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科学とその周辺
政治家

熊被害とメガソーラー

 最近、各地で熊が出没し熊による死者もうなぎのぼりの状況だ。これについて、「メガソーラーで山林を伐採したからだ。」という主張をする人が散見される。これは見当違いの原発推進派のデマではないか。
 日本の2025年のメガソーラーの総面積は300〜400km2とされている。日本の総面積37万km2と比べると1/1000程度なので、ほぼ影響が無い。
(2025/10/29)

三菱洋上風力撤退

 三菱商事が洋上風力発電事業から撤退した。採算が合わなくなったのが理由とのことだが、いきなり撤退というのは無責任だ。しかし、最も問題は政府の姿勢だ。政府の目標値は2040年度には40〜50%とのこと。口だけは再生可能エネルギーへの転換を言っているが、実情は原子力発電には数10兆円の補助を出して来た一方、再生可能エネルギーは民間でという、再生可能エネルギー潰しのような政策になっている。これでは目標達成は不可能だ。
 今の政府は亡国の政府だ
(2025/09/07)

蜂の巣構造

 「世界!職人ワゴン第9弾」というテレビ番組で、日本の職人集団がアラブまで出向いて子供たちのために遊具や教室を修理したエピソードを放映していた。その中で、蜂の巣構造が丈夫だということを言っていたが、そこで製作したものは正6角形の単独の木製フレームを使った遊具だった。これは大きな間違いだ。
 蜂の巣構造が丈夫なのは、6角形の筒状の構造が側面によって多数連なっている場合であり、単独の6角形のフレームは横からの力で簡単に破壊される。上記の遊具を製作した大工?は「蜂の巣構造なので強い。」と得意げに言っていたが、大丈夫か。
(2025/09/03)

ラプラスのブラックホール

 「3ヶ月でマスターするアインシュタイン」というTV番組で、数学者のラプラスがブラックホールの予言に近い思考実験をしていたという話題があった。筆者は電気工学科出なのでラプラスはラプラス変換などで知っていた。しかし、ラプラスがニュートン力学から導かれる脱出速度の式

 V:速度, M:質量, r:半径, G:重力定数

  V=(2GM/r)1/2

でV=C(光速)を仮定してrを計算してみたという話は初めて知った。V=Cの時のrをrs とすると

  rs=2MG/C2

となり、半径がrs 以下の天体からは光さえ脱出できなくなる。つまり、ブラックホールになる。
 この結果は後にアインシュタインの一般相対性理論から導かれるブラックホールのシュバルツシルト半径と一致するのであるが、ニュートン力学がブラックホールを介しても相対性理論と自然につながっていたという物理学の驚くべき整合性に改めて感銘を受けた。そして、ラプラスの発想の柔軟さと好奇心にも驚かされた
(2025/08/13)

煽りハンドル

 「煽りハンドル」と呼ばれる運転行為がある。右左折する直前で一旦曲がる方向と逆にハンドルを切る行為だ。先日も左折レーンの右側の直進レーンを走っていたら、左横を走っている軽自動車が急に右に寄って来てギョッとした。
 普通の幅の車道で右左折道路の内側にカーブが付けてある道路なら普通車でもそのままハンドルを切れば問題なく曲がれる。ホイールベースの長いトラックやバス、トレーラなどならいざ知らず、軽自動車で煽りハンドルを切らなければならない状況はほとんど無い。
 このような運転をする人は、車には内輪差があるということだけが頭に染み付いていて、カーブの程度(鈍角、直角、鋭角)やホイールベースの違いによって内輪差の影響が異なるという物理的・幾何学的理解が無いのではないかと思う。あるいは、教習時にクランクやS字カーブで後輪を縁石に乗り上げてトラウマになっているのかも知れない。そういう人は前輪の道路上の位置のイメージが無く小回りになってしまっていたのだろう機械や物の動きのイメージができない人は運転には向かないのではないか
(2025/08/11)

ネオニコチノイド

 ネオニコチノイドという農薬がある。節足動物の神経に作用して農薬として非常に使いやすく有効らしい。人間などの哺乳類にはほとんど無害とされてきたが、近年その毒性が知られるようになった。例えば、マウスの実験では無害とされる量のネオニコチノイドを投与された場合でも神経系に影響があるらしく、行動に大きな変化が見られる他、人間にも食品を通しての影響が見られた例がいくつか報告されている。
 この状況から2000年前後を境にEU、フランス、オランダ、デンマーク、ドイツ、イタリア、アメリカなどで規制や禁止がされてきた。
 この状況の中で日本政府は全く動きを見せず、あまつさえ2015年、第三次安倍政権はネオニコチノイド系農薬の食品残留基準を緩和した。この結果2025年現在、ほうれん草では同系の農薬の許容残留量は従来の13倍にもなっている。これは「機能性表示食品」などという馬鹿げたカテゴリーを導入し、後に「紅麹」事件を誘発したた安倍亡国政権の数有る犯罪の一つだ。
(2025/08/05)

一般道で時速160km/hは危険運転でない?

 宇都宮市において、乗用車で時速160km/hで一般道を走行しバイクに追突してバイクの男性を死亡させた件で、検察は最初、過失運転致死罪で起訴したが後に危険運転致死罪に訴因を変更した。最初の過失運転致死罪での起訴は妥当だったのか。
 そもそも、法定速度60km/hの道路を160km/hで走行することがどういう物理的状況なのか、以前にも書いたが、検察官は理解できていないのではないか。
 法定速度60km/hの道路を160km/hで走行すると、その車の持つ運動エネルギーは法定速度時の7倍以上になる。つまり、7倍以上の破壊力になっているのだ。この一点だけでも危険運転に該当すると考えるのが合理的だ。司法や立法に携わる人間はこうした物理的事実に無知なのか
(2025/08/02)

選択と集中という愚策

 日本の学問研究の水準は下降の一途をたどっている。この大きな原因は長年の政府の文部行政にある。大学、特に、国・公立大学の予算をどんどん削って、研究者や研究機関を減らしてきた結果だ。政府が「役に立たない」と判断した研究に金を出さず、「選択と集中」などと、目先の役に立つという判断で特定の研究だけに金をつぎ込んだ結果だ。
 そもそも、目先の事に囚われて、学問研究が役に立つかどうかなど簡単に判断できると考えるのは極めて浅はかな思考だ学問研究の結果は、思いも寄らない所で、思いも寄らない時点で、思いも寄らない形で役に立つようになるものだ。きちんとした研究である限り、「エッ!?こんな研究何の役に立つの?」というような研究の方が全く新しい分野で生きて驚くような役に立つ可能性がある。今後の日本の生き残りを望むならば、多様な研究に対して芽を育てる方向で投資する必要がある。実際、筑波大学と弘前大学の研究チームは、研究費の配分方法について「選択と集中」よりも「広く浅く」配分する方が効果的であるという分析結果を得ている。
(2025/07/12)

「に、してほしい。」

 元ジャニーズの二宮和也が本を書いたとのことで、その本の紹介文の中に「ジャニー喜多川に謝って欲しい。」という部分があった。これを見て、筆者は一瞬「『ジャニー喜多川に対して謝る』のは誰?」と混乱した。文脈全体から見ると下のb.の意味らしいが、単純に「ジャニー喜多川に誤って欲しい。」だけを読むとむしろa.の意味の理解の方が可能性が高いように感じるのは筆者だけだろうか。
 上の文は複文なのだが、動詞「謝る」と「欲しい」の格に省略があるので、二通りの解釈が可能になっている。

  1. 欲しい(主格:二宮和也,与格:誰か,目的格:謝る(主格:誰か,与格:ジャニー喜多川))
    [二宮和也が、誰かがジャニー喜多川に謝る、ということをして欲しい]
  2. 欲しい(主格:二宮和也,与格:ジャニー喜多川,目的格:謝る(主格:ジャニー喜多川,与格:被害者))
    [二宮和也が、ジャニー喜多川が誰かに謝る、ということをして欲しい]

 この種の複文などで省略があると、文脈を考慮しなければ複数の解釈が可能となるので注意が必要だ。特に、見出しなどの短い文ではよほど慎重に文を吟味しなければ多義的な文になってしまう。上記の文などは、一文だけでb.の意味を曖昧性無く表現しようとするなら、
(私は、)ジャニー喜多川が(被害者に対して)謝って欲しい。
 あるいは
(私は、)ジャニー喜多川の(被害者に対する)謝罪が欲しい。
というような表現しか筆者には思い浮かばない。
(2025/06/18)

大型トラックのリアカメラ

 大型トラックが不用意にバックして祖母とその孫を引きずり祖母が死亡した。大型トラックのような後方視界の悪い(無い)自動車にリアカメラの装備が無いのは明らかにおかしい。後方視界の無い自動車に後退を許すということは恐ろしいことだ。当然、リアカメラ装備を義務付けるべきなのだが、国土交通省は来年5月以降の新車からに限ってリアカメラの装備を義務化するらしい。なんとも生ぬるいというか、人命軽視の姿勢だ。今どき、リアカメラなど普通の後方視界がある乗用車でも始めから装備していたりするし、始めから装備されていない場合も、筆者も含めて個人で購入して取り付けている人は多い。まして、リア視界が悪い大型車両についてはリアカメラが普及し始めた時点で当然に装備を義務化するべきだった。
(2025/06/13)

黒磯板室IC

 先日、黒磯板室ICの料金所から入ったらしい乗用車が逆走して大事故が起きた。このICでは、入口で出口と入口が交差するような構造になっていて、左車線を走って来た車は自然な進行をすると逆走の方に行ってしまう。これは、逆走に誘導するワナのような構造だ。金が掛かっても通常通り立体交差にするべきだった。それが無理なら少なくとも逆走方向に物理的に進入できないようなゲートの仕掛けを設置するべきだったし、更に、それもできないなら無理してここにICを作るべきでなかった
(2025/05/01)

