これは、さるMLにおいてなされた「ツェノンのパラドクス」
と言われているパラドクシカルな命題についての論争である。
(この論争に出てくる松野孝一郎という人は、I氏の発言だけからすると微分の概念が解っていないように見える。)
以下の議論は、数学、物理、認知科学などを勉強せずに哲学をやることの危険性を示していると思う。
----------------------------------------------------------------
From F Tue Feb 8 10:21:52 2000
Subject: Re(Re: lecture on spatiotemporal theory (3))
Fです。
I>From I Fri Feb 4 21:39:59 2000
I>Subject: RE: Re: 時空間論講義(3)
I>松野孝一郎さんの「パルメニディスの夢」『現代思想』1999年4月号
I>システム論ーー内部観測とオートポイエーシス特集所収論文、を援用して
I>述べさせていただきます。
I>松>「免疫を案出したのはガリレイである。ガリレイは運動する点に対して
I>松> 根本的な定義変更を敢行した。点の今現在の属性を示すものに
I>松> 空間での位置に加えてそれの速度も含める、とするのがそれである。」
I>松> 97上
I>松>「しかし、この定義変更には明らかに不都合がある。点としての
I>松>今現在の位置を一方で認めながら、他方でそれの今現在の
I>松>速度を認めるならば今現在の位置は確定されないことになる。」97上
速度は時間関数f(t)の時間による微分に当るわけで、微分の定義に係
わる問題だろうと思います。ガリレイ−ニュートン流の微分は、
「(f(t+Δt)−f(t))/Δtで、『Δtが0になったとき』の値」
としていた訳ですが、このニュートン流の定義は、既に1800年代前
半にコーシによって棄てられ、現在では「Δtが0になったとき」即ち
「長さ0の時間」というような矛盾した考え方をしなくても良いように
なっています。(ε−δ論法:人間の感覚に非常によくマッチする考え
方だと思います。)松野孝一郎さんの主張は現代流の速度の定義も考慮
してのことなのでしょうか。
I>松>「明らかになったのは、現在形を無制約のまま現在完了形
I>松>に接続可能であるとすると、それからの帰結が、時間、空間
I>松>の無限分割性であり、運動そのものへのゼノンへの告発であった。
I>松> 分割を許さない時間、空間が
I>松>必然になる。分割を許さない時間空間での運動が持続である。
I>松>無限分割を許す時間、空間での慣性は持続と似て
I>松>非なるものでしかない。」101上
「無限分割を許すと、時間の持続性が崩れる」と言っているように思え
ますが、私には理解できません。
I>結論として、
I>松>「持続としての運動とはパルメニディスが見抜いて
I>松>いた様に、全体としてのひとまとまりであって、決して
I>松>多に分割されることのない一である。その根底には
I>松>分割を許さない時間、空間がある。とするならば、
I>松>それがどれほどの痛みを伴うものであろうとも、
I>松>分割を許す時間、空間から分割を許さない時間、
I>松>空間へ、との思考の枠組み変更が否応なしに
I>松>迫ってくる。」105下
そもそも、抽象的な思考モデル上での一点というのは考えられますが、
知覚上の空間の大きさのない一点というのは無いと考える方が合理的
な気がします。大きさの無いものは知覚できませんから。上の議論は、
知覚上の「点」と思考モデル上の「点」を混同することによる問題で
苦しんでいるように思えます。
----------------------------------------------------------------
From I Fri Feb 11 08:46:15 2000
Subject: RE: Re(Re: lecture on spatiotemporal theory (3))
Iです。
Fさん、レスありがとうございました。
このところいろいろあって、ご返事が遅れ気味です。
F>I>松>「免疫を案出したのはガリレイである。ガリレイは運動する点に対して
F>I>松> 根本的な定義変更を敢行した。点の今現在の属性を示すものに
F>I>松> 空間での位置に加えてそれの速度も含める、とするのがそれである。」
F>I>松> 97上
F>
F>I>松>「しかし、この定義変更には明らかに不都合がある。点としての
F>I>松>今現在の位置を一方で認めながら、他方でそれの今現在の
F>I>松>速度を認めるならば今現在の位置は確定されないことになる。」97上
F>
F>速度は時間関数f(t)の時間による微分に当るわけで、微分の定義に係
F>わる問題だろうと思います。ガリレイ−ニュートン流の微分は、
F>
F>「(f(t+Δt)−f(t))/Δtで、『Δtが0になったとき』の値」
F>
F>としていた訳ですが、このニュートン流の定義は、既に1800年代前
F>半にコーシによって棄てられ、現在では「Δtが0になったとき」即ち
F>「長さ0の時間」というような矛盾した考え方をしなくても良いように
F>なっています。(ε−δ論法:人間の感覚に非常によくマッチする考え
F>方だと思います。)松野孝一郎さんの主張は現代流の速度の定義も考慮
F>してのことなのでしょうか。
そうなのではないでしょうか。
エータ マイナス デルタ論法というのがわかりませんが、
その場合に位置はどうなるのでしょうか。位置は特定の
場所に決まるのでしょうか。0になったときと限りなく0に近い
