宗教対話

F>:筆者の発言
背景色がこの色のページは筆者の投稿
背景色が白色のページは、他の人の投稿
Aです
 
 F> そういった面はありますね。私は無宗教なので、キリスト教やイスラム
 F> 教のような一神教(特に今問題を起こしているという意味もあって)には
 F> どうも反発を感じてしまいます。
 
 う〜ん…どうでしょう?
 パール・バックの『大地』に出てきたアメリカの農学者とその娘の議論
 のようなものでしょうかね?
 
 ただ、ノーベル賞クラスの科学者の多くが、人智を超える絶対的な存在
 を認めている、(認めざるを得ない状況に追い込まれている)ということ
 に、私は非常な興味を持ちます。
 
 <後略>
 
      
Fです。MLにクリスチャンの方がいることを忘れていました。失礼
 があったら済みません。
 
 A> パール・バックの『大地』に出てきたアメリカの農学者とその娘の議論
 A> のようなものでしょうかね?
 
 「大地」・・・、大昔に読みましたがほとんど完全に忘れています。ど
 んな議論でしたっけ?確か、中国人が出てくる話だったような。
 
 A> ただ、ノーベル賞クラスの科学者の多くが、人智を超える絶対的な存在
 A> を認めている、(認めざるを得ない状況に追い込まれている)ということ
 A> に、私は非常な興味を持ちます。
 
 なるほど、例えばどんなノーベル賞を受けた科学者がそういったことを
 認めていますか?
 
 先にも書きましたが、ノーベル賞を取ったかどうか等ということは、そ
 の分野での評価であって、それ以上でも以下でもありません。そのとき
 の科学で解らない事態になったときに、単に「(今は)解らない」という
 のが科学者としての真摯な態度だと思います。「人知を超える絶対的な
 存在を認める」という姿勢は、「解らない」という状況に強引に決着を
 着けようとしているように私には見えます。
 
 A> どうにもならないところに追いつめられたとき、宗教が自己の存在基盤
 A> としてあるということに、大変、感謝しました。
 
 人間というのはものすごく論理的なんですよね。どうしても逃れられな
 事態に陥ったとき、その状況を受け入れるためになんとかして納得し
 (つまり論理的整合性を得)たい。そして、自分の知識・経験の範囲でそ
 の事態を納得して受入れられないときに、「神」という絶対的なものを
 想定することで納得を得て安心する。多くの宗教はものすごく論理的な
 んです、「神」に到達するまでは。科学は「神」を持ってこないから究
 極的なところで決着がつかないので不安が残る。
 
 A> なお、神道は、宗教ではないような気がします。
 A> 敢えて言えば、風俗…かなぁ。
 
 確かにそういった面もあるとは思いますが、でも、解らないことの原因
 を「神」に帰着させるならば、やはり宗教のように思います。これは私
 個人の考えですが、突き詰めて行って解らない領域になったときに「神」
 に類するものを持ってきて理由付けして決着を着けるというのは宗教的
 姿勢だと思っています。そういった場合の科学者の態度は「何かあるの
 かもしれんけど、ワカラン(だから、これから詳しく調べてみよう)。」
 ですね。
      
Aです
 
 F> Fです。MLにクリスチャンの方がいることを忘れていました。失礼
 F> があったら済みません。
 
 いえ、別に気になさることはありませんよ。
 
 <中略>
 
 F> 「大地」・・・、大昔に読みましたがほとんど完全に忘れています。ど
 F> んな議論でしたっけ?確か、中国人が出てくる話だったような。
 
 中国からの留学生と、その師匠に当たる白人の老農学者。
 その老農学者夫婦は熱心なクリスチャンで、信仰とサイエンスを
 心の中で両立せしめているけれども、老農学者の娘は無神論者なの
 です。
 で、主人公である中国からの留学生は、サイエンティストとしての
 老農学者を尊敬はするけれども、教会では中国へ行った経験のある
 宣教師が「貧しい中国」の実体を(善意から)暴き出すのに耐えら
 れない。
 で、それが高じてキリスト教(徒)そのものが嫌いになって行く…
 みたいな話。
 
 F> なるほど、例えばどんなノーベル賞を受けた科学者がそういったことを
 F> 認めていますか?
 
 科学史には疎いので、ズバリここに書かれている、という著作を
 言えませんが湯川秀樹にしろ、朝永振一郎にしろ、晩年の随想や
 随筆などで、そういう心情を吐露していませんでしょうか。
 
 最近岩波文庫に入った『科学者の自由な楽園』では、書いてあった
 かどうか、記憶にありませんが、湯川博士の禅への傾倒とか、科学を
 もうちょっと広く捉えると、西田哲学なんか、どうかなぁ。
 
 また、純粋理論数学の畑の人って、理学部哲学科って言われるとか?
 
 F> の科学で解らない事態になったときに、単に「(今は)解らない」という
 F> のが科学者としての真摯な態度だと思います。「人知を超える絶対的な
 F> 存在を認める」という姿勢は、「解らない」という状況に強引に決着を
 F> 着けようとしているように私には見えます。
 
 まぁ、そうでしょうね。
 それが科学者の態度だと思いますし、私自身もそういう態度です。
 アインシュタインも、湯川も朝永もそうだったでしょう。
 
 で、「リクツは分かった」という場合はどうですか?
 
 「リクツは分かった。しかし、このような精密に計算し尽くされた
 ようなバランス感覚の上に成り立っているという事そのものは、どう
 いうことなのだ。」という場合。
 
 単に「分かる/分からない」を超えた所で、「神の見えざる手」を
 想定せざるを得ない場面って出てくると思うんですよね。
 
 例えば…日光は自然光に頼り、水草やカワニナや金魚などはペット
 ショップで調達するとします。
 で、それらを用いて20リットル入る水槽に対して、それ以降、手を
 加えないでも大丈夫になるような食物連鎖体系を作り出すことって、
 ホントに難しいですよね。
 
 F> 人間というのはものすごく論理的なんですよね。どうしても逃れられな
 F> 事態に陥ったとき、その状況を受け入れるためになんとかして納得し
 F> (つまり論理的整合性を得)たい。
 
 それは、心理学で言うところの防衛規制の範疇での理解ですよね。
 
 「心に迷いが生じたとき、般若心経を千回読んで…」とか、
 「水垢離をして…」とか、そういうのは、「イライラ、ムカムカ
 したとき、カラオケで歌いまくる」とか、「泥酔するまで酒を飲む」
 と同レベルだと思いますが、そういうのとクリスチャンの信仰心って
 (一般化するのはマズイでしょうから、私個人の感覚で言いますけれ
 ども)かなり距離があると思うんですよ。
 
 だって、「神様がどうにかしてくれる」訳ではありませんからね。
 解決しなければ、宗教の存在は合理化の手段としては無意味なんですよ。
 
 これ、無宗教を任じる日本教徒には通じにくいと感覚なのですが、
 リクツ抜きなんですよね。
 でも、新興宗教の信徒に対する世間的な評価としてよく言われる
 「盲目的な追従」でもありません。
 
 無宗教を任じる日本教徒の感覚に一番近いたとえだと、多分、
 「母親の存在」…なのではないかと思います。
 
 自分がどんなにグレていて、そして、その少年が直面している問題の
 解決には、その母が何ら力を持っていないにも関わらず、「母の存在」
 というのは、日本人に取ってはとても大きなものでしょう?
 