ブレーキとアクセルの踏み間違い事故

ブレーキとアクセルの踏み間違い事故がまた起きた。店の駐車場に頭から入れる形で駐車していて駐車場から出ようとして誤って前進のまま発進して慌てて踏み間違いを起こしたようだ。
 以前にも書いたが、このような事故が起きるのは、車の動き出しの時点に問題があるのではないか。停止時に発進のためにアクセルを踏む時に自車の動きに注意しながらじんわりとアクセルを踏むということをやらず無造作に踏んで意図しない動きに慌てて踏み間違うというパタンが多いのではないか。
 では、なぜ発進時にアクセルを無造作に踏むようになったか。それにはAT車の普及とAT限定免許の制定があると推測する。
 MTの場合、まず、シフトレバーを所定の位置にシフトする必要があり、それはシフトパタンにより手の感覚で目的のシフト位置に入れることができるが、ATの多くはパタンが一直線になっているので、間違った位置に入っていてもシフトの表示などを目視で確認しないと気が付きにくい。
 更に、MTの発進には車の挙動に注意を払いながらクラッチとアクセルの微妙な調整が必要で「無造作」に発進することは難しい。AT車の場合、車の挙動に注意しながらなどということは必要無く、単にアクセルを踏めば良い。これが、無造作にアクセルを踏むという悪弊助長している可能性が高い。更に、AT限定免許というカテゴリーを設けたことによりMT車の経験が無く、車の発進に関して発進時の車の挙動に関心を持たない人口を増やしてしまったことがアクセルとブレーキの踏み間違い事故の増加を加速させている可能性が高い。
危険な物は無造作に動かせるようにしてはならない。(※)

(※)通常、危険なものは簡単には動かせないようにしてある場合が多い。例えば、電動チェーンソーなどは本来スイッチ一つで動作するようにすることは簡単だしその方が作り易い。しかし、安全のためアンロックボタンを押しながらスイッチのレバーを引かなければ動作しないようにしてある。多くの危険な電動工具はそのようになっている。しかし、車のようなもっと危険なものが逆方向の変化をしているのは、おかしな事と言わざるを得ない。
(2025/04/16)

 政府は法律をもっと悪い方向に変えた。MT免許を取りにくくした。愚かというか、自動車メーカーとの癒着だろう。大量に献金をしてくれる自動車メーカーの、メカニズムが簡単で壊れにくいMT車よりAT車を売るための策略に政府自民党が乗ったに違いない。
(2025/05/06)

DeepSeek

 中国製の生成型AI「DeepSeek」が話題に登っている。性能的にはChatGPTを上回るものであり、その開発費用もChatGPTの10分の1以下とのこと。それには中国独自のハードソフト全般の工夫・改良があったらしい。更に、ChatGPTのデータを無断で使っていることもあるようだ。ただ、その基本技術は公開されているとのことで、生成型AIの米国独占状態を解消するきっかけになる可能性がある。
 ただし、中国製という点は多いに問題を含んでおり、その基礎技術を応用する分には大いに役に立つと考えられるが、DeepSeekの回答を鵜呑みにするのは非常に危険だし、利用した結果中国のサーバーに利用者情報が記憶されることにも充分な注意が必要だ。
 また、DeepSeekではその学習に強い偏向がある。例えば、習近平についての質問にはまともな回答が得られないし、天安門事件についても回答が無い。つまり、この種の学習型AIは、そのAIを作った体制に不都合な情報を学習させない、間違った情報の学習により間違った回答をするという根本的な問題点がある。このことは以前にChatGPTについてコメントした時にも指摘したが、DeepSeekは正にその間違った学習をしたAIの典型的事例だ
(2025/02/05)

下水管崩落

 埼玉県で下水管(というより下水トンネル)が崩落してトラックがその穴に落ちた。未だにトラック前部は埋まったままだ。
 このような事故は全国どこでも起こりうる。高度経済成長時代に急激に整備されたインフラ設備が、今、老朽化を迎えているのだ。こうした状況では全力で古いインフラの改修をしなければならないが、このためには莫大な費用とAIなどを駆使した先進の技術が必要だ
 国民をこのような事故に会わせないためには早急な予算措置が必要だ。「防衛費40兆」などど言っている場合ではない。日本は内部から崩壊して行く。政府は国民を守る気があるのか
(2025/01/31)

航空法改正

 羽田の海保機事故に関して政府は航空法を操縦者間の確認訓練を拡大義務化する方向で法律改正をする方針を固めたとのこと。
 バカ政治家の愚行だ。これで操縦士の負担が増えて返って事故を誘発しそうだ。こんなバカな法律改正をするより、滑走路の進入制御信号の設置を義務付ければ良い。羽田でも進入制御信号があるにも関わらずそれが使用されていなかった。人間の目視による制御に頼っていた事が大きな問題だった。滑走路への進入制御程度、AIによる自動化は簡単だ。自動車のAIによる自動運転が実現している現在、これを応用すれば滑走路の進入制御程度は容易に実現できる。もう、IT音痴な政治家は国政から駆逐しなければ日本は滅びる
(2025/01/24)

繰り上げ、繰り下げ

 年金の受給年齢について「繰り上げ」「繰り下げ」という用語が使われている。この用語は誤解を招きやすい。その原因は「上げ」は「数量が多くなる」、「下げ」は「数量が少なくなる」ニュアンスだからであろう。
 「繰り上げ」「繰り下げ」を数量的なイメージで考えることが混乱の原因と考えられる。「繰り上げ」「繰り下げ」は自分あるいは基準点を起点に「繰り上げ」=「近づける」、「繰り下げ」=「遠ざける」と言う意味だと考えられる。例えば、に殿様が家来「下がれ。」と言えば自分から遠ざかることであることからもそのことが窺える。
(2025/01/16)

中国人女性の踏切事故

 神戸の踏切で中国人女性二人が電車にはねられて死亡した。この踏切は以前から危険な踏切として子供の横断をしないように看板があったのだが、既に4回の事故があり1人が死亡していたにも関わらず管理者であるJRも関係する電鉄会社、そして警察も対策を怠ってきた、あるいは対策した積りになっていた。
 この踏切は構造上の大きな欠陥がある。4線の線路を横切る長い踏切の先に横断歩道と歩行者用の押釦信号があるのだが、渡ったところの横断待ちのスペースが1mしか無い。自転車で渡った時などは自転車を横向きにしないと待てない。更に悪いことに横断待ちスペースがかなりの傾斜になっていてそこで待ちにくい。そして更に更に悪いことに、踏切遮断機の内側(線路側)に車止めの黄色いポールとポールの根本には黄色の進入禁止のラインが引かれている。このポールとラインがあるのと押釦信号は通常は赤ということで、踏切を渡って来た人は無意識にそのラインの内側(線路側)に立ち止まってしまう。特に、日本の踏切に慣れておらず、日本語も読めない外国人はそうなる可能性が高い。外国人だけでなくこの踏切に慣れていない高齢者や子供もそうする可能性がある。
 この踏切遮断器を設置した組織/部署、車止めを設置した組織/部署、歩行者用押釦信号とイエローラインを引いた組織/部署、横断歩道を設置した組織/部署などがいずれも、それらが組み合わさったときにどんなことになるか、そしてその設備を装備する本来の目的である「人命の安全を図る」という事に照らして合理的であるのかという思考がなぜできなかったか。
 これらの組織/部署の人達は安全を図るための形、即ち「How to」にしか頭が働かず、「横断歩道を設置する」「歩行者信号を設置する」「車止めを設置する」「イエローラインを引く」のいずれも「安全のためのHowto」としか考えなかったということであろう。ここにも「Why」に関する「これをを装備することが本来の目的歩行者の安全に関して合理的かという思考を忘れてHowto だけで行動する。」という悪弊が現れている気がする。
(2025/01/14)

倍音

 倍音とは通常、一つの音源が発する音の内、最低周波数の音(基音)より周波数が高い音(高調波)でかつ基音の整数倍の周波数を持つ音のことである。この「倍音」について世に奇妙な説が蔓延している。曰く「良い声は倍音が多い。」。
 これを最初聞いた時には、何を言っているんだ??と思ったがネット上のボイストレーニングのサイトなどにも多数そのような記述が見られる。明らかにおかしな主張だ。
 鋸波や矩形波をフーリェ展開する(*)と倍音成分は倍音次数の逆数に比例して緩やかに減少する。なので、かなりの高い周波数の倍音までが聴感に捉えられる。実際に鋸波や矩形波(角ばった波形の音)を聴くと多くの人は刺激的な尖った音と感じるであろう。高次倍音が多い音はむしろ「悪い音」の場合が多い。角張った波形の音の内、三角波は高次倍音が次数の2乗に反比例して速やかに減少するので、あまり刺激的とは聴こえない。
 楽器などのまろやかな音は、その楽器の音を特徴づける倍音の内低次の優勢な倍音だけを残した場合と考えられる。つまり、高次倍音はむしろ少ないと考えられる。

 通常、楽器が出す音には基音の整数倍以外の高調波が含まれる場合も多い。絃楽器(ヴァイオリン、ピアノなどの共振体が弦のもの)や管楽器(フルート、パイプオルガンなど共振体が気柱のもの)などは共振媒体が数学的に1次元として扱える場合で、整数倍の高調波になっていて「倍音」と呼ばれるが、これらはむしろ少数派で、大抵の物が出す音は非整数倍の高調波を含む。楽器でも打楽器のほとんどは非整数倍の高調波が主要な高調波(ティンパニは特殊なケース)なので、打楽器を含む楽器について「倍音」の概念を非整数倍の高調波まで拡大して「非整数次倍音」というカテゴリーを作っても良いように思う。これは数学においてよくある、1次関数、2次関数、3次関数、・・・のように整数次の関数だけ考えていたのを、平方根を含む関数
 0.5次関数f(x)=√=x1/2

 1.5次関数f(x)=x√=x3/2
など、非整数次数の関数に概念の拡大をするのと同様である。実際、巷でも「1.5倍」などと言うことは最近多い。
 音楽業界?では非整数次の高調波を「倍音」と呼ぶことには抵抗があるようだが、倍音を整数次高調波に限ると絃楽器・管楽器の高調波は倍音と呼び、打楽器は高調波のほとんどが非製数次なので倍音とは呼べないという不便を生じる。これは楽器音響において一貫性のある議論がしにくくなる。
 主要な高調波が基音の整数倍である絃楽器や管楽器は共振体が1次元として扱え、その動きの微分方程式が定数係数2階線形微分方程式になる。この場合、微分方程式の解はフーリェ級数で表され、高調波が離散的で基音の周波数の整数倍になることが証明される。
 打楽器など共振体が2次元や3次元である場合、その動きの微分方程式は定数係数2階線形にならず、その解はフーリェ変換で表される形になり、高調波スペクトルが連続的になったり、離散的でも基音の整数倍にはならないことが多い。
(*)
鋸 波:Sw(t)=(2Vo/π)[sin(t)-(1/2)sin(2t)+(1/3)sin(3t)-(1/4)sin(4t)+・・・]
矩形波:Sq(t)=(4Vo/π)[sin(t)+(1/3)sin(3t)+(1/5)sin(5t)+(1/7)sin(7t)+・・・]
三角波:Tr(t)=(8Vo/π2)[sin(t)-(1/32)sin(3t)+(1/52)sin(5t)-(1/72)sin(7t)+・・・]