時の違いなのでしょうか。
微分は変化そのものを表すことはできるのでしょうか。
変化を静止させたときの傾きしかわからないのではないでしょうか。
F>I>松>「明らかになったのは、現在形を無制約のまま現在完了形
F>I>松>に接続可能であるとすると、それからの帰結が、時間、空間
F>I>松>の無限分割性であり、運動そのものへのゼノンへの告発であった。
F>
F>I>松> 分割を許さない時間、空間が
F>I>松>必然になる。分割を許さない時間空間での運動が持続である。
F>I>松>無限分割を許す時間、空間での慣性は持続と似て
F>I>松>非なるものでしかない。」101上
F>
F>「無限分割を許すと、時間の持続性が崩れる」と言っているように思え
F>ますが、私には理解できません。
アキレスが亀を追い越せないという議論は、
無限分割によって成立すると考えられますが、
Fさんは、この矛盾をどうやってクリアするのでしょうか。
F>I>結論として、
F>I>松>「持続としての運動とはパルメニディスが見抜いて
F>I>松>いた様に、全体としてのひとまとまりであって、決して
F>I>松>多に分割されることのない一である。その根底には
F>I>松>分割を許さない時間、空間がある。とするならば、
F>I>松>それがどれほどの痛みを伴うものであろうとも、
F>I>松>分割を許す時間、空間から分割を許さない時間、
F>I>松>空間へ、との思考の枠組み変更が否応なしに
F>I>松>迫ってくる。」105下
F>そもそも、抽象的な思考モデル上での一点というのは考えられますが、
F>知覚上の空間の大きさのない一点というのは無いと考える方が合理的
F>な気がします。大きさの無いものは知覚できませんから。上の議論は、
F>知覚上の「点」と思考モデル上の「点」を混同することによる問題で
F>苦しんでいるように思えます。
これはそうではないと思います。
思考モデル上の点を現実の物質の運動に適用する
以上、両者は区別して論じることはできないのでは
ないでしょうか。
もし区別できるとすれば、では知覚上の点と思考上の点との関係を
どうつけたらよいのでしょうか。
----------------------------------------------------------------
From F Mon Feb 14 10:48:42 2000
Subject: Re(RE: Re(Re: lecture on spatiotemporal theory (3)))
Fです。
I>From I Fri Feb 11 08:46:15 2000
I>Subject: RE: Re(Re: lecture on spatiotemporal theory (3))
I>F>速度は時間関数f(t)の時間による微分に当るわけで、微分の定義に係
I>F>わる問題だろうと思います。ガリレイ−ニュートン流の微分は、
I>F>
I>F>「(f(t+Δt)−f(t))/Δtで、『Δtが0になったとき』の値」
I>F>
I>F>としていた訳ですが、このニュートン流の定義は、既に1800年代前
I>F>半にコーシによって棄てられ、現在では「Δtが0になったとき」即ち
I>F>「長さ0の時間」というような矛盾した考え方をしなくても良いように
I>F>なっています。(ε−δ論法:人間の感覚に非常によくマッチする考え
I>F>方だと思います。)松野孝一郎さんの主張は現代流の速度の定義も考慮
I>F>してのことなのでしょうか。
I>そうなのではないでしょうか。
そうなのですか。ちょっと疑わしいですね。
I>エータ マイナス デルタ論法というのがわかりませんが、
「ε−δ論法」は「イプシロン・デルタ論法」というもので、大学理工
系(昔は文化系も?)の数学で極限の概念の厳密な定義として最初に習
うものです。
例えば、上記の微分の定義は下のようになります。
「あるg(to) があって、どんな(に小さな)ε>0に対しても適当なδ
>0を採れば、
|(f(to+δ)−f(to))/δ−g(to)|<ε
とできるときg(to) をf(t)のto における微分という」
この定義の巧妙な点は、δを0にしてしまう必要はないということと、
関数の変化量ε(即ち速度の話の場合について言えば移動距離(=位置
の差)を先に提示する形になっていることです。つまり、「どんなに小
さな位置の差でも『その差が知覚できる限り』、それに対してδを定め
ることができて、(f(to+δ)−f(to))/δとg(to) の差をε以下
にできる」ときに「g(to) をf(t)のto における微分という」とい
うことです。つまり、δが0でないときの「状況」しか使っていない訳
で人間が直感的に知覚する微分と非常によくマッチします。
I>微分は変化そのものを表すことはできるのでしょうか。
考え方のキーは、「δが0になったとき」というような静的なもので定
義するのではなく、εとδという任意に変化するもので動的に定義して
いるところです。δが0でないときの「状況」ですね。
I>変化を静止させたときの傾きしかわからないのではないでしょうか。
上記のように、変化を静止させない訳です。「『to という点での微分』
といっているのでやはり静止させているではないか」との反論は、成り
立たないのです。なぜならば、ここでのg(to) は、
(f(to+δ)−f(to))/δ
が近づく値でしかない訳ですから。
I>F>I>松>「明らかになったのは、現在形を無制約のまま現在完了形
I>F>I>松>に接続可能であるとすると、それからの帰結が、時間、空間
I>F>I>松>の無限分割性であり、運動そのものへのゼノンへの告発であった。