 でも、だからと言って、「母ちゃんが居れば大丈夫。どんなに悪い子
 であっても、絶対に死刑にならない」とはその少年も思っていないはず
 ですよね。
 
 日本人にとっての「母親の存在」の重要さを、現地でのフィールド調査
 を一切せず、文献と、移民や捕虜からの聞き取りだけで喝破したルース
 ベネディクトの洞察力は、誠に敬服に値すると思います。
 
 なんだか、上手くまとまりませんので、この辺で書くのをやめておきます。
      
Fです。
 
 A> いえ、別に気になさることはありませんよ。
 
 安心致しました。
 
 A>                教会では中国へ行った経験のある
 A> 宣教師が「貧しい中国」の実体を(善意から)暴き出すのに耐えら
 A> れない。
 A> で、それが高じてキリスト教(徒)そのものが嫌いになって行く…
 A> みたいな話。
 
 なるほど。そういったことというのは結構多いですね。「善意の人」は
 自分が正しいと思っている分、人を傷つけたりしていることに気が付か
 ない。
  
 A> F> なるほど、例えばどんなノーベル賞を受けた科学者がそういったことを
 A> F> 認めていますか?
 A> 
 A> 科学史には疎いので、ズバリここに書かれている、という著作を
 A> 言えませんが湯川秀樹にしろ、朝永振一郎にしろ、晩年の随想や
 A> 随筆などで、そういう心情を吐露していませんでしょうか。
 
 そうなのですか。ありがとうございました。時間ができたら実際何と
 言っているのか調べて見ましょう。
  
 A> また、純粋理論数学の畑の人って、理学部哲学科って言われるとか?
 
 理論の中でも、数理論理学は哲学と近いところにありますから。でも、
 多分、今は数学科でしょう。
  
 A> で、「リクツは分かった」という場合はどうですか?
 A> 
 A> 「リクツは分かった。しかし、このような精密に計算し尽くされた
 A> ようなバランス感覚の上に成り立っているという事そのものは、どう
 A> いうことなのだ。」という場合。
 A> 
 A> 単に「分かる/分からない」を超えた所で、「神の見えざる手」を
 A> 想定せざるを得ない場面って出てくると思うんですよね。
 
 その辺の感覚が私には分からないんです。そこでなぜ、「神の見えざる
 手」が出てくるのか。確かにその精妙さに驚き感動はしますが、
 
 「このような精密に計算し尽されたようなバランス感覚の上に成り立っ
 ている」ように見えること、
 
 が不思議ならば、それは一つの問題提起だと思うのです。それなら、そ
 ういう状態がどういう経過で成立するのか更に調べるのが一つの方向で
 す。それから、そういう精密なリクツを組み立てる形で対象認識をした
 り「不思議」と感じる自分自身の脳の働きについての問題提起でもある
 訳です。これは、脳科学や認知科学の対象と考えます。
 
 A> 例えば…日光は自然光に頼り、水草やカワニナや金魚などはペット
 A> ショップで調達するとします。
 A> で、それらを用いて20リットル入る水槽に対して、それ以降、手を
 A> 加えないでも大丈夫になるような食物連鎖体系を作り出すことって、
 A> ホントに難しいですよね。
 
 作ろうと思ってもなかなかでき難く見える食物連鎖系が、自然の中では
 巧くできていることが不思議だ、とおっしゃっているのでしょうか?こ
 れについては、別の稿で「花の形と昆虫」の関係の話で書いたことと類
 似の状況・経過の結果だろうと思います。もし、「花の形と昆虫」のよ
 うな関係が有りうるならば、上記の食物連鎖系も類似の経過を辿ってか
 なりの可能性として生じ得るのではないかと思います。多分、そういっ
 た食物連鎖系というのは、よく調べてみるとかなりの必然性が見出せる
 だろうと思います。「神のみえざる手」を持ち込む必要はないだろうと
 思います。
 
 昔、子供の時に、水槽にフナと水草と砂を入れて飼っていましたが、1
 ヶ月くらいたつと、水槽にコケが生えてきて、餌などやらず、水も換え
 ず1年くらい生きていたように思います。かなりうまく食物連鎖ができ
 ていたようです。つまり、一朝一夕にはとても困難なことも、時間を掛
 けると、案外簡単にできたりすることもあります。挙げられた例は、そ
 の種のもののように思います。
 
 A> F> 人間というのはものすごく論理的なんですよね。どうしても逃れられな
 A> F> い事態に陥ったとき、その状況を受け入れるためになんとかして納得し
 A> F> (つまり論理的整合性を得)たい。
 A> 
 A> それは、心理学で言うところの防衛規制の範疇での理解ですよね。
 
 広い意味ではそうかもしれません。
 
 A> 「心に迷いが生じたとき、般若心経を千回読んで…」とか、
 A>      <中略>     そういうのとクリスチャンの信仰心って
 A> (一般化するのはマズイでしょうから、私個人の感覚で言いますけれ
 A> ども)かなり距離があると思うんですよ。
 
 では、「私個人は、<中略>どうにもならないところに追いつめられたと
 き、宗教が自己の存在基盤としてあるということに、大変、感謝しまし
 た。」と書いておられたのは、どういった経過で「感謝」するという状
 況になったのか、ご説明頂けるとありがたいのですが(プライバシーに
 関わることなので「お差支えなければ」ですが)。
 
 A> だって、「神様がどうにかしてくれる」訳ではありませんからね。
 A> 解決しなければ、宗教の存在は合理化の手段としては無意味なんですよ。
 
 「どうにかしてくれる」訳ではないけれども、「神のご意志」というこ
 で、ある程度心理的に決着は着くのでは無いのですか?映画なんかで、
 よく、肉親が理不尽に見える死に方をしたときにも、「これが神のご意
 志なのだ。」という言葉を聞きますが、なぜ、ああいった発言が出ると
 お考えでしょうか?(宗教に関する私の発言はかなりの偏見も入ってい
 る可能性が高いので、その場合はご指摘ください。)
  
 A> これ、無宗教を任じる日本教徒には通じにくいと感覚なのですが、
 A> リクツ抜きなんですよね。
 
 そこで、「リクツを抜」かないで頂きたいのです。「リクツ抜きで」と
 言ってしまうと、そこで議論を遮断することになってしまいます。
 
 A> 無宗教を任じる日本教徒の感覚に一番近いたとえだと、多分、
 A> 「母親の存在」…なのではないかと思います。
 
 「誰か一人は自分を見守ってくれているはずだ。受け入れてくれるはず
 だ。」といったことでしょうか?
  
 A> 自分がどんなにグレていて、そして、その少年が直面している問題の
 A> 解決には、その母が何ら力を持っていないにも関わらず、「母の存在」
 A> というのは、日本人に取ってはとても大きなものでしょう?
  
 A> でも、だからと言って、「母ちゃんが居れば大丈夫。どんなに悪い子
 A> であっても、絶対に死刑にならない」とはその少年も思っていないはず
 A> ですよね。
 
 「母」と近いとして、「母」と「キリスト教の神」とは違う部分があるは
 ずです。その差の部分はどんなところでしょう?
      
Aです
 
 F> 「善意の人」は
 F> 自分が正しいと思っている分、人を傷つけたりしていることに気が付か
 F> ない。
 
 「人類を救う、こんなに良い教えなのに、みんなに教えてあげないのは
 残念だ。私は、あなたたちのために布教しているのです。」みたいな勧誘
 文句ですよね。
 環境に優しい洗剤を会員制で売ります、とかのネズミ講まがいの商売と、
 良く似通っていると思います。
 
 宗教って、胡散臭いですよねぇ…。
 
 F> その辺の感覚が私には分からないんです。そこでなぜ、「神の見えざる
 F> 手」が出てくるのか。確かにその精妙さに驚き感動はしますが、
 F> 
 F> 「このような精密に計算し尽されたようなバランス感覚の上に成り立っ
 F> ている」ように見えること、
 F> 
 F> が不思議ならば、それは一つの問題提起だと思うのです。
 
 Fさんの視点は、
 
 *システムそのものの仕組み、精妙さなどに対する知的興味。
 
 言い換えると、
 
 *そのシステム総体を構成している様々な要素(パラメータ)
   を分割・分解して、その複合的な影響関係を解明したい…という欲求。
 
 に主眼がありますよね。
 私が言いたいのは、そこまでの思考で留まってしまうのがサイエンスの
 限界なんだ、ということです。
 
 では「なぜ、こんなものが今、ここに存在していなければならないのか?」
 という問いですね。
 「存在する」ということそのものの理由を問う、ということです。
 
 食物連鎖の話を持ち出したのも、そういった思考の流れです。
 
 その問いが出た時に、サイエンスの視点では「だって、厳然として今、
 目の前にあるじゃん。その事実は、その事実として(無批判に)受け
 入れるに如くは無い。」と判断停止をしてしまっているように思うの
 ですね。
 
 私は、そこに神を見(たことにしてい)ますが、科学者としての
 Fさんは、<「存在する」ということそのものの理由>をどのよう
 に捉えていらっしゃいますか?
 