(2024/12/25)

愚劣な設計の顔認証システム

 マイナ保険証の顔認証システムに関するトラブルが生じている。顔認証端末は
のような物だが、これらの設計者は技術者失格だ。これらの装置がどういう設置のされ方をするか、設置された場合にどういう状況になるか、ということの検証・考慮がされていないので、病院の受け付けカウンターに置かれたこの種の装置では身長が不足したりして子供や高齢者の顔認証ができない。小さな子供なら抱き上げることもできるが、車椅子に座った高齢者ではそれも不可能だ。
 この種の装置が病院の受け付けカウンターに置かれることは容易に想像が付くことなのだが、これらの装置の設計者はその程度の想像力も無かったようだ。馬鹿げたデザインのものについては前にも書いたが、こんな設計をするのでは技術者失格だ。せめて、チルト機構でも付いていればトラブルはある程度防げたのだが。
(2024/11/29)

危険運転致死罪

 大分地裁で、一般道を194km/hで走行し右折車に衝突し人を死に至らしめた被告に対して危険運転致死罪を適用した判決が下った。危険運転致死罪を適用したことは、量刑が懲役8年ということに疑問が残るとは言え妥当な判決だと考える。
 この判決や他の危険運転致死罪を適用した裁判で問題になっているのは、危険運転致死罪に関する法律の不備である。「危険運転」と判断する基準が曖昧であることが最も問題になっている。特に、速度に関しての基準が無いことだ。これについては、法定速度の「2倍を超える場合」などとの案があるらしいが、ここにも法律家あるいは法律を作る政治家に対する科学教育の欠如の問題が露呈している。更に、裁判官も「直線道路を直進できていたから『進行を制御するのが難しい高速度で走行する行為』にあてはまらない。」などという馬鹿げた判断をしてきた。200km/h近くの速度で走行していたら直線道路でも50m先に障害物が現れたら回避は困難だ。それは正に『進行を制御するのが難しい高速度で走行する行為』なのだ。
 交通現象は人間の認知的側面と共に極めて物理的な側面がある。法律を定めるについても物理的側面を考慮した策定が必要になる。速度に関して言えば、単純に「法定速度の2倍」などという案は物理現象としての交通に無知な思考だ。運動する物の危険度は速度に比例するのでは無く速度の2乗に比例する。なぜならば、運動する物体の持つエネルギーが速度の2乗に比例するからだ。運動する物体の破壊力は速度の2乗に比例して大きくなるのだ。従って「危険運転」の評価はこの事を考慮に入れたものでなければ合理性を欠くものになる。
 つまり「危険運転」の速度に関する部分は「法定速度を1としてその倍数の2乗によって危険度を評価する。」となっているべきだ。法定速度で走行していても危険度0なのではなくある程度の危険はあるので、法定速度での危険度を1とすることには合理性がある。そもそも、「法定速度」の設定にも合理性が必要なのだ。法定速度の設定はどんな根拠で決めているのか筆者は知らないが、現在はあまり合理的な設定になっていないような印象がある。現在の科学技術をもってすれば、より合理的な法定速度の設定が容易にできると考えられるが、今の政治家の頭ではそうした思考ができるという可能性は非常に低いという印象だ。
(2024/11/29)

一般道で194km/hは危険運転でない?

 3年前に制限時速60km/hの一般道を194km/hで走行し右折車に衝突して右折車の運転者を死亡させた事故の裁判で、検察は危険運転致死罪で起訴したが、弁護側は過失運転致死罪を主張している。
 このケースでは検察は最初過失運転致死として起訴した。理由は、194km/hで直進路を走行することは「危険運転」にならないと判断したからだ。この時点で既に法律家が物理に無知で合理的判断能力が無いことを示している。
 速度に関する「危険運転」の定義は 進行を制御するのが難しい高速度で走行する行為。 (凡例目安は120km/h超過) となっている。そして、件の運転者は直進路を直進できていたのでちゃんと制御できていたから危険運転に当たらないということだ。
 ここが大きな間違いだ。そもそも、現代のちゃんと整備された車は平坦な舗装道路の直進ならば勝手に直進するようにできている。直進していただけで制御できているとは言えない。例えば、視界が悪い夜に200km/h近い速度で、56m先に障害物を発見して回避する場合、1秒しか余裕が無い。1秒で4m程度の車線移動をすると200km/hもの高速ではタイヤの路面に対するグリップは低下していて、ヨーによる横方向の加速度で恐らくスリップあるいはスピンなどの事態に陥る可能性が高い。これで「進行を制御するのが難しいほどの高速度では走行していない。」とどうしてと言えるのか。警察官・検察官・裁判官は力学に無知なバカしかいないのか。更に、194km/hという速度で走る車は法定速度の60km/hで走る車の10倍以上の運動エネルギーを持っている(運動エネルギーは速度の二乗に比例する)。つまり、法定速度の10倍の破壊力を持っているということだ。この一事をもってしても194km/hは「危険運転」に当たると考えられる。検察あるいは法律家は、そういった物理現象について無知で、法律文の文章的解釈でしか判断していないように見える。
 今回の裁判で裁判官が危険運転致死罪を認定しないならば裁判官も同法の制定趣旨を理解ぜす合理的思考ができない無知・無能ということになる。
(2024/11/05)

現実世界と鏡の世界

 鏡の中では左右が逆になると言われたり、そのように感じたりするが、上下はそうならないのは何故か、という疑問は有名な疑問だ。これについて、吉永みち子の「覆面と仮面と匿名」というエッセイの中に「自分はどんな仮面をつけて、どんな違う自分になってみたいのだろうか。と友人に話したら『自分の顔も知らないのによく言うよ。』と笑われ思わずムッとした。」という下りを読んで「鏡の中の世界」に思い至った途端に、ハッと気が付いた。
 鏡の中の世界では左右は反転する感じであるのに上下は反転しない感じがするのは、人間がほぼ左右対象の形をしているからというのが大きな要因になっているのではないか。
 もう一つの要因の、人間が平面的な大地とそれに対して垂直な重力という束縛の中では上下軸の周りの回転は容易だが、それに垂直な軸周りの回転は困難なことも重要だ。
 しかし、人間がもし左右非対称な形をしていたら、垂直軸の周りに回転したら全く異なる形になるので、右が左になる(左が右になる)という感じには成りようが無い。左右対称に近いので、つい現実世界で垂直軸周りに180度回転した像と重ねて見たくなるのだ。
 そもそも、現実世界と鏡の中の世界は別の世界であって、垂直軸周りに180度回転して重ね合わせるなどと考えることがそもそも錯覚からの行為なのだ。鏡の中は右手は右に映り左手は左に映り頭は上側に映り足は下側に映っているだけなのだ。
(2024/07/17)

高齢運転者

 筆者は既に後期高齢者だが、どちらかと言うとよく車を運転する。15000km/年くらいだ。特に、事情があって月1回のペースで片道550kmのドライブをする。所要時間は休憩も含めて9時間くらいだ。車を運転する時の姿勢はほぼ下の図の通りだ。
「新潟県警察公式チャンネル」より

 ハンドルを握る位置もほぼこれに近い。ただし、右手の親指をハンドルのスポークの上に掛けて、左手はスポークの下の位置を握ることも多い。また、高速道路を長時間走るときは、両手をハンドルの下の方(左手は8時の位置、右手は4時の位置)にすることが多い。こうすると肩から肘まではほぼシートの両側の出っ張りに接触した垂直に近い形になり肩や腕の負担がほとんど無くなるので、長時間の運転にも肩が凝ったりすることも無い。
 運転していて周りの運転者を見ていると、シートバックが寝過ぎている人をちょいちょい見かける。シートバックを寝かせて片手を伸ばしてハンドルの上端を握っている。更には、体をシートとドアの隅に持たれかけていたりする。大型の高級車に乗っている中年男性にそういった運転姿勢の人が多いように感じるのだが・・・。これは安全上良くないとされているが、長距離運転にも向かない姿勢だ。上記のような姿勢では1時間も運転したら、腕、肩、腰、首が疲れて運転が辛くなるのではないか。プロのドライバー、例えばタクシーや運送会社のドライバーの運転姿勢を見るとシートバックは立てている。タクシードライバーなどはシートバックを立てた上にシートをかなり前にしている。これは乗客のスペース確保という目的もあると思うが運転操作性が良くかつ長時間運転しても疲れないシート位置という目的もあると考えられる。
 筆者が走るのはほとんど中国高速道路(E2A)で車の通りが非常に少なく前後に車が見えない状態が続くことも多い。そういった状況なので車線変更する必要もほとんど無く、道路に沿って走る限り上記の状態で手首を少し動かすだけで対応可能な場合がほとんどだ。
 運転速度は以前は100km/hを超える速度で走ったりしていたが、今は年齢を考えて90km/hを越えない速度を維持している。特に、中国道はカーブが多く半径250mなどという急カーブが数カ所あって、そのような所では法定速度の80km/hを維持していればちょうど遠心力と道路のバンク(カント)が釣り合っている感じで自然に走れる。実は、この速度だと筆者の使っている車(Mobilio)のような形状の空気抵抗が大きい車では燃費向上にも寄与する。純粋の1.5Lの自然吸気ガソリンエンジン車なのだが、走行速度を下げてからは18.5km/Lという値が出ることもある。
 問題は長時間流れる路面を見ていると、車線区分の白破線の残像により白線の切れ目が黒く見えてくることだ。この徴候が生じると視覚野が疲れてきたものと考えて、直線道で前後の車が無いことを確認したら時々周りの景色を脇見して疲労した視覚野を休めるようにしている。これは眠気覚ましにもなる。更に、PAに入って10分ほど眼をつぶって視覚野を休める。
 こうした運転をしていると、550km走っても疲れはするがクタクタという感じはしないし、腰も肩も腕も首もほとんど疲れない。目的地についてすぐにPCを開いてディスプレイを見るのも苦にならない。
 最近よく聞く、「ブレーキとアクセルの踏み間違いで事故」という事例だが、ブレーキと思って踏んだペダルがアクセルペダルだったあるいはギアシフトがRの積りだったのがDだったなどで慌ててペダル操作ミスをするということらしい。しかし、間違いに気が付かずに慌てるということは、そもそも、自車の動きを確認せずにペダルを強く踏むという運転の仕方をしているからではないのか。発進や停止近くにあるとき、自車の動きに注意しながらペダル操作は緩やかに行うまた、緩やかに行える速度を保つ、ということを心がけていれば、「慌てる」ということも少なくなると思う。慌てる状況を作らないことだ。そうすれば、「踏み間違い」ということも少なくなるのではないか。右足は踵をフロアに付けて足首の角度によりブレーキとアクセルの踏み変えをするのが良い。踵が浮いていると足の位置の基準が無くなるので踏み間違いを生じやすい。ブレーキサーボが無かった昔はブレーキを強く踏むために踵を浮かせて踏み変える必要があったが今はブレーキサーボが付いているのでその必要が無い。また、アクセルからブレーキに反射的に素早く踏み変える練習をしておくと共に、アクセルやブレーキの操作は常にその操作を意識して行う習慣を身に付けて置くということも重要だと思う。「今、自分が何をしているか」を常に意識できるかということだ。車の運転は漫然と緊張感無くやるものではない。
 最近、高齢運転者の事故を頻繁に聞く。あるいは、道路の逆走も多いようだ。それで、高齢者、例えば70歳以上の人に免許返納を奨めることが推奨されている。確かに、70歳を超えると高齢になるほど事故が多いのは事実だ。しかし、34歳以下も高齢者に負けず劣らず事故が多いのも事実だ。
警視庁「令和5年中の交通事故の発生状況」より