I>
I>F>I>松> 分割を許さない時間、空間が
I>F>I>松>必然になる。分割を許さない時間空間での運動が持続である。
I>F>I>松>無限分割を許す時間、空間での慣性は持続と似て
I>F>I>松>非なるものでしかない。」101上
I>
I>F>「無限分割を許すと、時間の持続性が崩れる」と言っているように思え
I>F>ますが、私には理解できません。
I>
I>アキレスが亀を追い越せないという議論は、
I>無限分割によって成立すると考えられますが、
I>Fさんは、この矛盾をどうやってクリアするのでしょうか。
アキレスと亀の場合、1+(1/2)+(1/4)+(1/8)+(1/16)+・・・ といった級
数を考えることになるのですが、ゼノンは、各分割された区間を通り過
ぎるのに「同じ一定の時間が掛かる」と考えているように思えます。だ
から、「無限個の区間を通過するには無限の時間が掛かる」と考えてし
まう訳です。実は、分割の各区間を通過するのに必要な時間は急激に小
さくなって行き「その時間を総和しても無限にならない」のです。つま
り、1の距離の点を通過するのにΔtの時間が掛かるとすると、次の(1/2)
の点を通過するには、(1/2)Δt の時間しか掛からない訳で、全ての
総和をしても
Δt+(1/2)Δt+(1/4)Δt+(1/8)Δt+(1/16)Δt+・・・=2Δt
(初歩的な等比級数の和ですね。)
の時間で追いついてしまう訳です。結局、「何時までも追いつけない」
というのは間違った思考による結果なのです。もちろん、2Δt+1秒
後には追い越しています。
I>F>そもそも、抽象的な思考モデル上での一点というのは考えられますが、
I>F>知覚上の空間の大きさのない一点というのは無いと考える方が合理的
I>F>な気がします。大きさの無いものは知覚できませんから。上の議論は、
I>F>知覚上の「点」と思考モデル上の「点」を混同することによる問題で
I>F>苦しんでいるように思えます。
I>
I>これはそうではないと思います。
I>思考モデル上の点を現実の物質の運動に適用する
I>以上、両者は区別して論じることはできないのでは
I>ないでしょうか。
もちろん、全く性質が異なればダメですが。しかし、あまり硬いことを
言い出すと、「現実のもの」とおっしゃっていることに対して「言語」
という記号を用いて論じているのですが、「言語」で表されたものと現
実のものを同一視することになり兼ねません。「言語」での表現は、知
覚結果のモデルに過ぎません。
I>もし区別できるとすれば、では知覚上の点と思考上の点との関係を
I>どうつけたらよいのでしょうか。
「知覚上の点」はどんなに小さくても大きさがあります。思考上の点は、
「大きさを無視しても推論結果に不都合が生じないとき」に使うモデル
な訳です。(以下は固定長フォントで見てください)
P: 知覚上の点(大きさがある)−[実験]−→結果の知覚
| ↑
|T世界への写像 |P世界への写像
↓ |
T: 思考上の点(大きさがない)−[推論]−→推論の結果
のような関係が不都合でないとき「点」の大きさを無視しても良い、と
いうただそれだけことです。P:知覚モデル世界、T:思考モデル世界。
----------------------------------------------------------------
From I Tue Feb 15 08:39:34 2000
Subject: RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatiotemporal theory (3)))
Iです。
F>I>エータ マイナス デルタ論法というのがわかりませんが、
F>
F>「ε−δ論法」は「イプシロン・デルタ論法」というもので、大学理工
F>系(昔は文化系も?)の数学で極限の概念の厳密な定義として最初に習
F>うものです。
F>
F>例えば、上記の微分の定義は下のようになります。
F>
F>「あるg(to) があって、どんな(に小さな)ε>0に対しても適当なδ>0
F>を採れば、
F> |(f(to+δ)−f(to))/δ−g(to)|<ε
F> とできるときg(to) をf(t)のto における微分という」
F>
F>この定義の巧妙な点は、δを0にしてしまう必要はないということと、
F>関数の変化量ε(即ち速度の話の場合について言えば移動距離(=位置
F>の差)を先に提示する形になっていることです。つまり、「どんなに小
F>さな位置の差でも『その差が知覚できる限り』、それに対してδを定め
F>ることができて、(f(to+δ)−f(to))/δとg(to) の差をε以下
F>にできる」ときに「g(to) をf(t)のto における微分という」とい
F>うことです。つまり、δが0でないときの「状況」しか使っていない訳
F>で人間が直感的に知覚する微分と非常によくマッチします。
なるほど、そうなのですか。
定義の上では、確かに、「状況」しか使っていないのですが、
計算する場合は、無限に漸近するところの値を使っている
わけですよね。
やっぱり飛躍があるような。
F>I>微分は変化そのものを表すことはできるのでしょうか。
F>
F>考え方のキーは、「δが0になったとき」というような静的なもので定
F>義するのではなく、εとδという任意に変化するもので動的に定義して
F>いるところです。δが0でないときの「状況」ですね。
F>
F>I>変化を静止させたときの傾きしかわからないのではないでしょうか。
F>
F>上記のように、変化を静止させない訳です。「『to という点での微分』
