読書録
Book Review

[2009/03/16,12:20 更新]

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(時間逆順です)

  1. 楽器の物理学:N.H.フレッチャー他、シュプリンガー・フェアラーク東京


     非常に広範囲の楽器についての百科事典的な書である。いろいろな楽器に触れてきて(ハーモニカ、ギター、フルート、リコーダー、ピアノ、チェロ)かつ物理が好きな筆者としては、とても面白い本である。筆者は、以前に、さる掲示板でトライアングルの音程感のなさや、ティンパニの音程感、大太鼓のパワースペクトルの2つのピーク等について、物理的な推測をした(この中で「RS」と呼ばれているのが筆者)が、それが当っていることがこの本によってはっきりした。
  2. 藤田嗣治「異邦人」の生涯:近藤史人、講談社


     藤田嗣治に筆者が興味を持つのは、単に苗字が同じだという理由だけではない。叔父山田新一との関係からである。山田新一は、戦時中、藤田嗣治と同様に「戦争記録画」を描いた洋画家であった。
     藤田は「陸軍美術協会会長」として、山田は占領軍を後ろ盾に朝鮮美術界の主導的立場にあって同協会朝鮮支部を担い、戦争に(少なくとも表面上は)積極的に協力した。二人とも、当時の芸術家と同様に心ならずも戦争に協力したと考えられることは二人の描いた絵サイパン島同胞臣節を全うす(藤田)」や、英国人俘虜二人(山田)」「朝鮮志願兵(山田)」などからも伺えるのだが。しかし、戦後、藤田は上記会長として美術界から藤田一人に戦争責任を負わされそうになり苦境に立たされる。一方、山田は、終戦時に軍部の意向に反して戦争記録画数十点を秘匿し、戦後GHQからの依頼によりその回収とその他の秘匿された戦争画の収集に当ったことにより、GHQから戦争協力を追求されることを恐れる画家達から「仲間を売る気か?」といった誹謗・中傷を受け、苦境に立たされる。
     実は、戦争記録画の収集は、最初、GHQから藤田に依頼されたのだが、藤田が骨折を装ってその任から逃れた結果、山田が引き受けることになった。ただ、山田から直接話を聞いた青木脩氏から伺った話によると、山田自身は、それを積極的に引き受けたらしい。

     上記のような経緯から、筆者は藤田の戦争記録画に関することに興味がありこの本を入手した。とりあえず、戦争記録画に関わる、第3章「皇国の画家」と第4章「さらば日本」をざっと読んだ。その中で著者が「サイパン島同胞臣節を全うす」の反戦的な内容に当時の軍がどんな反応をしたかについて興味を呈しているが、筆者も2002年同画の本物を見る機会を得、同様の感想を持った。
     本書によると、藤田は最初(1945/10/末)、戦争記録画を収集することに積極的であったようである。ただ、本書には、藤田から山田にこの任が移った経緯については、明確な記述がない。関係する部分は以下のようである。
     十二月七日付朝日新聞は「戦争画は海渡る 米各地にふりまく芸術の香り」との見出しで、戦争画収集を伝えている。
    <今度の第二次世界大戦にも・・<中略>・・終戦後連合軍総司令部のケイシー少将ならびに戦争芸術作品部員はつぎつぎにこれらに接し美術的価値を考え現在各所に分散している作品を都美術館に集めた上優秀作品のみを選択、アメリカへ運び、各所で展観する計画が進められている。このほど本国政府の承認を得て、藤田嗣治画伯が戦争画説明のための総司令部の嘱託に正式任命があった。>

     藤田は岐阜県高山などへ戦争画収拾に出向く傍らで、もう一人の日本人画家を協力者として推薦した。洋画家・山田新一である。東京美術学校で佐伯祐三らと同期だった山田は一九二八年渡仏、藤田が主催したパリ在住日本人画展に出品するなど藤田とは旧知の間柄であった。戦争中は、朝鮮軍報道部美術班長となって「朝鮮志願兵」などの戦争画を残しており、藤田と同じくその作品としての価値を信じて疑わなかった。
     この前の10月28日のGHQ文書によるとその時点では藤田はこの計画に非常に乗り気であったらしい。これが、年末に掛けてどういった経緯で任務回避に変わっていったかについては、本書には明確な記述がない。ただ、10月14日には、既に、洋画家宮田重雄による、藤田の進駐軍協力に対する強い非難の記事が朝日新聞に掲載されているので、そのころから少しずつ進駐軍に関わりたくないという気持ちが醸成されていったのではないか。
     本書を読むと、その後、藤田と山田は協力関係にあったような印象を受けるが、青木氏および母(山田の妹)の話によるとそうでもないらしい。山田が藤田に会ったとき(GHQ本部と考えられる)、藤田は足にギプスをして松葉杖をついていたそうである。その後、山田が陸軍美術協会解散事務所の住喜代志宅に戻ると、ギプスをはずした藤田がやってきて「もうあんなところ(GHQ?)に居たくない。君も(戦争画収集の任務は)辞退した方がよい。」と言ったらしい。山田自身は、自ら戦争画を旧軍の意向に反して秘匿したくらいであるから、それを回収することにはかなり意義を感じていたと考えられ、藤田の言動に奇異の念を抱いたらしい。このときから、山田は藤田との係わり合いを断ち戦争画収集は藤田の手から山田の手に移った。
     本書では上記引用のように藤田も山田も戦争画の作品としての価値を信じて疑わなかったことになっているが、少なくとも山田はそのようには考えておらず(恐らく藤田も)、作品には駄作もかなりあること、しかし、すばらしい作品もあり、作品の出来不出来に係わらず、作品そのものが歴史的事実として保存されるべきものと考えていたらしいことは、笹木繁男著「戦争画資料拾遺5 戦争画の戦後処理」(Live & Review)に引用されている山田の言葉から知られる。
    2002/12/20

  3. ゲーデルの世界:廣瀬健、横田一正、海鳴社


     記号論理学分野だけでなく、哲学分野などでも有名な「ゲーデルの不完全性定理」と「完全性定理」(こちらはあまり有名でないが)とK.ゲーデルの生涯について書いてある本である。上記定理については、講義でも触れるので一応その証明過程等については知っているが、その他の周辺的なことについて別の経緯で知りたくなったので県立図書館から借りてきて読んだ。「ゲーデルの不完全性定理(第一不完全性定理)」とは「公理と推論規則から形式的に証明できるもののみを『真』とみなす。」という立場を採ったときに「自然数論を体系内に含む無矛盾な論理体系には真偽が決定できない命題が存在する。」というものである。ゲーデルはこれを「この文は嘘である。」のような自己言及のパラドクスを、ゲーデル数という手法を用いて厳密な論理の世界に表現することにより証明した。
     内容は、わりと読みやすく書かれているし内容も面白い。この種の分野は、解析などの分野と異なり、あまり予備知識を必要とせず、一つ一つよく考えながら読む気力と根気があれば、理解できることが多い。論理学の素養がなくても読めると思う。
    2002/12/16