 筆者としてはことさら高齢運転者をあげつらうのもどうかと思うし、交通網がほとんど無い田舎の高齢運転者から免許を取り上げるのは生活基盤を取り上げるのに等しい。
 そもそも、運転的確者であるかは年齢だけでは不明で、実際に運転させて見なければ判らないのではないか。筆者も上記のような頻繁な運転状況で、幸いにもゴールド免許証を維持できているが、自分がちゃんと運転できているかは常に気になっているので、免許更新時にある「高齢者講習」で運転を見てもらえるのはありがたい。ただ、現状の講習では非常に基本的かつ数少ない点についてしか見ておらず、これで「運転適格者」かどうか判断するのは難しいであろうし、この結果が直接免許更新の可否に結びつかないので、不十分である。しかも、高齢者講習は結構高額の受講費を取られる。これも、講習は普段本人が運転している車を持参してそれによって受けるようにした方が費用的にも少なくなる。それと、車種限定の免許証があっても良いのではないか。少なくとも、操作系のタイプにより限定する形にしてはどうか。そうすれば運転操作ミスも減るのではないかと考えられる。今の高齢者講習は運転教習所業界との何らかの癒着や利益供与の匂いがしてならない。筆者としては、公的な予算を組んで、高齢運転者の運転適格性試験を6ヶ月に1回程度受けられる仕組みが作られればありがたい。高齢運転者と言っても、個人差は大きいのでそれが合理的なやり方だろう。政府から、そんな財源は無いという声が聞こえて来そうだが、自動車メーカーから多額の献金を受け取って、政策活動費なる名目で50億もの使途がほとんど判らないお金を政治家個人が受け取っていたり、オリンピックで3兆円も無駄な金を使ったり、IRを作るために千億円以上も投入して、インターネットが普及した現在においては開催効果も全く無い万博を開こうとするような政府に言われたくない話だ。
(2024/05/31)

マスクの使用率

 新型コロナウイルス感染症が5類に変更されて以来、政府の姿勢も「もう、コロナは心配しなくて良い。マスクもしなくて良い。」というような方向になった。しかし、コロナ感染症が無くなったわけではなく、筆者の周りでも感染の話を時々聞く。
 この問題で気になっているのが、マスクの使用率の地域差だ。テレビなどで報道される通勤風景などでは東京や大阪などの大都会ではほとんどマスクをしている人を見かけない。一方、筆者の住んでいる地方都市ではDIYショップやスーパーなどでは若い人も含めてほとんどの人がマスクをしている。都会などの人口密度が高い地域でこそマスクをする必要があると思うのだが不思議だ。
 どうも、「まだ、マスクをしているなんてダサい。遅れている。」と考えているような感じだ。それと、政府の、コロナ感染症を軽視するように国民を誘導して経済を活性化したいという意図の政策の影響もあるように思う。コロナ禍により政府は大きな政策的汚点を残したので、早く忘れさせたいのだ。
(2024/05/23)

カシオA158Wという腕時計


 筆者が5,6年前から使っている液晶表示の腕時計だが、水晶がアタリだったのか、ものすごく精度が良い。風呂に入るとき以外は腕に着けているが、温度環境が良いのか1年で1秒程度しか狂わない。確か、1200円くらいだったと思う。長男が3個くらい買って一つをくれたものだ。世の中には数百万円もする時計を持っている人がいるが、少なくとも「時計」という機能に関してはこれで十分だ。
 現在は腕時計も標準電波によって自動補正するものが出回っているがこの時計は通常の生活用途では補正の必要が無い。驚くべき性能でコストパフォーマンスは最高だと思う。この程度の価格のものなら電池が無くなったら買い換えるというのが普通のようだが、ごれは捨てるのはもったいない。以前にもカシオの腕時計の電池を入れ替えたことがあったが、多分、この時計も同じように入れ替えができるはずだ。
(2024/05/07)

標本化定理

 アナログ録音とディジタル録音の論争でアナログマニアが良く口にする話は、帯域制限をされていない波形を標本化してめちゃくちゃな標本値になってしまったのを見て「デジタル信号がめちゃくちゃだ」というものだ。信号に帯域制限をしなければそうなるのは当然だが、そのことを理解していない。
 もう一つは同じ波形でもサンプリングパルスの位相が異なると異なるサンプリング値が得られることを問題視する向きもあるが、サンプリング定理は「帯域制限をされた波形ならばどのサンプリング位相であってもナイキスト間隔よりも細かい間隔でサンプリングすればそのサンプリング値から元の波形を完全に再現できる。つまり、

で、赤と青のサンプリング位相のどちらでも同じ元の波形を再現できるということを言っているので、異なるサンプリング値が得られても問題は無く、上記のような疑問はサンプリング定理を理解していないことによる。
 また、標本化関数(サンプリング関数)が、そのサンプリング点(0)では1で、それ以外のサンプリング周期の点(・・・,−4,−3,−2,−1,1,2,3,4,・・・)では0になる

ということと、各サンプリング点でのサンプリング関数の前後のリンギングは互いに打ち消し合う位相になっていて重ねれば重ねるほどリンギングの影響は0に収束するという標本化関数の標本化関数たるキーポイントを、結構技術も高くディジタル録音を縦横に使いこなしている人でも理解していないようだ。
(2024/04/02)

紅麹中毒

 「紅麹」というものが原因らしい健康被害が生じて、死者が2名、入院者が100人を越えている。これは、紅麹が「機能性標示食品」という範疇に当たり、健康増進などに効果があることを標示できるものであったために、これを好んで摂取する人が多数いたことによる。
 「機能性表示食品」という範疇は「事業者の責任において、科学的根拠に基づき特定の保険の目的が期待できる旨を標示することができる。」というものであり、安全性に関する審査は無い。これは大きな問題だが、なぜ、このような片手落ち制度ができたのだろう。食品に関して「機能性標示食品」などという範疇を設けることは政府が何等かの「お墨付き」を与えているに等しいので、安全性に関する審査は必須なのだが。
 実は、この制度は安倍晋三が首相のときにできたものだ。どうも胡散臭い制度だと思ったが「やはり」という印象を免れないその手の業界から大きな献金でももらった安倍が動いたのではないか
(2024/03/27)

 上記のようなことを書いたが、「一月万冊」で佐藤章氏が同様のことを言っている。この制度はアベノミクスの一環としてできたものだそうだ。やはり、安倍は毒物だった
(2024/03/27)

ベースロード電源という誤魔化し

 自公政権は、原子力発電を「ベースロード電源」と呼んで、さも、「基本的に必要な電源」のようなイメージを植え付けようとしているが、たちの悪い誤魔化しだ。
 そもそも、原子力発電は小規模分散型にできず、発電量の素早い調整が難しい。それで、大量の電力の発電を続けなければならないという欠点がある。電力需要の季節変動にも対応が難しいのだ。実際、季節変動により電力が余った際も、原発の発電を下げることができず、火力などの融通が効く発電を下げることによって対応しているが、更に、再生可能エネルギーによる発電を抑制する方向に走っている。原発のような巨大で融通の効かない発電方法はこれ以上増やすと日本のような季節変動の大きい国では多大の無駄が生じる。また、規模が大きいので、もし、それが事故で発電停止になったら、広範囲に停電が生じるばかりでなく他の発電所にも影響が波及し共倒れを引き起こす。以前に北海道で起きた大停規模電はその典型だ。
 更に、融通の効かない原発を増やすことにより、再生可能エネルギーの普及を阻害している。政府と電力会社は原発を守り増やしたいがために供給電力過剰を口実に再生可能エネルギーを妨害する姿勢だ。
 また、原発は防衛上も弱点になる。日本のような狭い国土で原発が居住地域に近い場合、通常弾頭のミサイルでさえ、原発に命中すれば核弾頭ミサイルのような被害が生じる
 更に、更に、原発によって生じる放射性廃棄物の処理は全く目処が立っていない。世界の多くで行われている地中廃棄は、日本のような地震国には全く向かない。放射性廃棄物は2024年現在で日本が持つ放射性廃棄物の保存可能容量の80%に達している。にも関わらず、政府は原発の再稼働と増設を企んでいる。気違い沙汰だ。そこまで腐った脳の連中の集まりでは、日本の将来は真っ暗だ。
 国家の安全のためには、汚く巨大な原発を廃止して、自然エネルギーやガス発電による分散型のエネルギーシステムにすることが必須なのたが。利権と間違った防衛思想のために国のエネルギー政策を誤らせている
(2024/02/12)