F>といっているのでやはり静止させているではないか」との反論は、成り
F>立たないのです。なぜならば、ここでのg(to) は、
F> (f(to+δ)−f(to))/δ
F>が近づく値でしかない訳ですから。
近づく値は、値そのものではないわけですよね。
微妙な違いを、ある意味では無視できるとして無視している
わけですよね。
F>I>アキレスが亀を追い越せないという議論は、
F>I>無限分割によって成立すると考えられますが、
F>I>Fさんは、この矛盾をどうやってクリアするのでしょうか。
F>
F>アキレスと亀の場合、1+(1/2)+(1/4)+(1/8)+(1/16)+・・・ といった級
F>数を考えることになるのですが、ゼノンは、各分割された区間を通り過
F>ぎるのに「同じ一定の時間が掛かる」と考えているように思えます。だ
F>から、「無限個の区間を通過するには無限の時間が掛かる」と考えてし
F>まう訳です。実は、分割の各区間を通過するのに必要な時間は急激に小
F>さくなって行き「その時間を総和しても無限にならない」のです。つま
F>り、1の距離の点を通過するのにΔtの時間が掛かるとすると、次の(1
F>/2) の点を通過するには、(1/2)Δt の時間しか掛からない訳で、全て
F>の総和しても
F>
F>Δt+(1/2)Δt+(1/4)Δt+(1/8)Δt+(1/16)Δt+・・・=2Δt
F> (初歩的な等比級数の和ですね。)
F>
F>の時間で追いついてしまう訳です。結局、「何時までも追いつけない」
F>というのは間違った思考による結果なのです。もちろん、2Δt+1秒
F>後には追い越しています。
確かにおっしゃることはよくわかるのですが、無限にある値に接近する
という事態を、その接近する値にイコールにしてしまうというところに、
無限の飛躍があるのではないでしょうか。
確かに現実は追い越すわけですし、時間の幅を用いればもっともな
議論になるわけですが、無限回繰り返すという作業は回数において
決して終わらないわけで、幅を想定するということは無限分割を
有限化することになるような。
F>I>F>そもそも、抽象的な思考モデル上での一点というのは考えられますが、
F>I>F>知覚上の空間の大きさのない一点というのは無いと考える方が合理的
F>I>F>な気がします。大きさの無いものは知覚できませんから。上の議論は、
F>I>F>知覚上の「点」と思考モデル上の「点」を混同することによる問題で
F>I>F>苦しんでいるように思えます。
F>I>
F>I>これはそうではないと思います。
F>I>思考モデル上の点を現実の物質の運動に適用する
F>I>以上、両者は区別して論じることはできないのでは
F>I>ないでしょうか。
F>
F>もちろん、全く性質が異なればダメですが。しかし、あまり硬いことを
F>言い出すと、「現実のもの」とおっしゃっていることに対して「言語」
F>という記号を用いて論じているのですが、「言語」で表されたものと現
F>実のものを同一視することになり兼ねません。「言語」での表現は、知
F>覚結果のモデルに過ぎません。
F>
F>I>もし区別できるとすれば、では知覚上の点と思考上の点との関係を
F>I>どうつけたらよいのでしょうか。
F>
F>「知覚上の点」はどんなに小さくても大きさがあります。思考上の点は、
F>「大きさを無視しても推論結果に不都合が生じないとき」に使うモデル
F>な訳です。(以下は固定長フォントで見てください)
F>
F>P: 知覚上の点(大きさがある)−[実験]−→結果の知覚
F> | ↑
F> |T世界への写像 |P世界への写像
F> ↓ |
F>T: 思考上の点(大きさがない)−[推論]−→推論の結果
F>
F>のような関係が不都合でないとき「点」の大きさを無視しても良い、と
F>いうただそれだけことです。P:知覚モデル世界、T:思考モデル世界。
なるほど、説得力がありますね。
----------------------------------------------------------------
From F Wed Feb 16 10:34:07 2000
Subject: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3))))
Fです。
I>From I Tue Feb 15 08:39:34 2000
I>Subject: RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3)))
I>F> つまり、δが0でないときの「状況」しか使っていない訳
I>F>で人間が直感的に知覚する微分と非常によくマッチします。
I>定義の上では、確かに、「状況」しか使っていないのですが、
I>計算する場合は、無限に漸近するところの値を使っている
I>わけですよね。
I>やっぱり飛躍があるような。
これを飛躍と考えるということは、0.999999.... =1 も「飛躍」と考
えることになりますね。しかし、もし、この等式が成り立たないとした
ら、ある差Δ>0があって、1− 0.99999... =Δが成り立つことにな
りますが、これは矛盾ですよね。充分大きな自然数nを採ればΔ>(1/10)n
とできますが、当然Δ>(1/10)n =1− 0.9999...9(9がn個)>
1− 0.99999... =Δ即ち、Δ>Δ(矛盾)。この矛盾をどう解決さ
れます?この矛盾を解決できなければ、「飛躍」と考えること自体を疑
う方が合理的でしょう。
I>F> 変化を静止させない訳です。「『to という点での微分』