  4. 推理日記VI:佐野洋、


     推理小説評論の第6弾。毎度のことながら、著者の論理的明快さと、日本語に対する感覚や人の心理についての合理的な考え方が気持ちよい。久しぶりで、わくわくしながら本を読む。詳細はまたの機会に。
    2002/6/27

  5. 「知」の欺瞞:アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著、田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳、岩波書店


     「ポストモダン」という思想の潮流があるらしいが、本書は、ポストモダン思想における安易な科学用語の濫用を批判している。安易な科学用語の濫用は、多くのカルト的新興宗教などでも見られる。科学用語を濫用して科学が身についていない人を煙に巻き騙して取り込み易いからである。
     本書の中に書かれていることだけを見る限り「ポストモダン」の考え方は、そうとう奇妙な考え方に見える。
     本書で述べられいてる批判は、私自身の立場からすると、まことに妥当に見える。つまり、科学でさえもある種の仮定に過ぎないとは言え、「科学が導き出すものについての人間の各知覚からの情報と知識との整合性において、科学は格段に優位性がある。」という点は無視するべきでないと思う。どうもポストモダンの思考パタンは、「信頼性の程度」という概念が無く、0か1か、あるいは非常に特殊な場合をすべてに適用して極端な結論や奇妙な結論に達していたり、まちがった科学の理解の下に妙な結論を導き出すことが多いようである。
     最初の方(p.73〜74)に
     振り出しから始めよう。いったいどうして、われわれにこの世界についての(近似的で不完全なものにせよ)客観的な知識が獲得できると期待できるのか?人間には世界を直接体験することはできない。直接体験するのは、自分自身の感覚だけだ。感覚以外に何物かが存在しているということは、どうすればわかるのだろうか?
     答えは、いうまでもない。そんなことは決してわからないのだ。感覚以外の何物かが存在するというのはもっともらしい仮説にすぎない。
    とあり、筆者(藤田)の考えと一致する。また、p.77(および他のところでも何回か類似の記述がある)に、
     科学の方法といっても、日常生活や他の学問分野での合理的な姿勢と根本的に大きく異なるものではないとわれわれは考えている。歴史学者も、刑事も、配管工も、実際すべての人間が、物理学者や生化学者と同じように、帰納、演繹、データの評価といった基本的な方法を使っているのだ。
    とあるが、筆者(藤田)も人間が物事を理解しようとするときに無意識に使っている方法の厳密化・拡大が科学の方法と思っている。
    2000/10/31

  6. 脳を鍛える:立花隆、新潮社


     東大教養学部で著者が行なった講義をまとめたものである。一つの大きな主張は著者の言葉を引用すると、以下のようになる。
     ぼくらの頃は、物理、化学、生物、地学の理科四科目のうち三科目が必修で、大学入試は、国立の場合、文科、理科にかかわらず、誰でも二科目取らなければならなかったんです。・・・ところが、高校の履修制度、大学入試制度が少しずつ変わり、どんどん高校で学ぶべき内容が減ってきました。・・・特に激減したのが、物理です。昔は、九割以上の人が物理をやったのに、今は二割以下なんです。・・・
     東大卒業生といいながら、物理の知識は中学生レベルという人が文系の学部学科からは、これから世に続々出ていくことになるわけです。その人たちが、社会の各界で、いかにもエリートづらすることになるのかと思うと暗澹たる思いがします。日本はいま科学技術創造立国などというスローガンをかかげていますが、あと二〇年もしたら、官界、経済界、政界、学会、言論界のいずれにおいても、指導的立場に立つ文系エリートたちが、科学技術の最も基盤の部分においては、中学生レベルの知識しかない連中になってしまうわけです。日本の将来はもう終わりという感じがします。
     高校で物理をやった人はやった人で、別の問題があります。その人たちのほとんどが生物をやっていないはずです。つまり、その人たちは中学生レベルの生物の知識しか持っていないわけです。ということは分子生物学の知識は何もないということです。
     まことにもって同感である。以前、テレビで街頭を行き交う人に「一番要らないと思う科目は何ですか?」と問うものがあったが、その中で「理科」と答えた高校生がいた。筆者は、これにひどく驚くとともにやはり「暗澹たる」気持ちにならざるを得なかった。核燃料工場における臨界量超過事故や、最近の雪印の中毒事件それから、オウム事件などは、まともな科学知識が単なる応用知識としてでなく基本的な考え方として身についていたら起こらなかったはずである。特に、オウム事件を起こした理系のエリート(と言われた者)達は、科学技術を単なる物つくりの技術としてしか学んでおらず、自分のあらゆる知識との整合的な繋がりの中に取り込めていなかったと考えられる。
    2000/7/16

  7. 東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ:遥洋子、筑麻摩書房


     タレントが「女性学」を学びに東大のゼミに参加した。それも、現在この分野では最も先端を行く上野千鶴子教授の下でである。その経験談であるが、著者にとってはこれは目が回るような経験であったらしい。女性学そのものよりも、表題の通り、世の頑迷な「おやじ(実は若い男でも、さらには、女でもここでの『おやじ』に入る人は多いのだが)」と渡り合う方法とその基礎となる知識を得る過程の話である。また、一方で、「東大」というところの一面も著者の観点から述べている。社会学研究の現場というものの一面を知ることができる。
    2000/7/16

  8. 「なぜか人に好かれる人」の共通点:齊藤茂太、新講社


     女房が買ってきた。読んでみると人との付き合いにおいて参考になることが沢山書かれている。ただし、一見、相反する内容も多いのでマニュアル人間の人はこれを総てそのまま実行しようとして混乱するかもしれない。(読んだのは下記の日付よりかなり前)
    1999/11/11