 日本は広い沿岸海域を持つていて、その沿岸に洋上風力発電設備を設置すれば、日本の電力需要の1.5倍の電力供給ができるとの試算を経産省がしている。更に、地熱の潜在発電能力は原発24基分あるとのことだ。地熱発電については「業務スーパー」という会社が小規模統一規格の発電設備を発電所の規模に合わせて複数設置する方式で建設コストを下げ、発電会社との分担出資する方式で経済的に設置する方式を考案している。日本は地熱発電の潜在エネルギー保有量は世界3位であるのにその利用は世界10位にとどまっているのは、歴代政府が原発にこだわって、地熱の開発をないがしろにというよりむしろ妨害してきたからだ。歴代政府特に自民党政府の責任は重い。
 地熱については石原良純は、設備を山奥に作ることが多いので送電ロスが多くなるなどの否定的な意見を言っていたが、それなら東京などの大都市の電力を遠い地方の原発から送っている方がよほど無駄だ。地熱発電は基本的に地産地消なので送電コストは低いし、小規模分散なので、災害や外敵からの攻撃に対しても有利だ。
 洋上風力発電は正に日本に向いた発電方式であり、安定的な電力供給が可能なうえ、出力調整も羽のピッチが可変なので非常に容易にできる。
 恐らく、各家庭の蓄電式の太陽光発電の普及と地熱および洋上風力発電で日本の電力需要のほとんどを賄えるに違いない日本の防衛のエネルギー的側面に関してはこの選択しか無いと思う。
(2024/02/26)

福島原発の汚染水漏れ

 福島第一原発で汚染水が5.5トン(220億ベクレル)漏れていたとの報告があった。セシウム137の摂取に換算すると、約30シーベルトになる。これは人が数日で死亡する量だ。もちろん、体積が大きいので濃度的には低く影響は低いと考えられるが、危険なことは変わりない。
 ところが、もっと重要な問題が発覚した。当初、東京電力は自動のバルブがなんらかの原因で開いたと説明していたが、バルブは手動であり、16箇所の内10箇所が開いていたと修正した。
 驚きの杜撰さだ。装置が自動か手動か程度の情報さえ共有されていないとは。あるいは、これまでの東電の行状から、意図的な誤魔化しをしようとしたとも思えるいずれにしろ、こんな組織に原発を運営する資格は無い
(2024/02/08)

 上記で5.5トンと書いたが、後の東電の報告では19.8トンもの汚染水が漏れていたことが判った。過小申告だ。東電のこの種の姿勢、事故を過小評価して発表して後にそれがばれるというのは今に始まったことではない。東電の上層部は早急に入れ替えなければ、今に日本は原発事故で大変なことになる。
(2024/02/10)

羽田空港での事故

 羽田空港で日航機(A-350-900)と海上保安庁の輸送機(DHC8)が衝突した。日航機が着陸しようとしていた滑走路に海上保安庁の機が侵入したためとのことだが、今朝の「羽鳥真一モーニングショー」で航空の専門家が空港の管制は管制官の言語によるコミュニケーションだけのようなことを言っていた。これには驚いた。
 自動車では既に完全自動運転が目前(一部では実働)なのだ。AIその他の技術を使えば、同一滑走路に着陸しようとする飛行機と侵入しようとする飛行機があること程度は容易に自動認識して警告を発することができるはずだ。なぜ、そういうシステムが使われていないのだろうか。
(2024/01/04)

 上にAI技術などを使えばと書いたが、羽田のC−5というC滑走路への侵入路にはストップバーライトという道路の停止信号にあたるものが設置してあるとのこと。ただし、この設備は滑走路の視界が悪いときだけ利用していたとのことで事故発生時には使用していなかった!!とのこと。驚き呆れる。せっかくの安全装置をOFFにしていたとは!!管制官の言うには、この設備を使わなくても管制官と機長・副機長の3名が確認するので通常は必要ないというのが管制官の常識とのこと。もし、事故の時にこの装置をONにしていたら恐らくこの事故は防げたのではないか
 少なくとも、この設備がある空港は常時これをONにするべきだ
(2024/01/05)

 1月10日の報道によると、C滑走路の入口のC5には直前の停止線にはストップバーライトが設置されておらず、15m手前の停止線には設置されていたが使用されていなかった。いずれにしろ、現に存在する安全装備は活用するべきだった。
(2024/01/14)

能登半島地震

 能登半島でM7.6の地震が発生し、最大震度7が観測された。この地域は、昨年から地震が頻発していた。震源は珠洲町だが、震度7は志賀町ですぐ近くに志賀原発がある。幸い、この原発は2011年の東日本大地震以来停止していたので重大な事態にならなかった。それでも、使用済燃料プールの水が溢れたり、外部電源のトランスから冷却オイルが7立方メートルも漏れ別系統の電源に切り替えたりした。特に、外部電源装置が破損すると緊急時の原子炉の冷却ができなくなり、福島第一原発で起きたメルトダウンなどの致命的な事態を引き起こす。
 能登半島には珠洲市にも原発を作る計画があった。これは住民の反対運動により2003年12月に凍結されたのだが、「凍結」であって、「取下げ」ではない。原発推進派は今の状況を見てもまだ「凍結」のままのようだ。この場所は今回の地震で海岸線は2メートル隆起したここに原発を作っていたらとんでもない大惨事になっていただろう
 この地方は活断層が多数あり、志賀原発の数kmのところにも活断層があり本震を起こした断層と同時に動いた。その断層は陸上のものしか確認されていなかったとのことで、今回の地震で海までつながっていたことが判明したそうだがあきれた言い分だ。断層が陸上だけでとどまるなどありえない。当然、その延長上の海にも繋がっているばずだ。活断層を陸上でしか考慮しない原発政策は完全に間違っている。また、活断層は現在時点で確認された状態がそのまま継続するわけではない。地下のストレスの状況により延長してその際直下型地震つながる可能性があり、近くに原発を設置するのは非常に危険だ。この地震では海岸で4mもの隆起が生じた。もし、原発の下でこのようなことが起きたら、どんなに丈夫な格納容器に原子炉を入れていても、周辺装置の破壊により原子炉の冷却等ができなくなり、メルトダウンなどの致命的事態に発展することは目に見えている。更に、地震により道路が寸断されて避難が不可能になっているこの現実を見ていながら原発を動かしたり作ったりするのは、正気の沙汰ではない。政府や北陸電力は都合の良い理屈を並べ立て地方の自治体を補助金という麻薬漬けにして強引に建設したのだろうが、原発利権と核兵器保有欲に眼がくらんでいて国民の生命などどうでも良かったのだろう
 何度も書くが原発は日本に向かない。

 東日本大震災があってたった12年でまたこのような大震災が起きる日本なのだが、自公政権は災害に対する備えに微々たる予算(平成18年度で2兆7000億)しか投入していない。利権まみれのオリンピックと同程度だ。東日本大震災に対しては「復興特別税」などとして税金を徴収しているが、政権は自分たちの利権のため役にも立たない防衛費にばかり使っている。剰え、クズ首相の安倍晋三がトランプの歓心をかうためにした使い物にならない武器を市場の倍の価格で購入するという約束をそのまま実行するため45兆円もの金を「防衛増税」として徴収するなどという愚挙・暴挙に出た。増税するなら「災害復興税」や「防災税」であるべきなのだが。国民の命を何と思っているのか
(2024/01/02)

 志賀原発の変圧器からの油漏れについて、北陸電力は当初3.5立方メートルと発表していたが、実際は19.8立方メートルつまり、実際は発表の5.7倍もあったとのことだ。以前にも東電などであったが、電力会社は原発事故に関して往々にしてちゃんと計測せずに小さく見積もって発表する傾向にある。政府や北陸電力は、このような事態も「想定外」のこととして済ますようだ。
 世界一の地震国日本では想定外の事態が起きる可能性が高い。つまり、想定外の事故が起きても致命的な事態にならないようにする(フェイルセイフ)ことが必要なのだが、その観点からすると原発のような施設はフェイルセイフにすることが非常に困難という意味で日本には不適合だろう。
 それにも関わらず、原子力規制委の山中伸介委員長は記者会見で、変圧器の故障原因の究明は必要としたが「安全上の影響が及ぶとは考えていない」と従来の考え方を見直そうとはしていない。そもそも規制委は原発の存続を前提にしたもので、原発推進側に偏っていて、原発の存在そのものを問題としない組織だ。
(2024/01/06)

 この地震で避難者が1月15日現在でも2万人もいる。その中には道路が寸断されたため孤立している村落が多数ある。そこへの支援は自衛隊が担っているのだが、土砂崩れを徒歩で越えていた。この自衛隊員のご苦労は察するが、なぜ徒歩なのか。自衛隊にあるヘリコプターをもっと投入すれば遥かに迅速に支援物資を届けることができるはずだ。自衛隊の保有するヘリコプターは300機を超えるのだ自衛隊には莫大な税金を使っているし、万博など使わなくてよいはずの出費をしようとしているのだから、国民の命に関わる場合に出費を躊躇する理由は無いはずだ。現政権はよほど国民の命を救うのが嫌らしい。まあ、もともと「国民の幸福」などというものは彼らにとっては全く眼中に無く、自分達の利権のみで政治家なったのだろうから当然のことだが。
(2024/01/16)

 能登半島地震が起きてからもう5ヶ月半経った。現地の復興はどうなっているか。一月万冊というサイトでジャーナリストの今井一氏の取材による動画では珠洲町の倒壊した家屋の撤去はほとんど進んでいない。公費解体の申請は10000棟以上あるが、約100しか手が着いていないとのこと。
 これには色々な原因があるが、一つには個人の家を解体するにはその持ち主の許可がいるが、持ち主が不明であったり、判明しても持ち主死亡していた場合にはその相続人すべての了解が必要であったり、更に、相続したはずの人が手続きをしていなかったりする上に複数にわたって許可を取ることが必要になったりして簡単に解体することができないことも多いという。
 更に、解体のための重機が現場に無く、遠方の地方から運んでくる必要があり、数が集まらないこともある。
 こんな状況を政府は放置している。政府は地方のこのような地域は自然消滅するのを待っているとしか思えない。
(2024/05/16)