  # このカッコで括った(たことにしてい)の部分、正直なところです。
  # 盲目的信者ではない私は、常にここで揺れ続けています。
 
 F> た。」と書いておられたのは、どういった経過で「感謝」するという状
 F> 況になったのか、ご説明頂けるとありがたいのですが(プライバシーに
 F> 関わることなので「お差支えなければ」ですが)。
 
 詳しくは書けませんが、端的に。
 
 私は子供の頃から「こましゃくれた生意気な子供」と言われて
 育ってきました。
 
 「我思う故に…」ではありませんが、言葉(語彙量)や知識(の量)
 で自分の関わる世界を解明・支配できると思っていました。
 
 そういうわけで、誰に対しても思ったままに、あからさまで敵愾心を
 剥き出してでも、自分なりに筋が通っているはずだ、と思う言葉を
 投げつけて生きてきました。
 
 でも、ある程度の年齢になると、それだけじゃ、自分を守って行け
 なくなってしまうのですね…。
 
 今まで自分の武器であり、拠り所であった言葉というものが、全く
 頼りないものになります。
 
 若くて、ある程度の体力がある時期には、「若者らしい(時に
 よっては子供っぽい)<全能感>」が体中を満たしているという
 時期ってありませんかね?
 
 成功経験の裏打ちさえも無い自信なわけですから、私は、これを
 「何も根拠がないけれど、とても大切な自信」の根源と位置づけ
 ています。
 
 それを失った時に、自分のバックボーンとして、「何も根拠がない
 けれど、とても大切な自信」の根源として、宗教があった…という
 科学的な筋書きでの言い方が、分かりやすいでしょうか?
 
 ホントはこういう科学的な筋書きで言い尽くせるものでは無いよう
 な気もしますが、対話として成立させるための方便として、このような
 説明方法を採りました。
 
 なお、これを防衛規制による「代替」だ、と言われると、私には揚げ足
 取りにしか感じられませんのでおやめ下さいね。
 私が言いたいことの中心は、「若者に見られがちな根拠の無い自信」に
 非常によく似ている(と私は思う)、ということです。
 
 F> よく、肉親が理不尽に見える死に方をしたときにも、「これが神のご意
 F> 志なのだ。」という言葉を聞きますが、なぜ、ああいった発言が出ると
 F> お考えでしょうか?
 
 あぁ…なるほど…。そういう典型的な描写ってありますよね…。
 
 それね…私も理解できません。
 「神のご意志」とか「神の与えたもう試練」などと言う輩の心情は、
 私には全くサッパリ分かりません。共感も納得も一切ありません。
 
 映画などでそういう場面を見ても、内心では「嘘こけ!」と私は
 思っちゃいますね。
 
 思いますに、あれって、宗教特有の「標語」とか「徳目」に過ぎない
 んじゃないですかね?
 
 (これは私の心にある偏見かも知れませんが、)西欧人の基本的な
 スタンスは、愛する肉親を殺されたら、差し違えてでも物理的に
 直接的かつ、精神的に最大限の効果を狙って仕返しをするというのが
 プロトタイプではないかと疑っています。
 
 十字軍の歴史も、その事を証していますが、現時点で「事実上、キリ
 スト教徒が大勢を占める国」の思考方法については、2001年9月11日の
 事件に対する、アメリカ政府と、その国民が、どのように打って出るか…
 これが試金石になると思います。
 
 え〜と…韓非子でしたっけ?
 法家が儒家を揶揄した言葉にも、「徳目を声高に言うのはその徳目が
 実現されていないからだ」という趣旨の言葉があったと思います。
 何だか、それに通ずるような気がしますね。
 
 F> 「誰か一人は自分を見守ってくれているはずだ。受け入れてくれるはず
 F> だ。」といったことでしょうか?
 
 耶蘇の人には、そういう人も多いかも知れません。
 私には「見守ってくれているはず」というような発想はありませんね。
 
   # 少なくとも、自己を内省した時の一義的な層では。
   # もう少し、心のタマネギの皮を剥いてみると、その芯の部分に、
   # そういう心情が潜んでいるのかもしれませんが。
 
 「若者に見られがちな根拠の無い自信」とか幼児の「全能感」の根源に
 近いなぁ。
 「なんだか別に根拠はないけど、でも大丈夫。OK!」っていう感じ。
 
 でも、先回りして言っておきますと、私個人について言えば、陶酔感とか
 一体感とかは全然ないんですよね。
 
 陶酔感や一体感などは、むしろ、ストラビンスキーを大音響で(ヘッド
 ホン付けてですが)ぶっ通しで聞いている時に感じられます。
 
 F> 「母」と近いとして、「母」と「キリスト教の神」とは違う部分があるは
 F> ずです。その差の部分はどんなところでしょう?
 
 母の方が自分に優しい(=甘い)です(笑)。
 
 キリスト教の神は、聖書に拠る限りは、極めて冷厳ですね。
 
 もちろん、これは、宗派によって教会からの要求度の厳しさが
 違いますが、日本のいわゆる「葬式仏教」と比べた場合、規律・
 規範としての精神的な強制力、圧迫感が極めて強いと思います。
 
 日本の場合は、カトリックの方が古くから土着し、しかも「カト
 リックは堕落している」というイメージは皆無なので、倫理的な
 「口うるささ」の度合いは以下のような感じでしょう。
 
 新興プロテスタント > プロテスタント > カトリック
 
 詳しくは知りませんが、欧米では
 
 新興プロテスタント > カトリック > プロテスタント
 
 という図式のようです。
 
 女房が見ていたアメリカの学園物ドラマで、パーティに繰り出す場面
 がありました。そこで、「カトリックの女は口説くなよ。セックスで
 きないぞ。」というような台詞に出くわし、驚いた記憶があります。
 
 ※ ここでは「新興プロテスタント」に、輸血を拒否する「物見の塔」
    や、コーヒー、紅茶、煙草、酒を飲まない「モルモン教」など、
    他の宗派からはキリスト教と認められていない場合がある宗派も
    含めて言っています。
 
 なお、私はカトリックなので、適当、いい加減。
 週に一度の義務である<らしい>教会にもここ15年ほど行っていま
 せんし、『聖書』を"絶対の聖典"だとはこれっぽっちも思っていません。
 
 気分的には論語と同じ位置づけ。
 
 全部を孔子の言葉、孔子の教えだとは信じないけど、当時の社会的背景
 として、こういう思想集団、思想傾向があった…。ということを見透かす
 素材としての位置づけということです。
 
 むしろ、語学が得意であれば、成立・増補過程の文献学的研究やら
 羊皮紙文書の書誌学的研究をやって、「キリスト教」とか「キリストの
 教え」いう「括り」をぶちこわしてみたい、という欲求もあります。
      