  9. 日本語練習帳:大野晋、岩波新書


     もし、この本を「正しい日本語について書いてある」と紹介したら、恐らく著者は「それは違う!」と言うに違いない。本書は、「日本語によってできるだけ正確に自分の意図するところを相手に伝えるにはどうすればよいか」を書いてある。このことは、著者自身が「終りのお茶を飲みながら」と題した後書きで述べている。
     本書は「思う」と「考える」の違いについて分析するところから始まる。その違いを説明するために、それぞれの使われ方、即ち「用例」を示している。即ち、本書に一貫して流れている考え方は、「言葉の意味は、その使われ方で決まる」ということであると私は見る。この考え方には、私も同感である。小学校の高学年か中学1,2年のころ、国語の授業やテストなどで単語の意味を問う問題があって、それを見る度に「単語の意味が分かっているかどうかは、その単語を適切な場面で適切に使用できるかどうかであって、別の言葉で言い換えてもしかたがない!」というような反発を感じていた。そして、40年以上も後、私が「感情語」について分析する必要に迫られたとき、その種の文献を調べるまでもなくごく自然に用例の比較分析という手段を思い付いた。例えば、「口惜しい」と「残念」が違うかどうかは、それぞれが使われている例文において、この二つの単語を入れ替えてみることで分かるのである。
     私が国語ぎらいであった理由は、漢字を覚えるのがいやだったことと「読書感想文」を書かされることであったが、上記のような反感も大きな要素であった。
     読書感想文については、現在ではいろいろと批判もあるが、40年ほど昔は、ほとんど批判する人はいなかったのではないか?私自身は読書は好きであったが、読書感想文は大嫌いだった。理科の本などが好きだったのだが、そういった本はいろいろと好奇心を刺激され、満たされて面白いのであり、感想と言えば「面白かった」で終わりである。国語の先生が期待するような感想は出てこない。読書感想文が「面白かった」ではなぜいけないのか分からなかった。国語の先生はそれについての納得行く説明をしてくれなかったように思う。本書にも「むやみに感想文を書かせることの害」について書いてあるが、私も感想文には反対である。感想文などは、もっと大人になってから書きたいと思うようになったときに書けばよい。感想文を書かなければならないために、読書が楽しくなくなってしまっては何もならない。(読んだのは下記の日付よりかなり前)
    1999/11/11

  10. 日本語はなぜ変化するか


     いわゆる「抜き言葉」を軸に、言語が変化する要因と、日本語の変遷について書いてある。まだ、読了していないが、興味あるテーマである。
    1999/11/10

  11. ゾウの時間ネズミの時間:本川達雄、中公新書


     息子が高校のときに、感想文用に指定された本の一つであるが、読んで見ると結構面白い。副題に「サイズの生物学」とあるように、生物のサイズがその生存の形とどのように関係しているかをいろいろな視点から例を引いて書いてある。ずっと以前(40年近く前)に、「物理の散歩道」という本(4巻あった)の中で、人間にとってはなんでもない「表面張力」が微生物にとってはとんでもない束縛になるという記述があったのを思い出した。このことに関して本書では、「7章 小さな泳ぎ手」と題して、より広範で詳細に記述している。「量が質に転換する」という典型的な例の集まりとも言える。(読んだのは下記の日付よりかなり前)
    1999/11/9

  12. 学校崩壊:河上亮一、草思社


     教育に携わるものとして、最近の学生と以前の学生の違いなどに関心があるので読んだ。この本は中学教師の立場から書かれている。多くの経験からいろいろのことを書いてあり、観察事実については、ほとんどの部分がなるほどと思えるのだが、その観察事実から導く結論には、ちょっとちがうのでは?と思うところも多い。特に、言うことを聞かない生徒に対して一律に力による強制をするべきだ、という論調のところがあるが、育ってきた環境により、それが適切な場合とそうでない場合があり、そう単純には行かないと思われる。
     こんな記述がある。「いまの生徒を見ていると、小さいときからめったに、だめと言われたり拒否されたりした経験がないのではないかと思える。いま小学校が直面している学級崩壊もこのことが大きな原因なのではないだろうか。」・・・そうだろうか?これは少し違うように思う。いまの生徒にしてもある面では非常に頻繁に「だめ」と言われていると思う。ただ、「だめ」といわれる場面が、単に親の都合を頭ごなしに押し付けている場合が多すぎるのではないか。「いや、昔はもっと親の都合で押し付けていた」という人がいるかもしれないが、それは、昔と今の情報の伝わり方の違いを見落としているのだと思う。今、昔と同様の方法が通用すると考えるのはおろかなことだ。親の都合を押し付けることそのものが悪いかというとそうではない。「これは親の都合だが、親としてはこれを押し付けざるを得ない」ということを主張・説明することが必要なのではないか。そして、親のエゴを子供にも知らせ、親もそのことを認識していることを分からせる必要があるのではなかろうか。当然、親のエゴと子供のエゴがぶつかることになるが、そういったぶつかり合いの中で、社会的な規範等を身に付けさせる以外にないのではなかろうか。とにかく、現在はあらゆる情報があふれており、「親や教師の言うことに間違いは無い、だからだめなものはだめ」といった教育ができるような時代ではないということを認識する必要があると思う。
    1999/6/14

  13. アルツハイマー病:黒田洋一郎、岩波新書


     私も研究者の端くれ、しかも、どうもこのごろ物忘れがひどい・・・となると、心配になるのが脳の老化や痴呆症。という訳で、こういった本を読むことになる。
     この本によると、アルツハイマー病においては、βアミロイド蛋白というものが関係しているらしい。ところが、この蛋白は、狂牛病や人のクロイツフェルト・ヤコブ病の話にも出てくる物質である。つまり、プリオン蛋白によるスポンジ脳症においても重要な物質なのである。不気味な共通点である。
    1999/6/14

  14. 火車:宮部みゆき


     鳥取での研究会に行くため久しぶりでJRに乗ったので、列車の中で読んだ。最近直木賞をもらった宮部みゆきの長編である。推理小説の謎について内容を書く訳には行かないが、いわゆるサラ金等の問題を社会的な視点から述べその中の犯人・被害者・そして主人公が係わるいろいろな登場人物の行動・心情・主張を説得力のある形で描いている。読み応えのある作品である。犯人・被害者を含めて登場人物に対する優しい視点は宮部作品らしいものである。
    1999/1/27