 能登半島の珠洲市でまた震度5を上回る地震が起きた。こんなところに原発を作ろうとしていたのだ。幸い、原発は住民の反対でつくられなかったが。東北電力や国の検査が如何にいい加減な、というより、原発利権にまみれた原発を作らんがためのただの合理性の欠片も無いパフォーマンスだったかということがはっきりした
(2024/06/03)

 能登の珠洲市の復旧・復興は2024年7月の時点でどうなのか。ジャーナリストの今井一氏の現地取材によると今になってやっと倒壊家屋の公費解体があちこちで見られるようになったらしい。しかし、能登半島で倒壊して解体が必要な家屋は30000軒あり、解体終了した軒数は1500軒とのこと。これまで、絶対的に解体作業労働者の数が不足していた。現在も、解体作業労働者の宿泊施設が無く、作業労働者の派遣ができない状況が続いている。ある解体業者は会社が自前で作業労働者用の宿泊施設を作ろうとしている。県が本気で復旧・復興を考えているのであれば、県がそのような施設を作って業者に提供するくらいの事をするべきだ。県が無理なら国がそれをするのが筋だ。県も国も何をしているのか。
 この解体作業が何時終わるかというと2026年10月とのこと。これでは、もう、珠洲などの住民は元の地域に戻る機会を失ってしまう。特に高齢者はもう戻る気力を失うだろう。これは、東日本大震災の福島の地方自治体と同じ構図だ。行政は珠洲などの復旧は考えていないのではないか。もう、珠洲市など無くなれば良いと考えているという疑いが濃い。
(2024/07/23)

 8月3日の新聞記事に政府の地震調査研究推進本部が公表した海底活断層の図を見ると、能登半島に沿って半島の北と北東には25もの海底活断層があることが示されている。これらの断層はM8級の地震の発生源になるとされている。北陸電力や政府はこんな所にろくに調査もせずに「原発に影響する活断層なは無い。」として志賀原発を作り、そして珠洲にも原発を作ろうとしたのだ。正に国民無視の原発利権政治だ。
(2024/08/03)

LPとCDの情報量と歪

 最近、一部の若い人の間でLPレコードを聴く人が増えてきた。それを一部のオーディオマニアが「LPレコードの方がCDより情報量が多いので当然の事だ。」のように言っている。しかし、これは間違いだ。

情報理論的にはアナログの情報量(通信路容量)Caは、帯域幅W、として、白色ガウス雑音を仮定すると
  W*log2(1+S/N)
であり、アナログディスクのS/Nは平均で60dB程度らしいので、帯域幅を20kHz(有名な音楽録音用マイク NEUMANN/U87 Ai では 18kHz)としても、

  60=20log10(S/N)
  S/N=1000≒210
  Ca=20*103*log2(1+210)=20*104(b/s)(概算値)

となる。一方、CDはサンプリングレート44kHz、量子化ビット数16bitなので情報量Cdは

  Cd=44*103*16≒70*104(b/s)(概算値)

となり、情報理論的な情報量としては、CDの方が3倍以上多いことになる。
 LPの1000Hzの純音のカートリッジ出力のスペクトルを見ると、出てはいけない2000Hzや3000Hzの高調波がはっきり出ている。一方、CDの出力には高調波歪は全く出ていない。そして、この種の高調波歪は調和的なのであまり違和感が無く、むしろ音に良い色付けを感じさせる可能性があり、それを「LPの方が音に厚みがある。」などと勘違いしていると考えられる主張も多い。
 カートリッジの針とレコードの溝の接触圧力は針圧1.5gの場合でも120kg/cm2という恐ろしい値になる。1平方cm当たり120kg(大人2分近い)。これで結構綺麗な音が再生できていることが不思議なくらいだ。針は塩化ビニールをギューギュー変形させながらトレースしていて高調波歪は恐らくその辺りから生じていると考えられる。「LPを再生すると20kHz以上の音が再生されるが、CDではサンプリング周波数による制限で20kHzで切られているのでLPの方が情報量が多い。」と、したり顔で主張する人が多いが、特殊な場合を除いて、LPの20kHz以上の再生信号はカートリッジが発生する高調波歪の成分であることはほぼ間違いない。そもそも、上に書いたように録音用のマイクの性能が18kHz程度なのだ。
 更に、有名なMC型カートリッジのDL103の針の先端は曲率半径は16.5μmの球形ということなので、直径なら33μmだ。一方、LPの内周での溝の波長は20000Hzだと10μm程度なので、仮にLPレコードに20000Hzが記録されていても、DL103では針先直径が波長を超えていて20000Hzをトレースできない。まともに再生できるのはせいぜい数千Hzまでなのだ。
 また、「CDの音はギザギザしている。」などどいうAD変換のイメージからと思われる冗談のような主張もあるが、論外だ。また、ディジタルオーディオの基本原理であるサンプリング定理を理解していない人がほとんどで、アナログオーディオマニアの主張はオカルティックというか誤解に基づくものが多い。
 「LPの方がCDより情報量が多い。」などと言っている人は上記の高調波歪を聴いてそう感じて居る可能性があるまた、「LPでは超低域のホールノイズなどが聴こえるがCDでは聴こえないのでLPの方が情報量が多い。」と言う人もいるが、これも、LPの反りや偏心とピックアップアームの共振などの不整による超低域ノイズをホールノイズと勘違いしている可能性がある。特に、レコードの反りによる盤面の上下動はカートリッジ出力としては左右の位相が逆になるので、広がりのある音に聞こえることもホールノイズと勘違いする可能性を高くしているのではないか。
(2023/12/30)

子供に教えるために学ぶ親

 NHKの「所さん事件ですよ」という番組で、子供の教育の話題を取り上げていた。その中で、子供にキャンプや料理を教えられるようになるために自分がキャンプや料理を習いに行くという話が出ていた。これは教育的観点から見ると根本的に間違った方向と筆者には思える。
 自分ができないことを子供に学んで欲しかったら、子供と一緒に試行錯誤したり調べたりして一緒に学ぶ方がずっと良い教育になるはずだ。その場合、子供の方が早く学んでしまう場合も生じるだろう。それこそチャンスだ。子供から教わればよい。それは、子供に自信をつけさせ、努力の動機づけになる。さらに、親に頼るのでなく、自分が進んでやることの重要性を自然と体得することになる。親が、自分が学んでからそれを子供に教えるのでは、子供自身の創意工夫の姿勢が育たず、何でも人に答えを聞くしかできない人間になってしまう
 重要なことは、失敗しながらも、あれこれ試行錯誤することを楽しめる人間に育てることだと思う。
(2023/10/20)

アルニコかフェライトか

 オーディオの世界は非科学的な話が蔓延している。これは、人間の認知機能が関わっているので、科学的に明確な議論がしにくいことによる。しかし、物理学的に見ておかしなことも多々ある。例えば、スピーカの磁石に関して、アルニコの方がフェライトより良いと言ういわゆる「アルニコ神話」があるが、その理由として、

  1. アルニコの方が透磁率が高いので良い。
  2. アルニコの方が電気伝導度が高いので逆起電力がフェライトより大きいので良い。

などが典型的なものである。1.は磁気回路の磁気抵抗に直接関係するが、実際のアルニコスピーカの磁気回路とフェライトスピーカの磁気回路を試算してみるとむしろ磁気抵抗はフェライトスピーカの方が低いという結果になる。

フェライトとアルニコの磁気抵抗を試算してみると以下のようになる。
(値はいずれもフェライトに対する比)
磁気抵抗値=厚さ/(断面積×透磁率)

アルニコ
透磁率比μ:5倍(bulletin_10.pdfから)
厚み比L: 1.3倍(*)
断面積比S:1/6倍(**)

磁気抵抗比=L/(S×μ)=1.3/((1/6)×5)=1.56
つまり、アルニコの方が磁気抵抗が高いことになる。

厚みが同じだとして
磁気抵抗比=1/((1/6)×5)=1.2
やはりアルニコの方が磁気抵抗が高い。

(*)厚み比は、アルニコ(三菱P610その他)とフェライト(FostexFEシリーズなど)の観察から。
(**)残留磁束密度比から同じ総磁束を得るのに必要な断面積を推定。

残留磁束密度比:アルニコ/フェライト=6/1
(http://www.tp-mag.com/jishaku.html)


また、2.については、

https://www.neomag.jp/mag_navi/mames/mame_physics.html
によると、
アルニコの抵抗率5×10-4 Ωcm
フェライトの抵抗率>102 Ωcm
であり、確かに、フェライトはアルニコより遥かに抵抗率は大きいが、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%8A%B5%E6%8A%97%E7%8E%87%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83
によると、
純鉄の抵抗率1.00×10-7 Ωm=1.00×10-9 Ωcm
つまり、純鉄の抵抗率はアルニコの50万分の1なのだ。
そして、下のサイトのスピーカの磁気回路の構造を
https://blog.goo.ne.jp/parc-audio/e/5bfd93d7eabb7cf6f6af99e2433889ec
見ると、ボイスコイルの近くはポールピースにしろ、ヨークにしろ、ほぼ純鉄なので、ボイスコイル付近の抵抗はほぼ抵抗率の低い鉄に支配されていると考えられる。なので、アルニコであろうとフェライトであろうと、逆起電力に違いが出る可能性はほとんど無い。

 アルニコとフェライトで音に違いが出るとすれば、むしろ、磁気回路の構造の違いによると考える方が合理的だ。言い換えれば、磁気回路の構造を工夫して、ボイスコイル付近の磁束分布をアルニコと同じにできれば、同じ音になると考えられる。実際、JBLではアルニコからフェライトに変えたときに磁気回路の構造を工夫してアルニコに劣らない特性を得ている。
(2023/09/12)