Fです。
 
 Aさん、私のやや挑発的な発言に丁寧にお答え頂きありがとうござい
 ます。
 
 A> 私が言いたいのは、そこまでの思考で留まってしまうのがサイエンスの
 A> 限界なんだ、ということです。
 A> 
 A> では「なぜ、こんなものが今、ここに存在していなければならないのか?」
 A> という問いですね。
 A> 「存在する」ということそのものの理由を問う、ということです。
 
 その設問自体は妥当なのでしょうか?何にでもAさんが期待する(後
 述*)ような「理由がある」とすることは妥当なのでしょうか?その発
 想そのものに疑問は無いのですか?また、どのような問いにも答えがあ
 るかどうか。例えば「この文はうそだ。」のような文が真偽判定不能な
 ように。(こういったことを言うと「それが思考停止する方向だ。」
 と言われそうですが。)
 
 それと、「存在する理由を問う」たときに、「神の見えない手」まで持
 ち出してきて決着をつけなければいけませんか?Aさんがいろいろと
 考えてお解りにならなければ、「わからん。」ではだめですか?Aさ
 んご自身はかなり頭の良い方と思いますが、それでも「解らない」こと
 があっても良いのではありませんか?少し、性急に解や結論を求めすぎ
 ているような気がします。
 
 A> その問いが出た時に、サイエンスの視点では「だって、厳然として今、
 A> 目の前にあるじゃん。その事実は、その事実として(無批判に)受け
 A> 入れるに如くは無い。」と判断停止をしてしまっているように思うの
 A> ですね。
 
 それは誤解だと思います。もちろん、存在することそのものは(五感で知
 覚できたり、その拡張である測定器によって観測できたりすれば)素直に
 受け入れますが、(Aさんはそれさえも拒否する、ということではない
 ですよね?)そこで思考停止はしないでしょう。ただ、存在理由について
 の思考の方向が少し異なるとは思います。つまり、「どういうメカニズム
 と経過でそこにそれが存在するようになったか。」という思考ですね。
 
 多分、そこがAさんにはご不満なんでしょう。「*そこに存在する意義
 /必要性」のようなものを期待されているのではないかと思います。しか
 し、「何にでも存在理由(意義/必要性)がある。」と考えるのは妥当でし
 ょうか?人間の都合の良い思い込みのような気もします。例えば「自分の
 存在の意義/必要性」などは、「ある」と考える方が「無い」と考えるよ
 り生きるのに心理的に楽なので、「ある」と考えたくなります。しかし、
 それは生きやすくするための便法なのではありませんか?事実、現実に自
 分が誰かから必要とされれば、そのことが自分自身の生きる糧になる訳で
 すから。
 
 それと、「理由」といったときに、例えば「ここに椅子がある。その存
 在の理由は?」という質問に、Aさんはどう答えますか?「神の見え
 ざる手」がそこに椅子を存在させた、と考えるのですか?
 
 A> 私は、そこに神を見(たことにしてい)ますが、科学者としての
 A> Fさんは、<「存在する」ということそのものの理由>をどのよう
 A> に捉えていらっしゃいますか?
 
 先ほどの椅子の例で具体的に考えると、例えば「私が置いたからです。」、
 「なぜ、置いたのかと言えば、私が座りたいため。」、「なぜ座りたいの
 かと言えば、疲れていたから。」といった回答の連鎖になるでしょう。そ
 のような連鎖はいろいろな経路がありえますが、あるところまでさかのぼ
 ると、「その理由は今の私の知識では分かりません。」というところに行
 き着くでしょう。
 
 A>  # このカッコで括った(たことにしてい)の部分、正直なところです。
 A>  # 盲目的信者ではない私は、常にここで揺れ続けています。
 
 好ましいですね。
  
 A> 私は子供の頃から「こましゃくれた生意気な子供」と言われて
 A> 育ってきました。
 A> 
 A> 「我思う故に…」ではありませんが、言葉(語彙量)や知識(の量)
 A> で自分の関わる世界を解明・支配できると思っていました。
 
 なるほど、私とは全く逆ですね。私は、子供のときからボーッとしてい
 て、「なんで皆あんなに話が通じる(ように見える)んだろう?物事が解
 るように見えるんだろう?」と思っていました。未だにそれは続いてい
 ます。
 
 A> でも、ある程度の年齢になると、それだけじゃ、自分を守って行け
 A> なくなってしまうのですね…。
 A> 
 A> 今まで自分の武器であり、拠り所であった言葉というものが、全く
 A> 頼りないものになります。
 
 なるほど。「科学万能」と思っていた人ほど、そのときの科学で解らな
 い事態にぶつかったら、こんどは「科学否定」に走ってしまう、1or0
 的反応がありますが、Aさんの発言からは、「言葉万能?教」からわ
 りとバランスよく中間点にソフトランディングされている感じがあるの
 ですが。というのは、「全く頼りにならない。」とおっしゃっているわ
 りには、こうやって言葉で議論しているのですから。と言って、逆に、
 言霊信仰に陥っているようにも見えない。
 
 A> 若くて、ある程度の体力がある時期には、「若者らしい(時に
 A> よっては子供っぽい)<全能感>」が体中を満たしているという
 A> 時期ってありませんかね?
 
 私は、「劣等感と無能感と自信の無さ感と不安感」で一杯でした。
 (だから、「子供のときに戻りたい」などとは思わない。)
 「解らん」ことだらけ。特に「他人」が解らん。自信が持てたのは、理
 科の授業のときだけ。その他の日常生活や対人関係はどうもなんとも無
 能だし自信なしでした。今でもその感覚は付き纏っています。年とって
 きて、ずうずしくなって、こんなところでエラソーなことを書いたりし
 ていますが。
  
 A> 成功経験の裏打ちさえも無い自信なわけですから、私は、これを
 A> 「何も根拠がないけれど、とても大切な自信」の根源と位置づけ
 A> ています。
 
 どうしてそんな自信がもてたんでしょうね?私が自信を持てなかったの
 で、自信が持てた人が不思議なんです。
 
 A> それを失った時に、自分のバックボーンとして、「何も根拠がない
 A> けれど、とても大切な自信」の根源として、宗教があった…という
 A> 科学的な筋書きでの言い方が、分かりやすいでしょうか?
 
 なるほど。
  
 A>         対話として成立させるための方便として、このような
 A> 説明方法を採りました。
 
 ご配慮、ありがとうございました。
 
 A> なお、これを防衛規制による「代替」だ、
 
 あ、なるほどそういう見方もできますか。
 
 A>                    と言われると、私には揚げ足
 A> 取りにしか感じられませんのでおやめ下さいね。
 
 承知致しました。
 
 A> 私が言いたいことの中心は、「若者に見られがちな根拠の無い自信」に
 A> 非常によく似ている(と私は思う)、ということです。
 
 「似ている」の主語は、「宗教というバックボーンが」ということです
 か?
 
 A> F> よく、肉親が理不尽に見える死に方をしたときにも、「これが神のご意
 A> F> 志なのだ。」という言葉を聞きますが、なぜ、ああいった発言が出ると
 A> F> お考えでしょうか?
 A> 
 A> あぁ…なるほど…。そういう典型的な描写ってありますよね…。
 A> 
 A> それね…私も理解できません。
 A> 「神のご意志」とか「神の与えたもう試練」などと言う輩の心情は、
 A> 私には全くサッパリ分かりません。共感も納得も一切ありません。
  
 ということは、Aさんはキリスト教信者としては小数派のような気が
 します。映画だけでなく、多くのキリスト教信者が自分の気持ちに決着
 を着けようとするときにそういった発言をするような気がしますが、こ
 れは偏見ですか?
 
 A>                        西欧人の基本的な
 A> スタンスは、愛する肉親を殺されたら、差し違えてでも物理的に
 A> 直接的かつ、精神的に最大限の効果を狙って仕返しをするというのが
 A> プロトタイプではないかと疑っています。
 
 明らかな犯人?が特定できる場合はそうかもしれません。しかし、病気
 や事故で死んだときはどうなのでしょう。「神のご意志」をもってくる
 ことはしないのでしょうか?
 