  15. 死の病原体プリオン:リチャード・ローズ著、桃井健司・網屋慎哉訳、草思社


     「ホットゾーン」同様、新しい病原体の追求の話は、スリルがあって面白い。ホットゾーンのエボラ出血熱がアフリカのジャングルの猿から現れたのに対し、プリオンが原因のクールー病はニューギニアの人肉食の風習から、それと同類のCJ病はもともと人の病気であり、さらに同類のスクレーピー(羊)/狂牛病(牛スポンジ脳症)/感染性ミンク脳症(ミンク)は人間に身近な動物から出ている。これは、エボラなどより恐ろしい。特に、通常、食用にしている肉や、臓器移植(角膜、硬膜)などによっても感染する。プリオンは従来の生物に入らない(DNAやRNAによる自己複製に基づくものでない)ので、ウィルスに効果があった予防策や治療法が効かない。加熱にも強く360度の高温でも壊れない。しかも、プリオン蛋白は、人間の体にもともと存在するものであるので、問題がややこしい。
    1998/8/10

  16. 生と死の倫理:ピーター・シンガー著、樫則章訳、昭和堂


     旧来の道徳・倫理を根本から覆す内容の非常に刺激的な本であるが、一方、非常に面白い本でもある。最近になく引き込まれて読んでいる。
     人は何時人と認められ何時認められなくなるか。実は、科学的に明確な境界は無い。医学・生物学が進歩するにつれて、生と死の境界は曖昧になり、連続的なものとなってきた。類人猿と人の差も縮まってきた。境界は、法律や文化が恣意的に決めている。ならば、臓器移植用の臓器は何時取り出せるか、妊娠中絶はどんな場合に妥当か。
     例えば、無脳症で将来も意識を持つ可能性が無く、生命維持装置が無ければいずれ死んでしまう赤ん坊の生命の質は、脳は健康であるが心臓に重大な欠陥があり心臓移植をしなければ間もなく死んでしまう赤ん坊の生命の質より低いので、前者の心臓を取り出して後者に移植することは、(前者の親や家族の同意があれば)妥当だとする本書の見解までは同意できる(それもいけないとする人もいるかもしれないが、そう思う人は、是非、本書を読んで、そう考えることによって生じる多くの矛盾や問題の回答を示して欲しい)が、類人猿の生命の質と人間の生命の質を同じレベルで比較する論には全面的には賛同しにくい。しかし、明確な反論の根拠は見いだせない。できる反論は、非常に恣意的な「人間は人間の利益を守ることが第一義的なことである」という信念に基づくものである。しかし、こんどは「何をもって人間とみなし得るか」という問題につきあたってしまう。
     ほぼ全体を通じての印象は、養老猛の「唯脳論」と深いところで繋がりがあるということである。つまり、人間(あるいは人間に限らず生き物)の意識・思考というものを最大限に重要視しているという点で共通の基盤に立っていると思われる。
     本書の主張は、一見、とんでもない暴論に見えるが、事実に基づき慎重に検討された根拠による充分説得力のある議論の展開がされており、簡単に否定し去ることができない。
     読んでおく価値のある本である。
    1998/4/28

  17. 「私」は脳のどこにいるのか:澤口俊之著、筑摩書房


     脳科学者としての著者が「自我の脳内モデルの提示」をめざして「自我」あるいは「自己意識」が脳の連合野によって生じるものであることを述べている。脳科学者の主張であるから当然「心は脳の活動である」という大前提から出発する。ただし、この前提についても、根拠の無い仮定でなくいろいろな脳の病気や脳の損傷によって生じる症例を引いて根拠付けている。中に、以前に読んだ「DNAに魂はあるか」を引いているが、やはり、私と同様、この日本語の表題はおかしいと述べている。各章の表題を上げると、
     1.心はどこにあるのか
     2.心と身体はどんな関係にあるのか
     3.心と脳はどのようにできているか
     4.自我はどこに生まれるのか
     5.自我の脳内メカニズムをさぐる
    1997/11/28

  18. 偏頭痛百科


     偏頭痛について歴史的な知識・記述から現在の知識まで網羅的に述べて有る。私自身が偏頭痛持ちなので興味深く読んでいるが、中に偏頭痛の前駆症状である視覚異常で見える閃輝性暗点の絵が載っており、これは見るだけで気分が悪くなる。
    1997/10/13

  19. 少年H(上・下):妹尾河童著


     話題の書であるが、確かに面白い。上巻を読んだところであるが、この本に出てくる少年Hはとても賢い少年である。しかし、その父親はもっとしっかりした人物だと思う。キリスト教に入信していながらそれにあまり囚われずに、非常に冷静で物事を見通した判断をしている。すごい人である。
    1997/8/29

  20. 漢字文化とコンピュータ:伊藤英俊著、中公PC新書


     コンピュータと漢字の関わりについて、その由来から、問題点について述べている。現在、米国が主導して進められているunicode系(UCS)の漢字コード体系は、日本には不都合な点があるのだが、勢力の差で押し切られてしまったそうだ。学術研究で歴史的文書などを扱う場合には、初めから10万字をサポートするTRONコードが良いらしいが、この本にはそれについて全く触れられていない。
    1997/8/27

  21. われわれはなぜ死ぬのか:柳澤圭子著、草思社


     表題だけ見ると、人生論か何かのようであるが、内容は生命科学である。ただし、その生命科学に立脚した上で「死」というものをどう受け止めるかということが書かれている。まだ、はじめの方しか読んでいないが、まず、生命と死の関係から説き起こす。我々人間からすると、「死」は必然のように感じられるけれども、生命にとって「死」は必ずしも必然的なものではないらしい。
    1997/6/27

  22. 場の量子論とは何か:和田純夫著、BlueBacks


     クォークの話まで行くと、「粒子」という概念がマクロな感覚と非常にずれてくる。素粒子論はどこに行くのだろう。
    1997/6/16

  23. 医者から見た「脳内革命」の嘘


     「脳内革命」に対する痛烈な批判。特に「脳内革命」の著者が医者であるのに、医学的に根拠の無いあるいは間違った、矛盾した、古い、説を「信じれば救われる」といったような新興宗教的な言い方で素人に対して撒き散らすことに、義憤を感じているようである。世の中の風潮として、「こうすればすべて解決する」的な単純な断定を信じたがる人が増えているようだ。
    1997/5/26

