|
十二月七日付朝日新聞は「戦争画は海渡る 米各地にふりまく芸術の香り」との見出しで、戦争画収集を伝えている。この前の10月28日のGHQ文書によるとその時点では藤田はこの計画に非常に乗り気であったらしい。これが、年末に掛けてどういった経緯で任務回避に変わっていったかについては、本書には明確な記述がない。ただ、10月14日には、既に、洋画家宮田重雄による、藤田の進駐軍協力に対する強い非難の記事が朝日新聞に掲載されているので、そのころから少しずつ進駐軍に関わりたくないという気持ちが醸成されていったのではないか。
<今度の第二次世界大戦にも・・<中略>・・終戦後連合軍総司令部のケイシー少将ならびに戦争芸術作品部員はつぎつぎにこれらに接し美術的価値を考え現在各所に分散している作品を都美術館に集めた上優秀作品のみを選択、アメリカへ運び、各所で展観する計画が進められている。このほど本国政府の承認を得て、藤田嗣治画伯が戦争画説明のための総司令部の嘱託に正式任命があった。>
藤田は岐阜県高山などへ戦争画収拾に出向く傍らで、もう一人の日本人画家を協力者として推薦した。洋画家・山田新一である。東京美術学校で佐伯祐三らと同期だった山田は一九二八年渡仏、藤田が主催したパリ在住日本人画展に出品するなど藤田とは旧知の間柄であった。戦争中は、朝鮮軍報道部美術班長となって「朝鮮志願兵」などの戦争画を残しており、藤田と同じくその作品としての価値を信じて疑わなかった。
振り出しから始めよう。いったいどうして、われわれにこの世界についての(近似的で不完全なものにせよ)客観的な知識が獲得できると期待できるのか?人間には世界を直接体験することはできない。直接体験するのは、自分自身の感覚だけだ。感覚以外に何物かが存在しているということは、どうすればわかるのだろうか?とあり、筆者(藤田)の考えと一致する。また、p.77(および他のところでも何回か類似の記述がある)に、
答えは、いうまでもない。そんなことは決してわからないのだ。感覚以外の何物かが存在するというのはもっともらしい仮説にすぎない。
科学の方法といっても、日常生活や他の学問分野での合理的な姿勢と根本的に大きく異なるものではないとわれわれは考えている。歴史学者も、刑事も、配管工も、実際すべての人間が、物理学者や生化学者と同じように、帰納、演繹、データの評価といった基本的な方法を使っているのだ。とあるが、筆者(藤田)も人間が物事を理解しようとするときに無意識に使っている方法の厳密化・拡大が科学の方法と思っている。
ぼくらの頃は、物理、化学、生物、地学の理科四科目のうち三科目が必修で、大学入試は、国立の場合、文科、理科にかかわらず、誰でも二科目取らなければならなかったんです。・・・ところが、高校の履修制度、大学入試制度が少しずつ変わり、どんどん高校で学ぶべき内容が減ってきました。・・・特に激減したのが、物理です。昔は、九割以上の人が物理をやったのに、今は二割以下なんです。・・・まことにもって同感である。以前、テレビで街頭を行き交う人に「一番要らないと思う科目は何ですか?」と問うものがあったが、その中で「理科」と答えた高校生がいた。筆者は、これにひどく驚くとともにやはり「暗澹たる」気持ちにならざるを得なかった。核燃料工場における臨界量超過事故や、最近の雪印の中毒事件それから、オウム事件などは、まともな科学知識が単なる応用知識としてでなく基本的な考え方として身についていたら起こらなかったはずである。特に、オウム事件を起こした理系のエリート(と言われた者)達は、科学技術を単なる物つくりの技術としてしか学んでおらず、自分のあらゆる知識との整合的な繋がりの中に取り込めていなかったと考えられる。
東大卒業生といいながら、物理の知識は中学生レベルという人が文系の学部学科からは、これから世に続々出ていくことになるわけです。その人たちが、社会の各界で、いかにもエリートづらすることになるのかと思うと暗澹たる思いがします。日本はいま科学技術創造立国などというスローガンをかかげていますが、あと二〇年もしたら、官界、経済界、政界、学会、言論界のいずれにおいても、指導的立場に立つ文系エリートたちが、科学技術の最も基盤の部分においては、中学生レベルの知識しかない連中になってしまうわけです。日本の将来はもう終わりという感じがします。
高校で物理をやった人はやった人で、別の問題があります。その人たちのほとんどが生物をやっていないはずです。つまり、その人たちは中学生レベルの生物の知識しか持っていないわけです。ということは分子生物学の知識は何もないということです。
この本は、まだ、読了していないがじっくり時間を掛けて読む必要がある。
12章の「傷ついた脳」では、脳の障害によって生じるさまざまな視覚異常について記述されている。
「どうしても得心がいかないのだが、慈悲深くも全能の神たるものが、生きている毛虫の体内で栄養をとるようにという明白な意図をもってヒメバチたちをつくられたなどということがあろうか。」(藤田注:これは、ダーウィンの言葉の引用であるが、ヒメバチが生きている毛虫に卵を生みつけてその毛虫は生きていながら、ヒメバチの幼虫に食べられて行く事実に基づく)
その少し後
「雌のジガバチは、卵を毛虫(あるいはバッタやハチ)の体内に産みつけてそこで栄養をとらせているだけでなく、ファーブルその他によると、彼女は獲物を麻痺させるが殺さないようにと、注意深くその中枢神経系の各神経節に針を刺すという。これで、ご馳走の鮮度は保たれる。麻痺が全身麻酔として働くのか、あるいはインディアンの毒矢に使う神経毒のように犠牲者の運動能力を奪うだけなのかはまだわかっていない。後者だとすると、餌食となった毛虫は生身の身体を内側から食われているのを知りながら、筋肉が動かせず何の手も打てないわけである。これは残酷きわまりない話だが、これからみていくように、自然は残酷なのではなく、非情で冷淡なだけである。」
「われわれ人間は、目的意識が頭から離れない。何を見ても、これは何のためにあるのかと思い、その動機、つまりその目的の背後にあるものは何だろうと思わずにはいられない。」この記述は、「人間は、『感情の動物である』と言いながら、実は、『論理/納得』がなければ夜も昼も明けないくらい『論理好き』である。人々が『感情』と思っているものも良くよく検討してみると実は論理あるいは納得したいという欲求であることがほとんどだ」という私(藤田)の主張と似ており、共感するところである。
終り近くになってドーキンスの「利己的な遺伝子」が前面に出て来る。全体としては、興味深く読めた。最後の訳者後書きに、やはり、比喩に注意して欲しいというようなことが書いてある。
「読書論」の中で、
−−最後に、「読者に勧める立花隆のベスト5」といった本を挙げていただけませんか。
立花:それはいやだね、僕はね、若い時に人が推薦する本を読んで、よかった記憶ってないんです。<中略>結局、本との出会いは自分でするしかないんです。本当に本が好きな人は、自分で見つけますよ。
(これは、私=藤田もそう思う。そう思っていながら、最初、このページの表題を「お勧めの本」としていた。自己矛盾である。表題を、標記のよう変えたのはこのためである。)