 <後略:この後の部分についてはまた後ほどコメント致します。キリス
  ト教についてのいろいろな知識をありがとうございました。>
      
Fです。
 
 A>       日本のいわゆる「葬式仏教」と比べた場合、規律・
 A> 規範としての精神的な強制力、圧迫感が極めて強いと思います。
 
 Messiahの第1部第21曲の内容(下)はそのことを逆説的に物語
 っているものと解釈してよいのでしょうか?そう解釈したくなるのです
 が。
 
     his yoke is easy, his burthen is light.
   主のくびきは易く、主の荷(主が我々に課す荷)は軽い。
 
 がポリフォニックに繰り返される(これが音楽として面白い)。これは、
 その前曲の
 
     take his yoke upon you, and learn of him,
   主のくびきをあなたも着けて、主のことを学びなさい。
 
 を受けてのものですが・・・。
  
 A> 日本の場合は、
 A>                          倫理的な
 A> 「口うるささ」の度合いは以下のような感じでしょう。
 A> 
 A> 新興プロテスタント > プロテスタント > カトリック
 
 ヘンデルはルター派に生まれたけれども、カトリックの曲も作っている
 らしく、宗教的には複雑だったようですね。バッハもルター派だったそ
 うですが。いずれにしろ、ポリフォニックな音楽が好きな私にとってバ
 ッハやヘンデルの曲は宝ですね。ベートーヴェンもポリフォニックな技
 法を各所に使っています。例えば第九の第2楽章に効果的に使われてい
 ますし、第4楽章では、2重フーガが出てきます。話が横道にそれまし
 たが。
  
 A> 詳しくは知りませんが、欧米では
 A> 
 A> 新興プロテスタント > カトリック > プロテスタント
 A> 
 A> という図式のようです。
 
 そうなんですか。なんとなく、カトリック>プロテスタント と思って
 いたのですが、日本では違うんですね。
  
 A> ※ ここでは「新興プロテスタント」に、輸血を拒否する「物見の塔」
 
 例の「エホバの証人」という派ですね。新興プロテスタントなのですか。
 カトリックの一派かと思っていました。
 
 A>    や、コーヒー、紅茶、煙草、酒を飲まない「モルモン教」など、
 A>    他の宗派からはキリスト教と認められていない場合がある宗派も
 A>    含めて言っています。
 
 モルモン教も戒律が厳しいようですね。昔読んだ、シャーロック・ホー
 ムズの「緋色の研究」だったかに、モルモン教が出てくるのですが、モ
 ルモン教の戒律と殺人の動機が関係していたように思います。ホームズ
 はモルモン教をあまり良く書いていなかったように記憶します。
 
 A> むしろ、語学が得意であれば、成立・増補過程の文献学的研究やら
 A> 羊皮紙文書の書誌学的研究をやって、「キリスト教」とか「キリストの
 A> 教え」いう「括り」をぶちこわしてみたい、という欲求もあります。
 
 オリジナルの「キリスト教」と、現在、キリスト教と呼ばれている色々
 な宗派は、変化と淘汰を繰り返して、多様に分化しているようなので、
 一口で「キリスト教」と呼ぶのは不適切かもしれませんね。
      
Fさん
 
 Aです
 
 以下、哲学的な思想についての話題
 
 F> また、どのような問いにも答えがあ
 F> るかどうか。例えば「この文はうそだ。」のような文が真偽判定不能な
 F> ように。(こういったことを言うと「それが思考停止する方向だ。」
 F> と言われそうですが。)
 
 一時期は「クレタ人は嘘つきだ」とか「飛んでいる矢は止まって
 いる」とか、そういう哲学理論というか、パラドックス理論のよう
 なものにも興味を持ちましたが、折しも、その頃の日本の哲学思潮
 って「ニューアカ」の最末期だったんですね。
 
 新しいモデル理論が生まれては、それがすぐに解体されて行く
 様子がリアルタイムで入ってくる(世代論として後述します)。
 
 今考えてみれば、外来の考え方をそのまま輸入して日本の個別的
 な状況(の中で説明しやすい物)に当てはめて説明していただけ
 なんですから、瓦解して当然なんですが、ただ、その当時は、
 「真理は普遍」であり、哲学は真理を追究する学問であり、それ
 が水掛け論的状態に陥った時、「相対化」(岸田秀だったかな?)
 という一種の逃げとも取れる姿勢が、カードゲームのワイルドカ
 ードとして残った…と。
 
 そんなアホらしい状況に、「テツガク」じゃ、ダメだ…。と思いま
 した。
 
  # ここ10年ほどの日本のジェンダー論なんかでも、輸入と適用
  # →輸入元での反証→日本で紹介された頃には既に本国では瓦
  # 解している…という流れがあるようですね…。
 
 F> 多分、そこがAさんにはご不満なんでしょう。「*そこに存在する意義
 F> /必要性」のようなものを期待されているのではないかと思います。
 
 そうです。五感の知覚や、科学によって目に見えないような微細
 な物質の存在が立証されること、そういうものに疑問は持ってい
 ません。
 
 F> 「似ている」の主語は、「宗教というバックボーンが」ということです
 F> か?
 
 そうです。
 
 F> その設問自体は妥当なのでしょうか?何にでもAさんが期待する(後
 F> 述*)ような「理由がある」とすることは妥当なのでしょうか?
 
 F> それと、「存在する理由を問う」たときに、「神の見えない手」まで持
 F> ち出してきて決着をつけなければいけませんか?Aさんがいろいろと
 F> 考えてお解りにならなければ、「わからん。」ではだめですか?
 
 「わからん」ではダメなんです。
 性急に、わかろうと問い続けねばなりません。
 
 私自身にとっては、私自身の存在意義、あるいは自己同一性の
 確保を現時点まで、緊急的に解決が必要な課題として生きてき
 ているからです。
 
   # 宣長が古事記研究をやった心情に近いのかもしれません。
   # 彼の排外的思想には辟易としますが…。
 
 これは個人の心情の問題ですので、宗教とリンクさせてその信者
 の精神に一般化して述べるのは、妥当ではないように思います。
 
 ただ、プロテスタントのキリスト教信者は、ウェーバーを読んで
 とても安心したのではないか、ということは指摘しておきます。
 
 ここ数日、返信を止めたのは、Bさんが[Baien:3883] で
 
 B> 神について語ろうと、科学について語ろうと、結局は、それぞれの「私
 B> の世界」について語っているにすぎません。
 
 と仰ったのと同じ事に、返信を書いている途中で気づいたからです。
 
 普遍化できない問題を書いても、共有できないな…と。
 文章の落とし所をどういう風に持って行くか、ちょっと困っていました。
 
 でも、話題の主軸を少しずらして、もう少しだけ続けますね。
 
 第一次ベビーブーマーは、学生運動を経た上で、対ドルでの円の
 価値を高める事を至上の使命とした経済戦士としても能力を発揮
 しました。
 
 そのことは、彼らの精神活動の軌跡の中で上手く繋がっている
 のか、それとも精神的な転向、現実の認識と捉えられているのか?
 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の表層的な
 理解で解決したのか?とか。
 
 F> し、「何にでも存在理由(意義/必要性)がある。」と考えるのは妥当でし
 F> ょうか?人間の都合の良い思い込みのような気もします。
 
 高度経済成長の頃は、「欲しいから働く」だったと思いますが、
 バブルの頃は、「なぜ」「何のために」儲けるのか、を問わな
 かったように思います。
 そのツケが今、来ていませんでしょうか?
 