  24. ウイルスの反乱:ロビン・M・ヘニッグ著、 長野敬・赤松眞紀訳、青土社


     出現ウイルスの問題。ウイルス、特にRNAウイルスは突然変異を起こしやすい。それで、危険なウイルスが突然変異で発生する可能性もあるが、もっと注意しなければならないのは、出現ウイルスである。出現ウイルスとは、既になんらかの宿主に共存的に生存しているウイルスが宿主と異なる種との接触により、それに感染しその種に致命的な症状を引き起こすことである。これはウイルス自身にとっても、被感染主が死に至ると自分自身も死んでしまうので、不幸なことである。現在は、アフリカのジャングルなどの未知の領域を不用意に開拓して出現ウイルスを生じさせている。たとえば、エイズやエボラ出血熱などがそうである。第6章の最後に行政に対する痛烈な皮肉を引用している。「彼らは対症療法しかとらない。新しい病気がいまにも現れようとする危険な状態で、それに対してあらかじめ手を打つことができても、病気が実際に出てくるのを待つように言うのだ。」9章には、「ウイルスの家畜化」という題で、ウイルスに巧く遺伝子操作を加えて、人間の遺伝病や癌その他の病原体に選択的に攻撃を加えることにより(他への副作用無しに)効果的に治療できる可能性について述べている。
    1997/5/26

  25. [新]人体の矛盾:井尻正二・小寺春人、築地書館


     人体の各部分の遺伝的・進化論的由来から、一見、完成されたように見える器官にいろいろと不都合な点や不可解な点があること、そして現在の形が進化(退化)の1時点のものに過ぎない事を教えてくれる。
     9章の「胎盤の出現」の終わりの方には過激とも言える問題提起がなされている。哺乳類が胎盤と子宮という機構を得て、多様な環境に対する適応に大成功を収めたことを述べ、その後で、人の胎生の未来に疑問を投げかけている。「これ以上の脳の大化はますます難産をきたすであろうし、さりとて産道を大きくするための骨盤の拡大は、直立姿勢の全体のバランスをあやうくするという矛盾がある。さらにもう一つの問題は、現在の生殖方法が女性の一方的な負担を前提としており、人間社会の性差別の根底をつくっている、という問題がある。そして、真の性差別の解放とは、生殖の平等化にあるとも考えられるからである。」そして、その解決の一方法として有袋類のような早産化をあげている。現在でも280グラムの未熟児を育てることができるのであるから、将来人体を改造し、新生児を改造し、それにみあった、はるかに安全性の高い技術が確立するなら、妊娠期間をはるかに短縮する方法がありうる、と説く。
     恐らく、多くの人々、特に宗教家から強い反発を食う発言ではなかろうか。しかし、私(藤田)は、安全性の条件が満たされた場合、多くの女性がそれを望むことが予想され、それに反対する説得力のある理由はないのではないかと思う。単純に否定できないものを持った言説であると思う。
    1997/3/31

  26. 洗脳されたい:別冊宝島


     精神的に支配されていないと安心できない人たちと、そのような人達を利用して金もうけをする人達の話である。
     読んでいると「どうしてこんなばかばかしい話を信じ込んでしまうのか」と不思議に思うのだが、そのような人は、信じさせられたというよりも、自ら信じたくて信じているようである。
    1997/3/24

  27. 人体に棲みつくカビのはなし:


     生物は、昔は、動物/植物に2分されていたが、今は、動物/植物/菌類、に分けられている。菌類の中で、よく目にするものは、カビであり、食用にするものとしては茸がある。茸は、菌類の子実体である。カビの中で、人体に住み着くものの代表は、白せん菌(いわゆる水虫、たむしの類)である。このような菌類は、胞子がごく普通に空中に浮遊していたり、ものに付着していたりする。したがって、普通の人の皮膚や口腔、肺などに必ず存在するものである。皮膚病などの形で発病した場合は、寄生していると言ってもよい。すなわち、感染対象である人間に致命的な害を与えずにある種の共存関係にある。しかし、老化やAIDSあるいは臓器移植の場合に拒絶反応を押さえるための免疫抑制剤の投与などで人体の免疫力が低下すると、この共存関係が崩れて、白せん菌などで致命的な症状を呈するようになる。いわゆる日和見感染である。また、カンジダ菌のある種のものは、胃の中に住み着いて、澱粉をアルコールに変える。こうなると、ご飯を食べただけで、酒を飲んだ状態になる。もっと恐ろしいカビの話も出ている。やはりカビは恐い。
    1997/1/29

  28. アガスティアの葉の秘密:パンタ笛吹・真弓香、たま出版


     「(現代人も含めて)個人についての予言が古代インドにおいて植物の葉に書かれている」ということで、とても信じ易い二人が自分の運命についての予言を見に行くが、いろいろな状況からトリックであることに気付いてそれを確認する。しかし「アガスティアの葉」がトリックであることを見破った二人であるが、サイババのビブーティーは本物と信じているようである。「突然僕の目の前で、ババ得意のビブーティー(聖なる灰)の物質化の奇跡をやってのけた。今までテレビなどで見てトリックではないと確信していても、・・・驚かされる。」などと書いている。テレビくらいいろいろな意味でトリックだらけのものも無いと思うのだが、それを簡単に信じる精神構造はどうなっているのだろう。
    1997/1/6

  29. 笑うカイチュウ:藤田紘一郎、講談社


     回虫をはじめとする人の寄生虫は、化学肥料と衛生知識の普及と共に減少してきたが、ここにきて再び増加の傾向を示しはじめた。それは、いわゆる「自然食品」ブームが原因の一つである。化学肥料でなく人糞を含む有機肥料による野菜等をよく洗わずに食べることが原因になっている。化学肥料による野菜類ならば、あまり神経質に洗う必要もないが、有機肥料の場合には、かなり神経質に洗う必要があることを知っている人がいなくなったのである。この本は、寄生虫学の面白さをユーモアを交えて語り(と言っても尻から30cmもの生きた回虫を引っ張り出すといった、かなりブラックになっている部分も多いが)最近医学において軽んじられている寄生虫学の重要性を説く。
     寄生虫は、エボラその他の伝染病と異なり、元来人間と決定的に敵対するものではない。人間にとって有害な部分もあるが、決定的に有害であれば、「寄生」という形をとることはできず、その宿主である人間を殺してしまう。「寄生」という形をとれるということは、一種の共存である。では、人間にとって益になることがあるかといえば、実は、あるのである。その例として、寄生虫保持者は、アレルギーを起こしにくいということである。免疫機構が寄生虫に対する免疫作用に機能の多くを占有されて、花粉やダニに対する免疫にまで手が廻らないという状態になるらしい。最近、花粉やダニのアレルギーが増加してきたのは、寄生虫を持った人が少くなったからであるらしい。長い歴史をもった生物界のバランスを壊すと面倒を引き起こし勝ちだという例であろう。
     人にも感染するペットの寄生虫の話では、
    犬のイヌカイチュウの寄生率:
      京都15.3%、神戸18.4%、東京11.8%、東北地方17.0%、北海道19.5%
    寄生虫ではないが、エボラ出血熱・マールブルグ病・アメーバ赤痢(サル)、ガッコウチュウ、マンソンレットウジョウチュウ、カントンジュウケツセンチュウ、ハイキュウチュウ、センモウチュウなど枚挙にいとまがない。トキソプラズマの感染率は、
      ヒツジ45%、ネコ37%、イヌ31%、ブタ24%
    この内、ネコはその糞に、感染し易い「オーシスト」というトキソプラズマの存在形態があるので危険。もちろん犬のなどでも口移しで食べ物をやったりしては危険。人間には大体20%くらいの感染率。人間、特に妊婦に感染すると(既に感染して十分時間が経っていれば大丈夫だが、妊娠してから感染した場合)妊娠3ヶ月以内の場合胎児に障害を生じる(大体感染者の内、1/1000程度の割合)。
     イヌシジョウチュウは、犬の30〜50%が感染しており、蚊を媒介とて人間にも感染する。肺に感染すると肺癌と区別が付きにくい。
    1996/12/27,1997/2/12