I>F>といっているのでやはり静止させているではないか」との反論は、成り
I>F>立たないのです。なぜならば、ここでのg(to) は、
I>F> (f(to+δ)−f(to))/δ
I>F>が近づく値でしかない訳ですから。
I>
I>近づく値は、値そのものではないわけですよね。
「近づく値を微分と『定義』する」ということです。それが最も妥当と
いうことです。「(いくらでも)近づく値」以外のものを「微分」と定義
したら、人間の知覚と合わなくなりますし矛盾も生じます。
I>微妙な違いを、ある意味では無視できるとして無視している
I>わけですよね。
ちょっと違うニュアンスです。「微妙な違い」とIさんがおっしゃっ
ているとき、固定されたδをイメージされておられませんか?δを固定
すると「違い」が出てしまうのですが、私が何度も「状況」と書いたの
は、「δを固定的に考えない」ということを言いたかったのです。
I>確かにおっしゃることはよくわかるのですが、無限にある値に接近する
I>という事態を、その接近する値にイコールにしてしまうというところに、
I>無限の飛躍があるのではないでしょうか。
「無限に近いもの(この表現は変なのですが)」がもしあるとしたらそ
の違いをどうやって認識するのですか?それこそ矛盾しているように思
います。その矛盾はとにかく、上で言っているのは「状況」であって、
「無限にある値に接近する」ということと「無限にある値に接近する途
中の値」とは感覚的に混同され易いのですが、異なるものであるという
ことです。
I>確かに現実は追い越すわけですし、時間の幅を用いればもっともな
I>議論になるわけですが、無限回繰り返すという作業は回数において
I>決して終わらないわけで、幅を想定するということは無限分割を
I>有限化することになるような。
そこに、時間の幅を持ち込まず「作業回数」だけを持ち込むことが既に
間違っているのではないかと思います。「移動する」という現象はそも
そも時間の幅を用いないで語ることはできない概念(*)なのではありません
か?
----------
(*)時刻tにx地点に居てΔt秒後のt+Δtにy地点に居た、という
ときに「x地点からy地点に移動した」という。もし、時刻tに
x地点にもy地点にも居たらそれは「移動」とは言わないし、
Δt時間後にもx地点に居た場合も「移動」とは言わず「静止」という。
(「移動」の概念を広げて「静止」を「移動距離0の移動」と言うことはある)
----------
「幅を想定するということは無限分割を有限化することになる」という
のがちょっと分かりません。
----------------------------------------------------------------
From I Wed Feb 16 21:01:26 2000
Subject: RE: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3))))
Iです。
F>I>定義の上では、確かに、「状況」しか使っていないのですが、
F>I>計算する場合は、無限に漸近するところの値を使っている
F>I>わけですよね。
F>I>やっぱり飛躍があるような。
F>
F>えることになりますね。しかし、もし、この等式が成り立たないとした
F>ら、ある差Δ>0があって、1− 0.99999... =Δが成り立つことにな
F>りますが、これは矛盾ですよね。充分大きな自然数nを採ればΔ> (1/10)n
F> とできますが、当然Δ> (1/10)n =1− 0.9999...9(9がn個)>
F>1− 0.99999... =Δ即ち、Δ>Δ(矛盾)。この矛盾をどう解決さ
F>れます?この矛盾を解決できなければ、「飛躍」と考えること自体を疑
F>う方が合理的でしょう。
なるほど。でも、人間の常識的な感覚からすれば、1>0.9999.......は成
り立つのではないですか。
1=0.99999......+Δ かつ Δ≠0 と定義してしまって、ここから出発する
ことはできないんでしょうか。ここから数学を出発させることはできない
のでしょうか。
デルタはゼロにならざるをえない。ということなのでしょうが、無限に続
く以上最後までは永遠に到達できないのではないでしょうか。もし無限と
言うものが一瞬にして見きれるものであればよいのでしょうけど、見切れ
ない以上そこには見る時間あるいは書く時間が必要なわけで、常に増えつ
づけて永遠にとまらないのが0.99999.....なのではないでしょうか。
こうした感覚を生かす数学は不可能なのでしょうか。
非ユークリッド幾何学があるように、
無限数学というものがありえるということは
ないのでしょうか。
F>「近づく値を微分と『定義』する」ということです。それが最も妥当と
F>いうことです。「(いくらでも)近づく値」以外のものを「微分」と定義
F>したら、人間の知覚と合わなくなりますし矛盾も生じます。
やはり、「定義」の問題なのですね。
まあ矛盾は生じるのかもしれませんが。
数学の体系としては矛盾がないのでしょうけれど。
F>I>確かに現実は追い越すわけですし、時間の幅を用いればもっともな
F>I>議論になるわけですが、無限回繰り返すという作業は回数において
F>I>決して終わらないわけで、幅を想定するということは無限分割を
F>I>有限化することになるような。
F>
F>そこに、時間の幅を持ち込まず「作業回数」だけを持ち込むことが既に
F>間違っているのではないかと思います。「移動する」という現象はそも
F>そも時間の幅を用いないで語ることはできない概念なのではありません
F>か?