 これを、「人間の精神活動を司るシステムの解明」の方向で考える
 アプローチで行くのが科学だと思います。
 
 それと同時に、<どうして・何のために>「人間の精神活動」が
 存在しているのか、この理解(解明?)が必要だと私は思います。
 
 F> 先ほどの椅子の例で具体的に考えると、例えば「私が置いたからです。」、
 F> 「なぜ、置いたのかと言えば、私が座りたいため。」、「なぜ座りたいの
 F> かと言えば、疲れていたから。」といった回答の連鎖になるでしょう。そ
 F> のような連鎖はいろいろな経路がありえますが、あるところまでさかのぼ
 F> ると、「その理由は今の私の知識では分かりません。」というところに行
 F> き着くでしょう。
 
 そうです。そこまで問いつめたときに、現時点での私は「神の存在
 を見た(ことにし)ている」というわけです。
 
 F> 合理的に語りうる部分
 F> においては、宗教も非常に合理的・理性的に語っているように見えます。
 F> その合理的であろうとした姿勢が、「神」のところで突然断ち切られる
 F> (と私は感じる)。そこが私には腑に落ちない。
 
 「どうして」と「何のために」は常にセットであり、一方が欠落
 することは(私にとっては)不完全な態度に思われます。
 
 例えば、芸術家が絵を描きます。
 彼は自身が描いた絵を「これで完成」とし、絵筆を置きました。
 
 で、<どうして>その絵が「これで完成」なのか?もっとここに、
 こういう色や、こういう物を描き入れても入れても良かったのでは
 ないか?という問題が一点目。
 
 そしてその問題は彼が<何のために>それを描いたのか?という
 問題が二点目。
 
 そしてその二つの問題を総合した所に、<どうして>その絵が、
 今ここに物質として、また、彼の精神表現として<存在せねば
 ならなかった>のか?という最終的な問題点が不可分に提起されて
 きます。
 
 逆説的な言い方ですが、この最終的な問題点を「わからない」で
 済ましてしまうのは、「それは神のお導きだから」という説明と
 同じに思えるんですね。
 
 自分の中で考えがまとまっていないので、はぐらかすような書き方
 にしかならないのが申し訳ないのですが、私の中にある宗教観と、
 Fさんの中にある「わからない」は本質的にはそんなに距離は
 無いのかもしれません。
 
 現時点では、両方とも、「判断停止のありさまの一形態」と定義
 するより他にありません。
 
 但し、それは、「論理的な言い方」という「公理系」の範疇では、
 という保留がつきます。
 
 私は、議論するための道具として、私は「論理的な言い方」しか
 知らないから、それを使っているだけです。
 
 でも、数学の公理系では、証明できない真の命題が存在する、
 ということは既に証明済みのはずですよね?そこが問題なのです。
 
  # 理系分野では、「すべての公理系を包括可能な公理系」の
  # 確立を模索する動きはありますか?
 
 で、Fさんと私とで一番距離があるのは、「わからない」とい
 うことに対するスタンスだと思うのですね。
 
 法学では「生存権」を単に「生きる権利」とはせず、「文化的な
 生活を営む権利」と「定義」しているようです。
 
 近代社会の形成過程で、この定義が「発明」された時こそが、
 科学としての倫理学(法倫理学?)が勝利した事例だと言える
 と思います。
 
 で、今、更に「生きている」ということの定義をどう考えるか。
 事故で植物状態の人間について「細胞が生きている」と科学的
 には言える。
 では、倫理学的には?哲学的には?宗教(学)的には?
 
 「わからない」で済ませずにいられない問題だと思っています。
 
 ここから敷衍すべき問題については、既にBさんが[ML:03890]
 で言い尽くしていらっしゃるので、この辺で留めておきます。
 
 −−−−−−−−−−−−−−−−
 以下、世代論の話題
 
 土台になっている時代思潮や人格形成って、世代間格差があると
 思います。
 
 実際問題、対話の土俵を共有できるのかどうかも現時点では自信が
 ありません。
 
 直接・間接にマルクス主義思想という(非常に科学的な)社会
 理論からの影響を避けられなかった世代が、現時点でその当時
 の、ワケの分からない混乱をどのように総括しているのか…?。
 それに対する理解が私には欠けていますので…。
 
 因みにFさんは、私の父よりも、一つ年下です。
 第一次ベビーブームの世代は、私にとって大変、興味深い世代です。
 
 F> 私は、「劣等感と無能感と自信の無さ感と不安感」で一杯でした。
 
 F> A> 成功経験の裏打ちさえも無い自信なわけですから、私は、これを
 F> A> 「何も根拠がないけれど、とても大切な自信」の根源と位置づけ
 F> A> ています。
 F> 
 F> どうしてそんな自信がもてたんでしょうね?私が自信を持てなかったの
 F> で、自信が持てた人が不思議なんです。
 
 子供の頃の食生活が違うからなのかなぁ?
 
 敗戦直後の生まれで、卵が、病人だけの特別な食事だった頃。
 生まれたときから哺乳瓶と粉ミルクがあった、天上天下唯我独尊の乳児。
 
 この差ではないかな…、と…。どうなんでしょう?
 
 なお、この間に、1950年代中頃〜1960年代生まれの世代があります。
 彼らのヒーローは、長島茂雄や王貞治であり、「巨人の星」や
 「明日のジョー」で描かれる比較的貧困な家庭が、自身の、
 或いは学友の家庭として身近に存在した…という世代です。
 
 この世代は「野球選手になればお金持ちになれる」という
 原初的な発想が息づいているように観察しています。
 
 「サッカー選手になればお金持ちになれる」とブラジルの
 子供達が思っているのに相似しているかもしれません。
 
<中略>

 
 F> 明らかな犯人?が特定できる場合はそうかもしれません。しかし、病気
 F> や事故で死んだときはどうなのでしょう。「神のご意志」をもってくる
 F> ことはしないのでしょうか?
 
 私は絶対にそういう考え方をしませんが、いわゆる「<典型的な>
 クリスチャン」は、そうする人も多いかもしれません。
 この点に関しては、Fさんの洞察の通りだと思います。
 
 葬式仏教徒がそう考えているとは到底思えませんが、正統な仏教
 教義では「輪廻転生」という概念で、解決するようです。
 
 新約聖書の文面を忠実に理解した場合のキリスト教の教義では、
 「神に召され、新しい神の国が開かれるまで待っている」と解釈
 するようです。
 
 どちらも、その果てには生前の行いが良ければ、死後はパラダイス
 へ行けるという思想が(布教を有利にするために?)宗教として成
 立して以降、(恐らくは途中で)付け加えられたように思います。
 
 しかし、「極楽へ行きたいから」と本心から思って念仏を唱える
 仏教徒は、日本では(たぶん)居ないでしょう。
 
 それと同様に、私の知っている限りのクリスチャンの知人には、
 「最後の審判で神の国に行きたいから」という理由で自分を律して
 いる人はいません。
 
 「信仰心があれば、(現実社会の問題から)救われる」と思って
 いるクリスチャンもいないのではないでしょうか。
 
 テレビドラマなどでやっている「信ジル者ハ救ワレマァース!」
 なんていう外人宣教師像で表現される紋切り型のキリスト教観
 は、カトリックやプロテスタントの「<典型的な>クリスチャン」
 の像としては、随分と誤解を招いているように思います。
 
 但し、新興プロテスタントは、その傾向があるかもしれません。
 駅前で「目覚めよ!最後の審判が間もなくやって来る!」なんて
 看板を持って拡声器で演説しているような宗派もありますからね。
 