πの級数展開

 数学上には不思議な式がたくさんある。以前に書いたオイラーの等式」やゼータ関数と素数などは代表例だが、πの級数展開なども不思議だ。
  π/4=1−(1/3)+(1/5)−(1/7)+(1/9)+・・・
奇数の逆数を足したり引いたりすると円周と関係するπが現れる。これは arctan(x)のマクローリン展開から得られるのでそれから考えるとそれほど不思議ではないけれども、上の式だけを見るとはやり不思議な感じがする。
 まあ、級数展開を持ち出せばeの級数展開
  e=(1/0!)+(1/1!)+(1/2!)+(1/3!)+(1/4!)+(1/5!)+・・・
なども非常にシンプルな級数でこれもマクローリン展開から得られるのだが、πもeも超越数(※)なのだ。更に不思議なのがπとeには不思議な関係がある。  もう一つ不思議なのがバーゼル問題の解の式
  π2/6=1/12+1/22+1/32+1/42+1/52+・・・
だ。こちらはx2/4のフーリェ級数展開を使って得られる。
 こうなると、
  α=1/13+1/23+1/33+1/43+1/53+・・・
は、有限確定値に収束するが、これは超越数なのか?といった疑問も湧く。
 更に、一般に自然数n≧2について、
  β=1/1n+1/2n+1/3n+1/4n+1/5n+・・・
はどうなのか?(*)など疑問は際限がなくなる。
 上記のような性質はいずれも関数の級数展開から得られるものだ。関数の級数展開という考え方が数学を新しい世界に展開させたことは間違いない。
(*)実はβをnの関数f(n)と見るとリーマンのゼータ関数である。
(※)数の集合は
  自然数⊂整数⊂有理数⊂実数⊂複素数
なのだが、実数は有理数と無理数に分けられ、更に、無理数は代数的無理数と超越数に分けられる。自然数は物の個数を数えるときに出てくる。整数は自然数を負の数に拡張した。有理数は整数の分数で表される。代数的無理数は有利係数の代数方程式の解として現れる。超越数はそういった拡張では現れない。超越数とはそれぞれ特異な性質を持っていて一般的な性質で規定するのが難しい数なのだ。複素数は2つの実数a,bと虚数単位により、a+ibと表される数である。因みにπはおなじみの円周率という幾何学由来の数であり、eは自然対数の底だが、
      d
      ──ex=ex
       dx
    
という顕著な性質がある。
(2023/08/21)

「差」対「比」と音楽

 音楽ではドとドは1度の関係という。同じものは普通の感覚では差は0なので、0度が自然にも思えるが・・。
筆者の考えは、以下の通りだ。
 楽音の世界は比で成り立っている。平均律ではドとド♯の間の音程関係は周波数では、1:1×2(1/12)のように比の関係になっている。どの音でもその音と♯の音はそうなっている。つまり、同じ音は周波数が1倍なのだ。音程は周波数の差で考えるのではなく周波数の比で考える。それが1度の由来なのではないか。いつか、音程の「度」の由来をご存知の方に聞いてみよう。
(2023/06/22)

 調べて見ると、ドイツ語では、

1度:Prime、2度:Sekunde、3度:Terz

のように1、2、3になっている。日本語表記の1度、2度、3度は、こういった外国の表記に由来するようだが、それではそもそも上記の外国語表記はなぜそうなったかという疑問が生じる。このような表記が出来た時代はまだ、音の物理パラメータの「振動数」という概念は無かった(振動の概念はあったと思うが)と思われる。まして、振動数比という考え方も無かったはずで、なぜ、同じ音を振動数基準の表し方である「1」度と言い出したのか不思議だ。
(2023/08/11)

緊急用ハンマー

 緊急脱出用として車内に工具のハンマーをのせていたところ、警察から凶器の疑いがあるとして3時間ほど事情を聞かれていたそうだ。警察の言い分は「ハンマーが専用の製品ではなかったため、本当に脱出用なのか確認する必要があった」とのこと。

 馬鹿げた言い分だ。専用のハンマーだと犯罪に使われないとでも警察は思っているのか。そうだとしたら合理的な思考がまるでできないバカとしか言いようがない。窓ガラスを割る用のハンマーは他人の家のガラスでも他人の車の窓ガラスでも人の頭でも割れる。当たり前のことだ。専用ハンマーだから犯罪に使われないという保証は全くない。だから「専用」かそうでないかなどということを判断の基準にするのは大間違いだ。こんなバカなことを言っているようでは、犯罪者を見逃すことになる。むしろ、「専用ハンマーならば取り締まられないから専用ハンマーに変えよう。」という犯罪者も出てくる可能性も生じる。警察も緊急脱出用にハンマーを積むことを推奨しているので、筆者も写真と同じ形のハンマーを助手席から手の届くところに積んであるし、運転席から手の届くところには後ろが尖った金槌を積んでいるのだ。
 ここにも形式や条文ばかり見て合理的な思考ができていない典型が見える。形式的、マニュアル的に物事を見ていては間違った判断をする可能性が高い。重要なことはその持ち主がどんな状況・状態にあるかを観察し判断する能力と技術を養うことだ。これは、難しいことには違いないが、「脱出用ハンマーを携帯するべきだが専用ハンマーでないとダメ。」というような形ばかりで実質的な内容が矛盾した(ハンマー業界との利権絡みを勘ぐりたくなる)取締に陥る危険性を減らすには必須のことだ。上記のような警察の言い分が通るのは「自分の車の窓ガラスだけ割れて他の窓ガラスは割れない。」というような夢のような専用ハンマーができた場合だけだ。
(2023/06/08)

学習型AIの問題

 「ChatGPT」が話題になっている。これは学習型AIに自然言語生成AIを組み合わせたものだ。これについて、便利さの一方、間違った回答をする場合があるということが問題視されている。
 「間違った回答」をすることを大問題と捉えて「AIはだめだ。」と言う人もいるが、これは間違った捉え方だ。この種のAIが間違った回答をすることがあるのは当然のことで、それをもって「AIはだめ。」と結論付けることは妥当性を欠く。
 そもそも、「学習型」である以上、「何を学習したか。」によって、回答が変わってくるのは当然のことだ。例えば、独裁国家の政府が造る学習型のAIはその独裁者に都合の良い学習をしていて独裁者に都合の良い回答をすることは当然考えられる。「学習型AI」は「人」と同様のものなのだ。間違った学習をした人が間違ったことを言うのは当然で、要は「学習型AIの回答を鵜呑みにしない。」ということを徹底して周知することだ。
 「人の言うことを鵜呑みにしない。」ということは常識であるはずなのだが、学習型AIに対しても同様の姿勢で臨むべきであることを理解していない人が多いのが問題
なのだ。
 また、「AIは所詮機械だし、人間とは根本的に違う。」と考えている人も間違っている。人間も機械と同じ物理的存在であり、脳の活動も物理的なものだ。「機械には人間にある『感情』が無いので違う。」という人もあるが、「感情」も物理的存在の情報処理装置である脳の活動であることを忘れた主張だ。認知科学的に見れば「感情」も人間の生存に寄与するある面で合理的な情報処理活動の一つ、であることを理解していないだけだ。
 今後、AIは益々人間と近くなり、人間のやることの多くを代替するようになることは眼に見えている。そういった世界が眼の前にあるのに人間同士で争っている場合ではない。このことを世界の政治家や支配者はもっと深刻に受け止めなければならないと思うが、どうもその気配も見られないのは情けない。
(2023/05/24)

シミュレーション動画の影響

 コロナウィルス感染症の最盛期に人が咳をしたり喋ったときに放出する飛沫のスーパーコンピュータによるシミュレーションが発表された。これは世間に多大な影響を与えたのではないか。この結果を見てマスクの重要性を認識した人は多かったのではないか。筆者も、「人はしゃべるだけで飛沫を周囲にこんなに撒き散らしているのか!」と驚くと同時に向かい合っての食事中にしゃべるのが恐ろしくなった。結果的にコロナがかなり収まってきた現在でもマスクを外す気になれない人が多いのではないだろうか。

「動画で見る、スパコン「富岳」による飛沫のシミュレーション(MiraikanChannel)」より




(2023/04/26)

行政の大バカ

 福井県の道路の待避スペースとの間の側溝の蓋がとぎれとぎれになっていて、車が落ちて事故になった。

(テレ朝NEWS)


福井県は法律に則っているので、県として落ち度は無い、「道路の構造上は“安全”だと思いますけど。より安全を徹底するため、注意喚起を徹底していきたい」と言う。
なんという馬鹿げた思考か!
 この構造はワナか落とし穴だ。こんな構造にしたら何かの状況で待避が必要になったときに待避できるスペースがあるのに待避できないし、特に夜など側溝が見えにくいので事故になる可能性が極めて高い。これのどこが「道路構造上は安全」なのか。福井県はこの程度の思考もできないバカの集まりなのか。しかも、この事故以前にも何度も側溝に落ちる事故があったらしい。それでも「道路構造上は安全」という考えを改めず、侵入禁止のポールを立てるなどの措置もしなかった。バカで無責任だ。
 県の言い分は自分で考えることを止めたマニュアル人間の典型だ。
マニュアル(法律)がなければ人が死ぬ危険があって何もしない、マニュアル(法律)があれば人が死ぬ危険があっても何でもやってしまう
(2023/04/25)

 この問題に関して、県警の交通課はどうしていたのか。パトロール中に上記の状況に気が付かなかったとしたら過失責任を問われても仕方がない。
(2023/04/26)

最近の車のデザイン

 最近の乗用車のデザインは筆者には「かっこ悪い」と見える。燃費が気になるのか、空力特性を良くしょうとして、やたらとフロントウインドウが寝ていてかつ側面から見た窓の面積が小さくなっている。特に後席は窓がほとんど申し訳程度になっている。少なくともスポーツカーでない乗用車は家族で乗車する機会も多く後席でも視界は広い方が開放感があって良いと思うのだが。窓が大きい車はかっこ悪いと考えるセンスは筆者には「ダサい」と感じる。
 上記のようなデザインが「かっこ良い」と考える人が多いようだが、筆者が「かっこ良い」と考えるのは二代目プレリュードや、二代目ソアラ、シルビアなどウエストラインは低いがサイドウインドウは比較的高さがあるものだ。このセンスはもう時代遅れなのか。
 実際に運転する場合もあまりにフロントウインドウが寝ている車は窓が遠くにあることになるので実質的な前方視界は狭くなる。ダッシュボード上部も長すぎて視界の邪魔になる。
 実用的な乗用車の理想はウエストラインが低すぎずかつあまり高くもなく、座席は公園のベンチのような自然な高さで、前席・後席とも前後左右の視界が広く、十分なヘッドクリアランスがあり、フロントウインドウがあまり寝ていないものだ。これに近いデザインはもう古いものになってしまうがホンダのMobilioだ。「窓が大きすぎてかっこ悪い」という人が多いようだが、筆者には実用車としては理想的に思える。
(2023/03/24)