F>
F>「幅を想定するということは無限分割を有限化することになる」という
F>のがちょっと分かりません。
空間の無限分割と時間の無限分割の関係の問題になるような気がします。
空間が無限に分割可能であり、そのすべての空間上の点を
通らなければならないとすると、時間も無限になるはずです。
ならないとすれば、空間は無限分割できないということになるのではない
でしょうか。
時間の幅を想定するということは、空間の無限分割を、
時間の有限分割により否定することに
なると思うのです。無限の点を一つずつすべて通るという前提が
くずれてしまうわけですから。
有限によって無限を処理することは根本的に不可能なのでは
ないでしょうか。
----------------------------------------------------------------
From W Thu Feb 17 12:41:44 2000
Subject: =?ISO-2022-JP?B?GyRCO1c5TSRORUAhIkNOM1AkTkVAGyhC?=
お久しぶりです、Wです。
無限の問題についてですが、私もF先生と同じように知覚の点と思
考上との点との間に違いがあると考えています。それ故に、Iさんの
おっしゃる飛躍があると思うのですがいかがでよう。
知覚の点は、ある場所に集約する方向性から理解されます。つまり、
「絞り込む」わけで、その「絞込み」の度合は比較級で表されるわけで
す。ところが、数学上の点は「これ以上絞込めないもの」と定義されま
すから、どうしても比較級による知覚のレベルを超えるように思うわけ
です。
以前、連続性の定義についてF先生からお話を伺ったときにもその
ことを感じました。
F>W> 確か整数は一対一の関係で特定され、他の有理数はその整数によって分数と
F>W>いう演算操作によって特定されると思うのですが、
F>
F>ほぼそうですね。もう少し一般的に言えば「演算操作」というより「二
F>つの整数の組みによって特定される」ということですね。
F>
F>W> そうすると有理数というのは
F>W>何らかの形で一対一関係のうちで特定される数と言えるのではないでしょうか。
F>
F>「自然数と1対1対応で特定できる」という意味でその通りです。自然
F>数と整数と有理数は、「無限集合」の階層として同程度の(Bさんが
F>「アレフ0」といわれた)階層にあるわけです。
F> ただ、実数集合間にも1対1対応はあります。たとえば、y=2xと
F>いう関数(一般的に、連続な1価単調関数)で対応付けられる実数の対
F>x,yは1対1で一方から一方を特定できます。
F>
F>W>一方、無理数の方はそうはいかないので、「αが無理数ならば、αはA1のどの
F>W>数よりも大きく、A2のどの数よりも小さい」のように「特定され」ずに「よ
F>W>り」を通して相対的に規定されるように思います。ここには「特定できるもの」
F>W>と「特定できないもの」との階層の差があるように感じるのですが、いかがなも
F>W>のでしょう。F先生の解説もその線を述べているのかと思うのですが・・・。
F>
F>そうです。たったあれだけの説明からそこまで読み取っていただけると
F>は嬉しいです。上記のように、自然数、整数、有理数はアレフ0。実数
F>はアレフ1で、はっきりした違いがあります。実数は自然数と1対1対
F>応が付けられません。
数学の概念の中には、そのまま知覚の対象としてあてはめられるもの
と、そうでないものがあるような気がします。いずれにしても、数学は
私たちが知覚される対象世界を操作するための思考の側にある記号体系
ではないかと思います。
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From F Fri Feb 18 10:41:47 2000
Subject: Re(RE: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3)))))
Fです。
I>From I Wed Feb 16 21:01:26 2000
I>Subject: RE: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3))))
I>F> 充分大きな自然数nを採ればΔ> (1/10)n
I>F> とできますが、当然
I>F> Δ> (1/10)n =1− 0.9999...9(9がn個)>1− 0.99999...