 ただ、比較的に伝統のあるキリスト教の宗派では、神は、ご利益
 主義とは全く相容れない存在として位置づけられているはずです。
      
Fです。
 
 A> F> また、どのような問いにも答えがあ
 A> F> るかどうか。例えば「この文はうそだ。」のような文が真偽判定不能な
 A> F> ように。(こういったことを言うと「それが思考停止する方向だ。」
 A> F> と言われそうですが。)
 A> 
 A> 一時期は「クレタ人は嘘つきだ」とか「飛んでいる矢は止まって
 A> いる」とか、そういう哲学理論というか、パラドックス理論のよう
 A> なものにも興味を持ちましたが、
 
 ちょっとAさんの論旨とはずれますが、「クレタ人は嘘つきだとクレ
 タ人が言った。」と「飛んでいる矢は止まっている。」は全く違うタイ
 プの命題ですね。後者は単なる誤謬です。
 
 A> そんなアホらしい状況に、「テツガク」じゃ、ダメだ…。と思いま
 A> した。
 
 確かに、私も「哲学」をあまりかっていないですね。しかし、子供のと
 きから哲学めいた話は好きでした。今でもそうですが。
  
 A> F> 「似ている」の主語は、「宗教というバックボーンが」ということです
 A> F> か?
 A> 
 A> そうです。
 
 解りました。ちょっと私の頭の言語処理能力が低くて、照応関係の確定
 に自信がありませんでした。
  
 A> F>                       Aさんがいろいろと
 A> F> 考えてお解りにならなければ、「わからん。」ではだめですか?
 A> 
 A> 「わからん」ではダメなんです。
 A> 性急に、わかろうと問い続けねばなりません。
 
 なるほど。Aさんの姿勢は了解致しました。私は、自分の一生の内で
 全てを解ることにはあきらめています。解らないことが多数残るだろう
 と思っています。少しでもそれを減らしたいですが。
  
 A> ここ数日、返信を止めたのは、Bさんが[ML:3883] で
 A> 
 A> B> 神について語ろうと、科学について語ろうと、結局は、それぞれの「私
 A> B> の世界」について語っているにすぎません。
 
 このことは、私にしても同じで、「私が知覚し、認識している世界」に
 ついてしか語りようがないですね。その前提の上でここでこうして議論
 している訳です。それでも、それぞれの認識に、お互いにある程度の合
 意・理解ができているように見える。それが私には不思議だし興味があ
 る訳です。その仕組みを知りたい。
 
 A> 第一次ベビーブーマーは、学生運動を経た上で、対ドルでの円の
 
 <中略>
 
 A> 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の表層的な
 A> 理解で解決したのか?とか。
 
 この辺りは、私には知識がありません。
  
 A> 高度経済成長の頃は、「欲しいから働く」だったと思いますが、
 A> バブルの頃は、「なぜ」「何のために」儲けるのか、を問わな
 A> かったように思います。
 A> そのツケが今、来ていませんでしょうか?
 
 少し問題に飛躍があるように思います。「何のために儲けるか」と問わ
 れれば、例えば「儲けたお金で美味しいものを食べて、立派な家を建て
 て、・・・。」のような答えはある訳です。そのこと自体が妥当かどう
 かはいろいろな観点から議論できるとは思いますが、「神」を認めるこ
 ととのつながりが解りません。
  
 A> 「どうして」と「何のために」は常にセットであり、一方が欠落
 A> することは(私にとっては)不完全な態度に思われます。
 
 Aさんの姿勢がそうだということは了解致しました。それも一つの姿
 勢なのでしょう。
  
 A> 例えば、芸術家が絵を描きます。
  
 A>         彼が<何のために>それを描いたのか?という
 A> 問題が二点目。
 
 「自分の表現欲を満足させるため。」とか「売ってお金を儲けるため。」
 ではダメですか?
  
 A> 逆説的な言い方ですが、この最終的な問題点を「わからない」で
 A> 済ましてしまうのは、「それは神のお導きだから」という説明と
 A> 同じに思えるんですね。
 
 「解らない。」というのは「永遠に解らない。」と言っているのではな
 く「今は」あるいは、「これこれの条件の下では」という意味なので、
 決着が着いていないのです。「神」を持ってくると決着がついてしまい
 ませんか?
  
 A>                    私の中にある宗教観と、
 A> Fさんの中にある「わからない」は本質的にはそんなに距離は
 A> 無いのかもしれません。
 
 そうかもしれません。
 
 A> 私は、議論するための道具として、私は「論理的な言い方」しか
 A> 知らないから、それを使っているだけです。
 
 人間は「論理」からは逃れられないようです。その能力によって生き延
 びて来た訳ですから(「だから、論理を放棄することは人間を放棄する
 ことに等しい。」・・・とまでは言いませんが)。
 
 A> でも、数学の公理系では、証明できない真の命題が存在する、
 A> ということは既に証明済みのはずですよね?そこが問題なのです。
 
 これは「ゲーデルの不完全性定理」のことをおっしゃっているのでしょ
 うか?もし、そうならば違います。「証明できない『真の』命題が存在
 する。」ではなくて、(そもそも、「真」であることが解っているなら
 証明の必要は無い訳です。次のも大雑把な言い方ですが)「真偽の判定
 ができない命題が存在する。」です。「ゲーデルの不完全性定理」を拡
 大解釈しすぎる風潮が世間にはありますが、厳密に言うとそんなに何に
 でも当てはまる定理ではないのです。
 
 A>  # 理系分野では、「すべての公理系を包括可能な公理系」の
 A>  # 確立を模索する動きはありますか?
 
 済みません。これについては知りません。
 
 <後略:後半については、また後ほど>
      
Fです。ゲーデルの不完全性定理について少し書きます。
 あわせて以前、Aさんが書いておられた件についての私のコメントに
 間違いがあったことのお詫びです。
 
 ----------------------------------------------------------------
 [ゲーデルの第一不完全性定理]
 ペアノの公理系を含む無矛盾な論理体系には真/偽が決定できない命題
 がある。
 (少し限定的な書き方をしています。本当の同定理はもう少し一般的な
  形をしています。この他に第二不完全性定理というのもありますがこ
  こではふれません。上記の中の「無矛盾」という条件も重要です。矛
  盾を含む体系ではいかなる命題も導けると言う意味でどんな命題も真
  になります。)
 ----------------------------------------------------------------
 不完全性定理の証明では、「この文は偽である。」のようなタイプの命
 題が使われます。確かにこのような文はパラドクスではあるのですが、
 重要な欠点があります。つまり、「この文」という指示詞を使っていて
 「この文」がどの文を指すのかが曖昧である、ということです。そこで、
 ゲーデルは、ゲーデル数という手法を用いて、明示的・具体的に「この
 文」の部分に「この文は偽である。」を埋め込んで(ただ文を埋め込ん
 でも「この文」という指示詞は残るので工夫が必要です)、指示詞を除
 去した訳です。これにより、論理的に厳密な形で上記のような文が論理
 体系の中の形式的に整った命題として取り込めた訳です。重要なことは、
 「この文は偽である。」のような文は「文に関する文」なので、実質的
 には2階の述語になるのですが、ゲーデル数という手法により、見かけ
 上1階の述語論理式の形に表現してしまえたことです。これが、ゲーデ
 ルの証明の鍵なわけです。これをやるときに使われたのがペアノの公理
 (自然数の公理系)です。
 
 さて、上記命題を少し変えた「この命題は証明できない。」という命題
 を考えてみます。この場合、上記の命題と状況が変わります。ゲーデル
 数の手法を適用して、「この命題」という指示詞を除去したとします。
 (ゲーデル数の話は難しい話ではないのですが長くなるので、この日本
   語の文のままで話しを進めます。)
 
 「この命題は証明できない。」の「この命題」がこの命題を指す(ゲー
 デル数によりこれをきちんと形式化できることは保証されている)なら
 ば、
 
 1.「この命題は証明できない。」が証明できると仮定すると、命題は
   (公理から証明されるものは真なので:健全性)真となり、命題の
   内容は仮定と矛盾。
 2.「この命題は証明できない。」が証明できないと仮定すると、命題
   の内容と矛盾しない。つまり、「この命題は証明できない。」が真
   としても(ただし証明論的真ではない)矛盾は生じない訳です。これ
   は先の場合と少し違います。
 