  30. 宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった:佐藤勝彦、同文書院


     物理や宇宙論をやっている訳ではないけれども、相対論や量子力学の講義を学生時代に受けたので、文科系の人の平均よりはこの辺りの知識はあると思うが、最新の宇宙論は不思議で解らない。易しく解説しているので、つい、納得してしまいそうになるが、こういった極微/極大/超高速/超高温の世界については、人間のマクロな感覚との整合性をもつ物理法則を敷延して適用する場合に多くの任意性があるように思われ、必然的に哲学的になる。つまり、多くの人の合意を得るのがなかなか困難になる。
     ここで述べられているインフレーション理論や相転移の話も、「へーっ!そんな風に考える事もできるのか?」といった驚き以上の理解は難しい。
    1996/12/18

  31. オーケストラ楽器別人間学:茂木大輔、草思社


     どんな性格の人がどんな楽器を選ぶか、向いているか、あるいは、楽器を担当することによってどんな性格が形成されるかについて、経験と独断と偏見により書いている。かなり支離滅裂なようなところもあるが、所々に思わずニヤリとさせるところもある。オーケストラが好きで、自分も楽器に触った事がある人には面白いかもしれない。
    1996/12/9

  32. 免疫の意味論:(再)多田富雄著、 青土社


     再び、この本について述べる。読み進むにつれ、免疫システムの複雑さとランダムさとそれによる不安定さ危うさに驚かされる。人間などの動物が自己と非自己を識別し、非自己の侵入を排除する仕組みがシステム内のマルチエージェント的な構成要素のネットワークによって生じるローカルな安定点でしかないということに驚かされる。
     さらに、免疫系が無数の試行錯誤と学習によって形成されることに驚かされる。ランダムに次からつぎに抗体を生成する細胞を作り出し、その中から96〜97%にも及ぶ自己に対して反応する有害な抗体を生成するものを殺し、残りのわずか数%である役に立つもののみを育てる。この歩留まりの悪さは、生物がある面では無計画に作られていることの象徴のように見える。その選別の機能に異常をきたしたらどうなるか。これは、自分自身を異物とみなして自分自身の細胞を破壊する、すなわち拒絶反応を起こす結果になったり(自己免疫病)、外界からの侵入物を識別排除できなくなったり(免疫不全)する。前者の代表的なものが、全身性ループスという病気である。また、後者はエイズが代表的である。
     自己免疫は本来自己を守るべき免疫機能が自己を攻撃し始めるので、自己矛盾に陥ったようなものである。ところが、自己免疫以外にも免疫システムは内部に様々な矛盾を含んでいる。たとえば、細胞性癌遺伝子というものは、免疫機能を抑制する性質があり、これが正常細胞が分裂増殖するのに大切なのであるが、これがまた、癌の原因になっている。
     免疫システムも老化をする。それは、有用な免疫細胞と役に立たない/有害な免疫細胞の選別機能が低下することに起因する。そうすると、やはり免疫不全の状態になり、若者にはなんでもない病気で重厚な症状に陥る。
     この本はとにかく驚きの書である。生物に興味がある人はもちろん、人工知能や宗教・哲学等に興味がある人が「自分とは何か」といった抽象的/哲学的?問いを発する前に読むべき本だと思う。
    1996/11/8

  33. うるさい日本の私:中島義道、洋泉社


     騒音公害(と言っても、飛行機や工場の発する騒音ではなく、なんらかの情報を伝えることを意図して出されるものであり、公共の福祉を目的とするものも含むのであるが)に対する日本人の反応を軸に、日本文化の批評を行っている。
     本書の中に「自分がして欲しくない事を他人にしない」という考え方は一見よさそうであるが実は非常に自己中心的であるというような記述があった。確かに、上記の対偶を考えて見ると「他人には自分がして欲しいことをする」になり、自分の好みを他人に押し付けることになる。また、まず、「自分と他人は異なるのだ。」ということから出発しなければいけない、というような記述があったが確かにそうである。この本の主張は、論理の飛躍があるような所もあるが、耳を傾けるべき意見・見方が結構あると思う。
    1996/10/29

  34. 喜怒哀楽の起源:遠藤利彦、岩波科学ライブラリー


     いわゆる「感情」について従来の「基本感情」という考え方に対しての批判という形で、最近の感情理論を紹介している。「基本感情」などというものは無く、あるのは「典型的感情」であるとする私の考え方を支持するもので、肯首する所は多い。感情についての基本的考え方の概要を学ぶのには良い本であると思う。
    1996/9/30

  35. イエスとは誰か:高尾利数、日本放送出版協会


     マルコによる福音書に基づき、ルカ、マタイ、ヨハネによる福音書に現れるイエス像を分析し、聖書によって作られる歪んだイエス像について批判を加えている。多分、聖書を信奉している多くのキリスト教徒には、あまり愉快でない書物ではなかろうか。興味深く読み進んでいる。
     「エホバの証人」という宗教団体がある。その信者が事故に遭ったとき輸血を拒否して死亡した(胎児も一緒に)とのニュースがあったが、どうしてそんなに命を粗末にするのであろうか。病院も成人の信者が宗教上の理由で輸血を拒否したら、それに従うらしい。それならば、もし、ある人が「私が作った私だけの宗教により、輸血を拒否する」といったらどうするのだろうか?さらに、「私の主義により、輸血を拒否する」といったらどうか?やはり輸血をしないのだろうか?もし、輸血をしなければ、「未必の故意」による殺人、あるいは、「不作為の罪」ないしは「自殺ほう助の罪」に問われないのであろうか?もし、罪に問われないとしたら、安楽死などを自殺ほう助として断罪するのはおかしいように思う。
     また、宗教上の理由により格闘技の授業を受けなくてもよいそうである。この場合も、生徒が「私の家の主義により、格闘技をしません」と言ったら、見学になるのだろうか?もし、ならないとしたら、思想信条による差別になるように思う。
    1996/7/16

