年 | 事 項 |
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1899 | 台北市に生まれる。原籍宮崎県都城市。 |
1906 | 青森師範付属小学校に入学、以後父の転勤により各地を転々とし、栃木県矢板小学校尋常科卒業。 |
1912 | 都城の祖父母の所から宮崎県立都城中学校に入学。 |
1917 | 都城中学校卒業。上京して、川端画学校にて学ぶ。 |
1918 | 東京美術学校(現東京芸大)洋画科に入学。藤島武二に師事。 |
1923 | 東京美術学校卒業。同研究科に入学。佐伯祐三、江藤純平、深沢省三等と薔薇門社を結成。毎日新聞社主催日本美術展覧会(帝展は休会)に「裸婦」出品・入選。京城府に移住し、京城第二高等普通学校講師になる。 |
1925 | 総督府主催朝鮮美術展に「花と裸婦」出品・主席受賞。特選9回。昌徳宮賜賞受賞。朝鮮美術展参与になる。 第6回帝展に「リューシャの像」出品・入選。以降、帝展・文展・奉祝展・日展に出品。 |
1928 | 京城第二高等普通学校を退職し渡欧、パリにてアマン・ジャンに師事。サロン・ドートンヌに「ヴォーレアル風景」出品・入選。この年の8月に親友佐伯祐三パリにて死去。 |
1929 | サロン・チュイレリーに2点招待出品。サロン・デ・アンデパンダンに出品。サロン・ドートンヌに2回入選。 |
1930 | 帰国。帝展に「読後」出品。 |
1937 | 京城府青葉町にアトリエを作る。 |
1938 | 陸軍美術協会会員となり朝鮮軍報道部嘱託(美術班長)になる。 |
1945 | 敗戦により引揚げる。引き上げの前にちょうど朝鮮での展覧会のために集められていた戦争記録画を軍からの処分依託に従わず秘匿し朝鮮の知人等に預ける。 |
1946 | 京都に定住。5月5日ころから6月8日ころに掛けて、GHQの命により、秘匿された「戦争記録画」の回収に携わる。 |
1948 | 第34回光風会展に「画友」他一点を出品。風光会々員となる。 |
1949 | 光風会審査員となる。美術家団体連合展に出品。 |
1950 | 第4回日展出品「湖上客船」岡田賞となる。 |
1951 | 日展委嘱出品となる。 |
1952 | ヤマダ洋画研究所およびアトリエを開く。 |
1953 | 光風会評議員に就任。京都市美術展審査員に就任。 |
1954 | 日展審査員に就任、5回務める。 |
1955 | 日展会員になる。 |
1958 | 京都工芸繊維大学教授に就任。 |
1962 | 日展評議員に就任。 |
1963 | 京都工芸繊維大学定年退官。 |
1966 | 京都女子大学教授に就任。日仏文化交流の功により、フランス政府より芸術文化騎士十字章を授与される。 |
1967 | 関西日仏学館教授「美術」となる。 |
1971 | 光風会理事に就任。京都市美術館評議員に就任。 |
1975 | 日展参与となる。京都府美術工芸功労者として府知事より表彰される。 |
1976 | フランス政府より国家功労騎士十字勲章授与される。紺綬褒章を受章。京都市文化功労者として京都市長より表彰される。 東京・京都高島屋にて喜寿記念回顧展を開催。 |
1979 | 光風会名誉会員となる。 |
1980 | 「素顔の佐伯祐三」を中央公論美術出版より出版。 |
1982 | 都城市にて、山田新一回顧展開催。 |
1984 | 宮崎県100年記念事業として、宮崎県主催により山田新一画業60年展開催。 |
1986 | 4月より、NHK京都文化センター美術部指導者に就任。宮崎、京都、東京にて米寿記念「山田新一画業70年展」を開催。 |
1991 | 死去 |
さて、伯父が「戦争記録画」を敗戦軍の意図に(恐らく)反して、焼却せずに保存したときの経緯から述べよう。上記「テレビ宮崎」のビデオからは「画家たるの良心をもって処分する」と言って軍から処理を一任されたということである。そして、これらの絵を額から外して秘匿し朝鮮の知人らに預けた訳である。このとき、伯父はどんな積もりでそういった処置をしたのであろうか。一つには画家として作品を焼却するに忍びなかったというのがあったであろう。しかしそれだけでなく、伯父のいろいろな状況を的確に読む能力から考えて、何か、その後の回収等の可能性も視野に入っていたのではないかと思われる。ただ、その任が自分に回ってくることまでは予想しなかったであろう。(この辺りの事情については、いずれ、青木氏所蔵の日記類を調べた後、触れる積もりである。)
・・・朴徳淳君、厚生部長に会ひ、更に府民館でアンダーソン少佐[注1]に会ふ「天津附近戦争」図行方わからず 朝鮮人通訳の言をたよりに長谷川町YMCAに行く、ホテルになっている デスクサージャント良い男、ロービール加納[注2]の絵と相対して完全に保存されてゐる 兵隊隊[注3]みんな寄って来て、良い絵だって[注4]誰でも誉めているよ、貴方がこれを描いた画家か−−−と歓待してくれる うれしい
[注1]5月19日の記録までは「アンダーソン大尉」という記述があり、23日にも「大尉」という言葉があるが、ここで突然「少佐」という言葉が出現する。多分書き間違いであろう。
[注2]この「ロービール加納」というのは画家の名前であろうか?2012/1/28島根県安木市の加納美術館館長、加納佳世子氏から「(ロービール)加納」とは氏のご父君の加納莞蕾画伯のことではないか、とのメイルを頂きました。いくつかの状況から考えて、今は、ほぼそうであると考えている。
[注3]これは伯父の書き間違いであろう。「達」であろう。青木氏も「達」と読んでいる。
[注4]テレビ宮崎のビデオでは、「良い絵だった」と読んでいるが、筆者は「良い絵だって」と思う。