適な戦術な訳
です。どんな手段を採るかは、目的論的であるかどうかとは関係ないの
ではありませんか?

A>       実際の戦争を想像すれば分かるように、ある部隊が生き残るには盲
A> 滅法の射撃は単なる弾丸の無駄遣いであり(それは多くの場合戒められるし、戦
A> 術的には最低の選択です)、実際はいかに索敵作業を素早く行なえるかというと
A> ころにどこの国の軍隊も力を注ぎます。

敵に100%当たらなくても敵の方向に撃つことは極当たり前に実行さ
れている戦術ですよ。索敵作業は如何に戦闘を効率良く進めるかの問題
であって、目的論的かどうかの問題とは違います。

A> Fさんは「目的」を遂げようとして行われる行為を、その指向性によって
A> 「目的論的」だと判じますが、私は「目的」と「行為」との間にロジカルな結び
A> つきがあって初めて「目的論的」と言いたいのです(そこに「結果」は含まれて
A> いないのでご注意ください)。

上記の「およその方向に向って撃つ」というのも、確率論的要素は加わ
りますが、十分、ロジカルに結びついています。100%でなければロ
ジカルでない、と考えておられるのでしょうか?

A>               銃を向ける「およその方向」とは全く逆の方向に
A> 敵がいる可能性もあるし、敵が101人いるかも知れない(笑)。そのような状況
A> 下で「盲滅法に100発撃つ」というのは必ずしも目的論的だとは言い切れない気
A> がするのです。

確率論的な要素を否定するならば、全ての作戦は非目的論的になります。
見えている敵を銃で狙って撃っても必ずしも当たるとは限らないし、赤
外誘導ミサイルですら当たるとは限らないのですから。典型的な実例で
言いますと、アメリカ軍が、アルカイダがいると推測される地域に「デ
ィジーカッター」なる爆弾を投下したのも、上記に似た戦術ですが、目
的と行為がロジカルに結びついていないとお考えですか?
 
A> F> 「個」としての特性が「種」としての特性に関係することは当
A> F> 然ですが、観点が違うと思います。

A> 「欲望」もやはり「個」と「種」の両方で見られるし、それらがどのように結び
A> 付いているか?は必ずしもロジカルではなかったりする

その結びつきがどうなっているか解った時点でそれはロジカルになって
いるでしょう。AAさんは「ロジカル」と言う用語をどのような意味で
使用されているのか、という疑問が沸いてきました。

A> 「単純」「複雑」はよくよく考えてみると区別するのがとても難しいものだと思
A> うのです。

もちろんそうです。「単純」とか「複雑」とかをどんな側面を見て言っ
ているのかが問題ですね。ある一つのものでも、ある側面から見れば単
純であっても別の側面からみれば複雑であったりします。何でも十把人
からげにして「単純」「複雑」と断じる姿勢が拙いのです。それと「単
純」と「複雑」が、ある一線で単純(~_~;)に分かれる訳ではありません。
「非常に単純」といわれるものから「非常に複雑」といわれるものまで
連続的に存在する訳です。
 
A>       そうではなく、「欲望」はある自明のものだと思われていた/信じ
A> られてきたシステムや構造を打ち壊す力を持っているという、そういう意味で
A> 「非システム的/構造的な要素」という言い方をしたのです。

私はすぐに非常に卑近な例を考えてしまうのにですが、それまで自明と
信じられてきたガリレオの相対性理論(絶対静止系を持つ)を打ち壊し
たアインシュタインの相対性理論は、非システム的/非構造的でしょう
か?

A> そのものもロジカルに(あるいはフィジカルに)理解可能ではあるでしょう。し
A> かしそこで解明された「欲望のシステム/構造」を打ち壊すのもまた「欲望」だ
A> と思うのです。

どうしてそう言えるのでしょう?打ち壊さないかもしれない。仮に打ち
壊したとしても、それが「欲望の非システム性/非構造性」とどうロジ
カルにつながるのですか?完成したら自分自身を打ち壊す機械というの
も理論的にも実際的にも問題無く考えられ、それは極めてシステム的で
す。

A> 届いたFさんのメールについて、ほとんど挙げ足取りにも似た返事ばかり書
A> いている私ですが(笑)、どうもこういうのに限界を感じているのです。

いえいえ、ここまでお付き合い頂きありがとうございました。

A>                                  そろそ
A> ろ一区切り入れてもいい頃かな?と。

そうですね。そう致しましょう。