  36. 「豊後の磨崖仏散歩」渡辺克己、双林社


     大分県は全国でも随一の磨崖仏県である。臼杵石仏は非常に有名であるが、その他にもあちこちに磨崖仏がある。時間を見て磨崖仏巡りをしようと思っているが、その参考にこの本を買った。
     大分市内の石仏の記述の中に「曲石仏」についての記述がないので、その理由を問い合せてみたいと思って著者の略歴を見たら、なんと富士見が丘3区在住である。私の家の近くである。いずれ直接お話を伺えるとよいと思う。
    1996/7/4

  37. 量子生物学:ブルーバックス


     さる事情から拾い読みをした。久しぶりの波動関数とハミルトニアンである。「光子や電子などについて『波動/粒子』論争があったが、そもそも、そのようなミクロな対象をマクロな対象についての概念で分類しようとすることが間違いで、それらは、『波動でも粒子でもなくその両方の性質で記述される何物か』なのだ」といった内容の記述があった。まさにそうである。
    1996/7/4

  38. 免疫の意味論:多田富雄著、青土社


     買ったばかりで、少ししか読んでいないが、面白い。いずれ報告をする予定。
     この本を読み進むにつれ、免疫システムの複雑さと巧妙さに、まさに驚嘆する。クリックの「DNAに魂はあるか」の訳本の副題「驚異の仮説」がはだしで逃げ出すような「驚異の事実」が述べられている。少なくとも、私には、そうである。3章の「免疫の認識論」の記述を引用すると、
    「そのやり方というのは、まず第一に異なった遺伝子断片のつなぎ合せ(再構成)である。<中略>その組み合せで多様性は一千万種類以上になり得る。
     その上、ほかの蛋白では絶対にあり得ない回数の突然変異が、V遺伝子の特定の部分で頻繁に起こる。こうして、途方もない種類の抗体分子を作り出す遺伝子のセットが作り出されるのである。
     私たちを当惑させるのは、このような新しい遺伝子の再構成が、全くランダムな遺伝子断片の組み合わせで起こってくることである。何がつくられるのか予想もつかない。その中には、『自己』と反応する抗体もあるだろうし、全く無意味な抗体も多いに違いない。この点では、遺伝子断片の組み合わせ、再構成には、全く『先見性』がないのである。
     そして、このことから、ニールス・K・イェルネのネットワーク説に導くのであるが、この説もまた非常に興味ある説である。非常におおざっぱに言えば、免疫系というものは、ランダムに生成した抗体の集合の相互作用の幾つもある平衡点の一つとして存在するものであるということだ。
     上記の「先見性のないランダムさ」が結果的に非常に巧妙な免疫システムを支えていることに驚くとともに、「遺伝子の川」にあった、「自然の無目的性」ということを改めて思い出させる。

     この本は、まだ、読了していないがじっくり時間を掛けて読む必要がある。

    1996/7/16

  39. 「DNAに魂はあるか(驚異の仮説)」F.クリック著、中 原英臣・佐川峻訳、講談社


     著者は、有名な2重螺旋モデルの提唱者の一人である。この著者は、分子生物学から、脳科学へと研究分野を移してきた。もともと、物理の人ということなので、遺伝子が巨大な情報メディアであることを知った後では、情報処理をつかさどる脳に興味が行くのは自然なのかもしれない。
     標題がちょっとセンセーショナルなのでいい加減な本と誤解されかねないが、まともな本である。さらに、副題が「驚異の仮説」(実は原題が「The Astonishing Hypothesis」)となっていて、よけいに怪しく感じるが、ここで述べられている仮説は、人工知能関係のことをやっている人の多くにとっては、ごく当たり前のことであろう。しかし、それ以外の人あるいは特に、宗教関係者の多くには、「驚異」あるいは、受け入れ難いものかもしれない。
     主に視覚について、脳科学の立場からさまざまな記述をしており、知覚や意識のメカニズムを説明している。

     12章の「傷ついた脳」では、脳の障害によって生じるさまざまな視覚異常について記述されている。

     18章において次のように語っている。「多くの哲学者や心理学者は、今はまだニューロンについて考えるのは早すぎると思っている。だが、実際は逆なのだ。むしろ脳をブラックボックスとして理解しようというやり方の方が、時期尚早なのである。特に一般用語で説明したり、プログラムできるコンピュータになぞらえて説明するのは、まだまだ無理である。脳を理解するためには、莫大な数のニューロンが行っている並列的な処理システムをまず理解しなければならない。」
     同意しかねる部分もあるが、分子のレベルから生物を見てきた著者の信念を感じる主張である。
    1996/7/4

  40. 遺伝子の川:R.ドーキンス著、垂水雄二訳、草思社


     「利己的な遺伝子」の著者ドーキンスが書いたものだが、あまりそのことを表に出さず、分子遺伝学が進化論とどのように関係するかを比喩を交えて説明してある。ただし、ところどころ、比喩が過ぎて誤解を招きそうな感想をもつ部分もあるので、用心して読む必要がある。(5月9日現在、まだ読んでいる途中である。)
     5/9以降に読んだ部分では、この著者および同様の研究をしてきた人々が、キリスト教の信者(科学者も含めて)や聖職者達あるいは「神」に如何に苦労させられたか、そしてそれらの人々にどのようにして説明を試みたかが解る。
     印象に残った部分を引用してみよう。

     「どうしても得心がいかないのだが、慈悲深くも全能の神たるものが、生きている毛虫の体内で栄養をとるようにという明白な意図をもってヒメバチたちをつくられたなどということがあろうか。」(藤田注:これは、ダーウィンの言葉の引用であるが、ヒメバチが生きている毛虫に卵を生みつけてその毛虫は生きていながら、ヒメバチの幼虫に食べられて行く事実に基づく)