 これが、Aさんが言われた、「真であるけれども証明できない命題。」
 だろうと思います。もし、そうでしたら私が「違います。」と書いたの
 は「ゲーデルの不完全性定理」そのもののことと早とちりした私の間違
 いでした。ゲーデルの不完全性定理そのものは上記の通りなのですが、
 Aさんの書かれたことも正しいのです。済みませんでした。
 
 ただ、上記2の場合、「「この命題は証明できない。」が証明できない」
 が証明論的に証明されたか?というとそうでもない訳です。意味論的な
 立場で真と考えても矛盾は生じないということです。
      
Fです。
 昨年からの持ち越しの話題ですが・・・。Aさんの記事の後半につい
 てのコメントです。
 
 A> F> 「何にでも存在理由(意義/必要性)がある。」と考えるのは妥当でし
 A> F> ょうか?人間の都合の良い思い込みのような気もします。
 A> 
 A> 高度経済成長の頃は、「欲しいから働く」だったと思いますが、
 A> バブルの頃は、「なぜ」「何のために」儲けるのか、を問わな
 A> かったように思います。
 A> そのツケが今、来ていませんでしょうか?
 
 バブルのころ「なぜ」「何のために」を問わなかったのは問題ですが、
 それと、今考えている、「人間がなぜ存在するか?」といった問題とは
 少し違う種類の問題のように思います。
 
 A>       「人間の精神活動を司るシステムの解明」の方向で考える
 A> アプローチで行くのが科学だと思います。
                                                       .....(1)
 
 A> 
 A> それと同時に、<どうして・何のために>「人間の精神活動」が
 A> 存在しているのか、この理解(解明?)が必要だと私は思います。
                                                       .....(2)
 
 「何のために」というのは、ある種の価値評価が関わる問題だと思いま
 す。価値評価は、その評価主体によって異なります。その意味で、<何
 のために>という設問の答えを見付けたとしても、普遍的なものになら
 ないような気がします。
 
 例えば、「Fは何のために存在するか」は、「もし、Fが
 今居なくなったら」という設問にしてみれば「(私の願望ですが(~_~;))
 家族が悲しむ。」とか「大学が少し困る。」とか推察できますからその
 ような卑近な(あるいは私の家族や所属する組織にとっての)存在理由は
 大体推察できますが、もし「初めからFがいなかったら」という
 設問にしてしまうと、存在する必要はないとも言えます(*)。「F
 が何のために存在するか」は、存在した後に他との関係で生じてくる
 相対的なものと考た方が妥当な気がします。もちろん、生物として「人
 類」を存続させるのに微々たる貢献をしているようには見えますが、そ
 れは短期的な見方であって、長期的に見れば「増えすぎ」を助長して全
 体的な滅亡を早めているのかもしれない。「初めから、絶対的な意義が
 あって存在する」訳ではないでしょう。
 ----------------------------------------------------------------
 (*)「存在する必要の無いFが実際に存在しているのはやはり何
    か必要があるからでは?」という設問は矛盾なので無効です。
 ----------------------------------------------------------------
 
 A> 「どうして」と「何のために」は常にセットであり、一方が欠落
 A> することは(私にとっては)不完全な態度に思われます。
                                                       .....(3)
 
 ちょっと論理的な関係が解らなくなったのですが、上記(1)、(2)
 では、「システムの解明」と「<どうして・何のために>の解明」を対
 比させて後者も必要だと主張されていたのに、(3)では「どうして」
 と「何のために」を対比させて「一方が欠落することが不完全」という
 主張になっています。対比する対象が変わってしまっています。どうい
 うことでしょうか?
 
 A> 例えば、芸術家が絵を描きます。
 A> 彼は自身が描いた絵を「これで完成」とし、絵筆を置きました。
  
 A>       その二つの問題を総合した所に、<どうして>その絵が、
 A> 今ここに物質として、また、彼の精神表現として<存在せねば
 A> ならなかった>のか?という最終的な問題点が不可分に提起されて
 A> きます。
 
 <どうして>と<存在せねばならなかった>が「不可分」だとする根
 拠は何なのでしょう。
 
 A> 逆説的な言い方ですが、この最終的な問題点を「わからない」で
 A> 済ましてしまうのは、「それは神のお導きだから」という説明と
 A> 同じに思えるんですね。
 
 通常、科学で「わからない」という場合、「現時点では解らない」とい
 うのと「設問が不適切なので解が無い」という二つのケースがあります。
 つまり、設問が不適切でない場合には、暗黙に「現時点では」という条
 件がついている訳で、「『わからない』ですます」というのとちょっと
 違います。また、「存在理由」については、後者に属するのだろうと思
 います。「何にでも存在理由(意義)がある」とする考え方は、その「存
 在意義」なるものが、価値評価主体によって変わる以上、合理的な設問
 では無いと考えられるからです。
 
 以下、「存在理由」の話とは少しずれて来ていると思うのですが、興味
 ある話なので続けます。
 
 A> 法学では「生存権」を単に「生きる権利」とはせず、「文化的な
 A> 生活を営む権利」と「定義」しているようです。
 A> 
 A> 近代社会の形成過程で、この定義が「発明」された時こそが、
 A> 科学としての倫理学(法倫理学?)が勝利した事例だと言える
 A> と思います。
 
 何に対して「勝利した」ということでしょうか?
 
 A> で、今、更に「生きている」ということの定義をどう考えるか。
 A> 事故で植物状態の人間について「細胞が生きている」と科学的
 A> には言える。
 A> では、倫理学的には?哲学的には?宗教(学)的には?
 
 「法学的には?」という問題が現実的に最も重要ですね。そして、いず
 れも、「人が決める」訳です。そして、その決定には「科学的な知識」
 が不可欠でしょう(ただし、「科学的な知識」が増える程、「生と死の
 境界が曖昧になる」傾向があります)。つまり、倫理学的、哲学的、法
 学的な「死」もそのときの科学の状況によって変わるものでしょう。昔
 は心臓が止まれば「死」だったようですが、今では、心臓が止まってい
 ても、医学的に蘇生可能な状態ならば「死」とは言わない(単なる心停
 止な)訳です。蘇生可能な状態に対して「心臓が止まっている」という
 理由で「死」と考えることは倫理学的にも、哲学的にもまずいでしょう。
  
 A> 「わからない」で済ませずにいられない問題だと思っています。
 
 この場合の「わからない」は、前の話題の「存在理由が『わからない』」
 の場合の「わからない」ではなくて、「定義できない」という意味です
 よね?もちろん、その意味で「わからない(定義できない)」では済まさ
 れません。だから、無理にでも定義するわけです。もちろん「単なる心
 停止」を「死」と定義することもできます。ただし、それでは、「死ん
 だ」人が生き返るということが度々起こって、社会的な混乱を招きます。
 
 現実的な要請から、法律的な死は「判る判らないに関わらず『決める』」
 問題なのです。その決める根拠にどの程度説得力があるかは、根拠とす
 る知識が重要ですが。
 倫理学、哲学においては、そんなに性急に決めなくても良いように思い
 ます。もっと言うならば、倫理学や哲学で直接的に「死」を定義するこ
 とが妥当かどうか。
 
 A> 直接・間接にマルクス主義思想という(非常に科学的な)社会
 A> 理論
 
 「資本論」などのマルクスの著書を全く読んだことが無いので、ちょっ
 と教えて頂きたいのですが、「マルクス主義思想」が「非常に科学的」
 というのは、例えばどんなところがそうなのですか?