I>F> =Δ即ち、Δ>Δ(矛盾)。
I>F>この矛盾をどう解決されます?この矛盾を解決できなければ、「飛躍」
I>F>と考えること自体を疑う方が合理的でしょう。
I>
I>なるほど。でも、人間の常識的な感覚からすれば、1>0.9999.......は成り立つので
I>はないですか。
前の記事にも書きましたが、「常識的な感覚」では、「途中の値」をイ
メージしてしまうのでしょう。しかし「差がある」と考えるともっと常
識に反するΔ>Δなどという矛盾を抱え込むことになるのです。
I>1=0.99999......+Δ かつ Δ≠0 と定義してしまって、ここから出発する
I>ことはできないんでしょうか。ここから数学を出発させることはできないのでしょう
I>か。
Δ≠0とすると、多分他の、人間の知覚にとって常識的に成り立つ多く
のことを覆すことになるだろうと思います。実数論は単に抽象的な思考
からできあがったものではなく、人間の知覚などとも論理的に矛盾しな
いように組み立ててありますので(そうでなければ、いろいろな道具、
機械、その他人間の知覚に係わるあらゆる物を設計したり、知覚される
世界を記述したりする道具になりませんから)。
I>デルタはゼロにならざるをえない。ということなのでしょうが、無限に続く以上
I>最後までは永遠に到達できないのではないでしょうか。
それは、既に書いたことですが、一つ一つを見るのにそれぞれ一定の時
間が必要と考えるからでしょう。「アキレスと亀」のような「通り過ぎ
る」話とは別の話です。
I> もし無限と言うものが
I>一瞬にして見きれるものであればよいのでしょうけど、見切れない以上
この意味がよく解らないのですが。「一つを見るのに一定の時間が掛か
る場合に」と言う意味なら解りますが、それは「アキレスと亀」の議論
には当てはまらないですね。
I>そこには見る時間あるいは書く時間が必要なわけで、常に増えつづけて
I>永遠にとまらないのが0.99999.....なのではないでしょうか。
I>こうした感覚を生かす数学は不可能なのでしょうか。
I>非ユークリッド幾何学があるように、
「非ユークリッド幾何学」の公理系は矛盾を含みませんし、その公理系
があてはまる「球面幾何学」という具体的な対象がありますので、Δ≠
0とするのとは全く異なります。今の問題は、Δ>Δのような重大な矛
盾と、0.999999... =1?というような微妙な疑問とどちらを採るかの
問題ですね。
I>無限数学というものがありえるということは
I>ないのでしょうか。
カントールの無限集合論は「無限数学」の一種ですが、「無限を扱って
いる数学」という意味ならば、実数論もそうですし、数学の中にたくさ
んあります。
I>F>「近づく値を微分と『定義』する」ということです。それが最も妥当と
I>F>いうことです。「(いくらでも)近づく値」以外のものを「微分」と定義
I>F>したら、人間の知覚と合わなくなりますし矛盾も生じます。
I>
I>やはり、「定義」の問題なのですね。
I>まあ矛盾は生じるのかもしれませんが。
I>
I>数学の体系としては矛盾がないのでしょうけれど。
「数学の体系」だけの問題ではないでしょう。そうしなければ、自然な
人間の知覚とも合わなくなるでしょう。人間の知覚は「無限に近い値」
を区別できませんから。常識人は意識するしないに係わらず、「無限に
近い値」は同じ物とみなしているでしょう。
I>F>I>確かに現実は追い越すわけですし、時間の幅を用いればもっともな
I>F>I>議論になるわけですが、無限回繰り返すという作業は回数において
I>F>I>決して終わらないわけで、
「終わる/終わらない」という議論が既に(無意識かもしれませんが)
時間を考慮していますね。その点で、Iさんの議論は矛盾しているよ
うに思います。
I>F>「幅を想定するということは無限分割を有限化することになる」という
I>F>のがちょっと分かりません。
I>
I>空間の無限分割と時間の無限分割の関係の問題になるような気がします。
I>空間が無限に分割可能であり、そのすべての空間上の点を
I>通らなければならないとすると、時間も無限になるはずです。
なぜですか?「アキレスと亀」の場合、直線を無限に分割していますが、
その幅が急激に狭くなっていくので、有限の時間で全ての分割点を通れ
ているのではないのですか?各点を通るのに一定の時間がかかるという
ことに囚われているように思います。
I>ならないとすれば、空間は無限分割できないということになるのではないでしょう
I>か。
I>時間の幅を想定するということは、空間の無限分割を、
I>時間の有限分割により否定することになると思うのです。
上で述べたように、時間の幅を想定しないということが「終わる/終わ
らない」という議論において矛盾なのです。
I>無限の点を一つずつすべて通るという前提が
I>くずれてしまうわけですから。
ちょっと解りません。上記のごとく、有限の時間ですべて通っています。
I>有限によって無限を処理することは根本的に不可能なのでは
I>ないでしょうか。
どんな場合のお話かよく解らないので、どう言ってよいか解りません
が、「有限によって無限を処理する」具体的な例が「アキレスと亀」
に時間の幅を持ち込むことをおっしゃっているのですか?
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From B Fri Feb 18 18:25:34 2000
Subject: Re: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3))))
2000/02/16 日 の 10:30:54 時頃 F さんは Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3)))) について書きました。
Bです。
[1815]fujita wrote:
F>ら、ある差Δ>0があって、1− 0.99999... =Δが成り立つことにな
F>りますが、これは矛盾ですよね。充分大きな自然数nを採ればΔ>(1/10)n
F> とできますが、当然Δ>(1/10)n =1− 0.9999...9(9がn個)>
F>1− 0.99999... =Δ即ち、Δ>Δ(矛盾)。この矛盾をどう解決さ
F>れます?この矛盾を解決できなければ、「飛躍」と考えること自体を疑
F>う方が合理的でしょう。
えっと・・・。
充分大きな自然数n は、有限の数でしょうか?