    その少し後
     「雌のジガバチは、卵を毛虫(あるいはバッタやハチ)の体内に産みつけてそこで栄養をとらせているだけでなく、ファーブルその他によると、彼女は獲物を麻痺させるが殺さないようにと、注意深くその中枢神経系の各神経節に針を刺すという。これで、ご馳走の鮮度は保たれる。麻痺が全身麻酔として働くのか、あるいはインディアンの毒矢に使う神経毒のように犠牲者の運動能力を奪うだけなのかはまだわかっていない。後者だとすると、餌食となった毛虫は生身の身体を内側から食われているのを知りながら、筋肉が動かせず何の手も打てないわけである。これは残酷きわまりない話だが、これからみていくように、自然は残酷なのではなく、非情で冷淡なだけである。」

     「われわれ人間は、目的意識が頭から離れない。何を見ても、これは何のためにあるのかと思い、その動機、つまりその目的の背後にあるものは何だろうと思わずにはいられない。」この記述は、「人間は、『感情の動物である』と言いながら、実は、『論理/納得』がなければ夜も昼も明けないくらい『論理好き』である。人々が『感情』と思っているものも良くよく検討してみると実は論理あるいは納得したいという欲求であることがほとんどだ」という私(藤田)の主張と似ており、共感するところである。

     終り近くになってドーキンスの「利己的な遺伝子」が前面に出て来る。全体としては、興味深く読めた。最後の訳者後書きに、やはり、比喩に注意して欲しいというようなことが書いてある。

    1996/6/3

  41. 「僕はこんな本を読んできた」立花隆著、文芸春秋


     全部丁寧に読んではいない。2時間程度で跳ばし読みした。その中で、印象に残った部分を抜き書きすると以下のようである。

    「読書論」の中で、
    −−最後に、「読者に勧める立花隆のベスト5」といった本を挙げていただけませんか。
    立花:それはいやだね、僕はね、若い時に人が推薦する本を読んで、よかった記憶ってないんです。<中略>結局、本との出会いは自分でするしかないんです。本当に本が好きな人は、自分で見つけますよ。
    (これは、私=藤田もそう思う。そう思っていながら、最初、このページの表題を「お勧めの本」としていた。自己矛盾である。表題を、標記のよう変えたのはこのためである。)

    <中略>

     「そもそも過去の知の総体とは、古典として継承されていくべきものなのかどうか、あるいはもっといってしまえば、過去の知の総体は継承されていく必要があるものなのかどうかということすら、ある意味では疑問ではないかと思うわけです。」
    <中略>

     「読書論というと、すぐ古典を読めという人が沢山います。私はこれに非常に否定的であります。」
    <中略>

     「進化の系統樹の中に、たとえば恐龍のように、進化のいわば袋小路の中に入ってしまって、その方向では確かに頂点に達したけれども、その先の発展がなくて、そのまま死滅したという種がいくつもある。それと同じように、何がそうとはいいませんけれども、人間の知の営みの中でも進化の袋小路的な存在があり、十九世紀のロマンとか十九世紀の思弁哲学などはそういうものになりつつあるのかも知れないという気がするわけです。たぶん、ヘーゲルなんてのは、そのたぐいではないかと思います。」

    1996/5/16

  42. 超ウイルス:根路銘国昭著、光文社


     これもエボラやその同類のRNAウイルスについての本であるが、専門家が書いたにもかかわらず、読みやすく、しかもウイルスについての知識も得られる。これも、小説のように読める本である。この語り口を見ると、この著者は小説も書けるのではないかと思える。
     RNAウイルスは遺伝的変化が速く、現在人間に害がないウイルスも何時、エボラやエイズのような人間にとって狂暴なものに変貌するかわからない。特に、現段階で宿主の中では無害だが、人間にとっては非常に危険なウイルスが(特にアフリカやアジアの熱帯地域に)潜んでいる可能性は非常に高く、むやみにそういった地域に開発を進めるととんでもないしっぺがえしをくう可能性がある。
    1996/5/15

  43. 「ホットゾーン」R.プレストン著、高見浩訳、飛鳥新社


     映画化されたのは同じエボラ出血熱を題材にした小説「アウトブレイク」ではないかと思うが、多分、このドキュメンタリーの方が事実を物語っているだけ面白いのではないか。とにかく、この恐ろしいウイルス病の魔力に取り付かれて上下巻を一気に読んでしまう。ドキュメンタリーとしてでなく、恐怖小説として読んでも一級のものであり、その迫力はSFホラー小説の「パラサイトイブ」など足許にも及ばない。
    1995/12

  44. トンデモ本の世界:と学会篇


     とにかく笑える本である。しかし、同時に笑えない本でもある。現代の日本で、ほとんどの人が高校まで行って物理や化学、生物の勉強をしてきたはずなのに、単に試験問題を解くためにしか役にたっていない、自分がものを理解するための知識や智恵になっていない人のなんと多いことか。
    1995/12

  45. サル学の現在:立花隆著、平凡社


     現在のサル学を、生態社会学的観点から遺伝学的観点まで先端の研究者に取材したもので、著者の取材力にまず感心する。サル学は、サルを研究することにより、人間に迫ろうとするが、遺伝学的には、サルと人間はほとんど同じであり、また、チンパンジーやゴリラは、子殺し、親密度と食物の分け与えの関係、子供の教育、生殖目的でなくコミュニケーションのための性行為あるいは同性の性的接触等、人間とほとんど違わない文化をもったものもある。
    1993

  46. 心の社会:M.ミンスキー著、安西祐一郎訳、産業図書


     構成は見開き2ページに納る程度の長さの節の集りであり、読みやすい。しかし、内容は多岐にわたり、示唆に富んでいる。人間の(感情を含めた)思考の仕組のハードからソフトまでについて記述してあるが、これがそのままプログラムになるかというとそうは行かないところが、苦しい所である。しかし、面白い内容であることは確かであり、人工知能や認知科学をやろうと思う人でなくても、一度は読んでおく方がよい。訳は、かなりよくできたものであり、これほどの訳をすることは、大変であったろうと推測される。
    1990
    原書の途中まで1988

  47. 佐野洋の推理小説


     文庫本の大部分、推理日記1,2,3,4,5
    1980〜

  48. 数学序説:吉田洋一・赤摂也、培風館


     これは名著である。高校3年のときに数学の先生から紹介されて読んだが、数学とはこんなに面白いものかと思った。一時は理学部の数学科に進学しようかと思ったりもした。
    1963


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