1− 0.9999...9(9がn個)とされてますから、有限ですよね。
1− 0.99999... は、9が無限個続くのでしょうか?
そこのところが、明確に示されていないと、Δ>Δ(矛盾)には
ならないのではないでしょうか?
9が無限個続くのなら
0.999999.... =1
ですが、有限個なら、どこまで行っても、
0.999999.... ≠1
ではないでしょうか?
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From I Fri Feb 18 21:55:55 2000
Subject: RE: lecture on spatio ... theory (3)
Iです。
Fさんwrote:
F>「非ユークリッド幾何学」の公理系は矛盾を含みませんし、その公理系
F>があてはまる「球面幾何学」という具体的な対象がありますので、Δ≠
F>0とするのとは全く異なります。今の問題は、Δ>Δのような重大な矛
F>盾と、0.999999... =1?というような微妙な疑問とどちらを採るかの
F>問題ですね。
なるほどよくわかりました。
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From F Sat Feb 19 23:46:30 2000
Subject: Re(Re: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3)))))
Fです。
>From B Fri Feb 18 18:25:34 2000
Subject: Re: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3))))
B>F>ら、ある差Δ>0があって、1− 0.99999... =Δが成り立つことにな
B>F>りますが、これは矛盾ですよね。充分大きな自然数nを採ればΔ>(1/10)n
B>F> とできますが、当然Δ>(1/10)n =1− 0.9999...9(9がn個)>
B>F>1− 0.99999... =Δ即ち、Δ>Δ(矛盾)。この矛盾をどう解決さ
B>F>れます?この矛盾を解決できなければ、「飛躍」と考えること自体を疑
B>F>う方が合理的でしょう。
B>充分大きな自然数nは、有限の数でしょうか?
B>1− 0.9999...9(9がn個)とされてますから、有限ですよね。
もちろんです。ただ、そのnはΔがあるとしたときに決まるものです。
B>1− 0.99999... は、9が無限個続くのでしょうか?
もちろんです。
B>そこのところが、明確に示されていないと、Δ>Δ(矛盾)には
B>ならないのではないでしょうか?
明確にしていた積もりですが、ちょっと分かり難かったかもしれません。
上の証明を説明を加えながらもう一度書きますのでゆっくりお考えくだ
さい。
以下の記述で、 0.999...99 は有限桁のもの、 0.99999... は無限桁の
ものを表します。
================================================================
(もし、0.99999... =1でないとしたら、)
1− 0.99999... =(0でない値)
となる。言いかえれば、ある差Δ>0があって、
1− 0.99999... =Δ ---(1)
が成り立つ。ところが、充分大きな自然数nを考えると
(1/10)n < Δ ---(2)
とできる。
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*ここがミソ:つまり想定した差Δがどんな小さな値でも値がある限り
それよりも小さい値 (1/10)n が見つけられること。そして、その一
方で、1と 0.99999... の差は(9が無限桁続くわけですから)その
見つけられ た(1/10)nよりも小さいはず。
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この(見つけられた)(1/10)nを1から引いて見ると、
1− (1/10)n = 0.999...99(有限桁)
即ち、
1− 0.999...99 = (1/10)n ---(3)
(2)と(3)から
1− 0.999...99 = (1/10)n < Δ ---(4)
ところが、 0.99999... は、9が無限に続くから 0.999...99 より大き
い。即ちそれらを1から引いたもの
1− 0.99999... と 1− 0.999...99
を比べると前者の方が小さい。即ち、
1− 0.99999... < 1− 0.999...99
この式の左辺に(1)を適用し、右辺に(4)を適用すれば
Δ = 1− 0.99999... < 1− 0.999...99 = (1/10)n < Δ
すなわち、
Δ < Δ
となり矛盾。
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From B Sun Feb 20 16:15:58 2000
Subject: Re: Re(Re: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3)))))
2000/02/19 日 の 23:44:51 時頃 F さんは Re(Re: Re(RE: Re(RE: Re(Re: lecture on spatio ... theory (3))))) について書きました。
Bです。
F>B>充分大きな自然数n は、有限の数でしょうか?
F>B>1− 0.9999...9(9がn個)とされてますから、有限ですよね。
F>
F>もちろんです。ただ、そのnはΔがあるとしたときに決まるものです。
そうですね。
F>B>1− 0.99999... は、9が無限個続くのでしょうか?
F>
F>もちろんです。
すみません。数学での表記上の約束事を知らない(忘れてしまっている?)
ものですから。
F>明確にしていた積もりですが、ちょっと分かり難かったかもしれません。
F>上の証明を説明を加えながらもう一度書きますのでゆっくりお考えくだ
F>さい。
はい・・・・。
F>以下の記述で、 0.999...99 は有限桁のもの、 0.99999... は無限桁の
F>ものを表します。
あー、こういうことを知らないのですよ。たぶん、忘れたんでしょうが・・・
これは、無限を或る程度理解していないと分かりづらいですね。
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