馬鹿げたデザインの道具

灯油ポンプが動かなくなった。電池の消耗かどうか調べようとして電池ホルダーの蓋を開けようとしたが、蓋のデザインがおかしなデザインになっていて開かない。

蓋にスジが付いているがスライド方向と並行なので引掛りが無く全く動かない。結局、細いマイナスドライバーを蓋と本体の隙間に差し込んでコジ開けた。結果、蓋と本体にキズがついてしまった。どうしてこんな馬鹿げたデザインにしてしまったのだろう。道具設計者としてのセンスが丸で無い。引っ張る方向と直角にスジを入れるのは当たり前のことだと思うが。 こんな馬鹿げたデザインは他にもあって、ステックのりの蓋も同様だ。




蓋のスジが引っ張る方向と並行に付いているので引掛りが無く蓋を取りにくい。デザイナーはこれが道具であることを忘れているのか、それともバカなのか。
(2023/01/27)

袴田事件再審決定

 袴田事件の再審が決定された。この事件の裁判における警察・検察・裁判所のデタラメ振りにはあきれる。始めから事件の物語を作って、それに合いそうな証拠ばかりを集め、はては証拠の捏造さえもした。有罪とする証拠に明らかな疑義があるのに、死刑判決を下した裁判所も万死に値する。こんな裁判が行われる日本の裁判制度には恐怖を感じる
 そもそも、警察・検察・裁判所が科学的・合理的思考ができていない上に、警察・検察の持っている全証拠を開示しないのがおかしい。全ての証拠を開示して客観的・公平な眼で見て裁判ををするのでなければ正しい判決は得られない。正しい結論に至るには取り調べの完全可視化と証拠の全面開示が不可欠なのだが、未だにそれが実現されないのは日本の裁判制度がいかに前近代的であるかを表している。
 未だに警察・検察は捜査の正当性を主張しているが、まるで合理性が無い。そもそも、司法が無謬性を前提にすることが科学的に大間違いなのだ。もちろん、司法が無謬であることは理想だが現実では無謬ではない。科学は誤ることがあることを前提に機能する。司法に携わる人への科学的論証の訓練をする教育がなされないのは大きな問題だ判決に合理的な疑義が生じたら謙虚にそれに基づいて再審を開始するべきだ。
(2023/03/16)

 検察はまたまた特別抗告を検討しているらしい。「証拠捏造などありえない。」と言っている人もいるらしいが、過去に証拠捏造の事例がゴロゴロあることを知らないのだろうか。「判決に仮に疑義があっても司法の信頼性を守るために再審はしない方が良い。」と考えているのであれば本末転倒も極まれリだ
(2023/03/19)

 検察は特別抗告を諦めた。「承服しがたい点があるものの、特別抗告の申し立て理由があるとの判断に至らなかった」などと言っている。何を言っているのだろう。なにか、何が何でも再審を止めるために理由を探している印象だ。「理由がない」のであればつべこべ言わずに再審を受け入れればよい。まだメンツに拘っているのか。これまでの判決について提示された多くの疑義について合理的な反論ができていない現実をどう考えるのか、検察はメンツに拘るあまり根性が腐っているとしか見えない
(2023/03/21)

 検察が今頃になって「有罪を立証する」などと言い出した。多くの検証から証拠の衣類について高等裁判所が「捏造した可能性が極めて高い。」と断定したにも関わらず、権威維持のために合理的な判断を捨てる検察という組織はまともな組織とは言えない
(2023/07/13)

有害なイスラム教

 イスラム教は現代文明においては有害だ。教義に「女性は男性より劣位にあり、保護されるべき存在である。」とある。確かに女性は平均的に男性よりも筋肉量が少なく暴力的な場面に置いては劣勢だ。争いが暴力的な強さによって解決されていた時代ならばそれは意味のあることであったかもしれない。しかし、現代文明は暴力的な能力よりも思考・判断の能力の方が有効になっている。暴力的場面でも筋力で劣る女性も武器を使えば男性に対抗できる。
 「イスラム教は女性を大事にしている。」とする反論もあるが、現実は女性を様々な場面で虐げていることが明らかだ。
 イスラム教の有害な点は上記の教義により女性の権利を甚だしく抑圧していることだ。特に、教育を受ける権利に対する妨害は最悪だ。学校で学ぼうとしている女子学生に毒を盛って集団中毒を起こさせた例も報告されている。
 いわゆる「統一教会」の教義も女性差別的だ。キリスト教も本質的には女性を蔑む体質がある。カナダで2022年に行われた調査では、福音派プロテスタントのキリスト教とイスラム教の2つが「社会にとって有益というよりも有害である」と考えるカナダ人が多いことが判明している。
 多くの宗教は女性や特権階級以外の人々が教育を受けて賢くなることを嫌う。人々が賢くなると宗教に易々諾々と従うことを止め、自ら考えるようになるので困るのだ。独裁的地位を失うことが怖いのだ。
 もう、上記のような宗教は捨てるべきだ。そのためにはちゃんとした科学教育で、宗教というものの不合理性と現代社会では人類の幸せへの寄与より害の方が多いことを教えるべきなのだが、人を支配するには宗教は非常に効果的な道具になるので、ほとんどの国(特に独裁国家)で未だに宗教が無条件で尊重されている。神が支配する国は民主国家にはなりえないが、民主主義国でさえ「信教の自由」と言う形で宗教は尊重されるのみで、その有害性をちゃんと教えるということがされていない。危険だ
(2023/03/03)

 「エホバの証人」という宗教団体では日常的に子供の虐待が行われてきたことが、同教の三世の証言で明らかになった。この宗教も「ハルマゲドンが起きて信者でない人はみな死ぬ。」などと恐怖を煽る教義で人を引き込み信者を支配している。有害な宗教だ。
(2023/03/06)

ないものはない

 他人に正確に意図を伝える文章を書くのは難しい。句読点の打ち方で意味が変ってしまう場合については以前にも書いたが、「ないものはない。」はもっと面倒な文だ。この文だけを読むと二通りの解釈が可能で、句読点を打っても状況はほぼ変らない。
 この文は

  1. 二重否定
  2. 強調

の2つの場合があり、これらは前後の文脈によってしかどちらか決定できない。例としては

  1. この店にないものはない。
  2. いくら欲しがってもないものはない。

などだ。1.の場合については「この店にないものは、ない。」とすればよさそうだが、「ないものは、ない。」だけ切り離すとやはり曖昧になるので文脈が必要だ。助詞を入れて

  1. この店にないものは、ない。
  2. この店にないものは、ない。

とすればかなり改善されはする。
 文脈でしか判断できないような文はできれば避けたいが、意識が主観的になっていると無意識に使ってしまう場合があるので、失敗を避けるためには、一度書いてしばらくして客観的な目で読み返してみる必要がある。
(2023/01/11)

LINE文における句読点省略

 朝日新聞でLINE文章における句読点省略が話題になっていた。今の若い人達は句読点を毛嫌いしているとも言われている。これについて、肯定的な意見も否定的な意見もあったが、それらは「入力が速い。」とか「句読点で文章のリズムができる。」のようなものばかりで本質的な問題を見落としている。
 コミュニケーションにおける文で最も重要なことは、その文によって書き手の意図が正確に伝わるかどうかだ。その観点からすると、句読点を省略して最も問題になるのは、その文が句読点の位置によって意味が異なってしまう場合である。例えば、
「最も重要な人との絆を大事にする事。」は
  1. 「最も重要な人との絆を、大事にする事。」
  2. 「最も重要な、人との絆を大事にする事。」

1.と2.では意味が異なる。こんな曖昧文の場合に句読点を省略するのは拙いことは明かだ。
 LINEにおける文は殆どが非常に短い単文に類するものなので、恐らく句読点を省いても問題は生じなさそうである。従って上記のような場合のみ句読点を入れるのであれば問題は生じない。しかし、LINEにおける句読点の省略はそのようなことを考慮して行っている訳ではなさそうなので、曖昧文が混入する可能性はあると考えられる。その意味で今の若い人のように句読点を闇雲に毛嫌いするのは拙い状況と思う。
(2022/12/22)

電力逼迫

 ロシアのウクライナ侵攻により、エネルギー不足が問題にになっている。政府・電力会社はそれに乗じて電力料金の大幅値上げをちらつかせて国民を脅して「原子力発電再稼働・新規建設!」を叫んでいる。結局、時局に乗じて原子力ムラの利益とプルトニウム保持の継続をしたいのだろう。
 ヨーロッパでは既にこのエネルギー危機を切っ掛けに再生可能エネルギーにシフトして、エネルギーを輸入に頼らずに賄うことがほぼ可能になっている国が幾つかある。
 長期的に見れば当然その方が国の安全からみて合理的
だが政府の姿勢は口では「再エネ推進。」と言いながら原発の運用延長や新規建設などむしろ再エネ普及を妨害する方向に動いている。国賊的政治だ。
 そもそも、エネルギー供給は分散化した方が国防上も災害対策としても安全だ。原発のような集中型のエネルギー供給形式は一つの供給源の停止でも広範な被害を生じるだけでなく、大きなエネルギー源が突然消失するとネットワークで繋がる他の地域にも連鎖的に影響が波及して更に被害が広がる恐れがある。
 再生可能エネルギーによるエネルギー供給の分散化により国の安全性は、外国からの攻撃にも災害にも他国を攻撃するような武器を揃えるよりも遥かに高まる。
(2022/11/30)

「神」を否定的に教えること

 以前にも書いたが、現代のような情報網も交通網も発達して世界が複雑に絡み合った状況では宗教は害の方が多くなっている。宗教の最大の問題点は「反省」が無いことだ。科学は常に反省している。つまり、常にそれが正しいかどうかという検証にさらされていて、拙い所が発見されればその都度修正される。一方、宗教はそれが殆ど見られない。そもそも、批判を受け入れない基本的構造があるので改善の可能性が無い。特に、全能の神を戴く宗教においてはその傾向が強いので有害だ。そして、これは独裁者にとっては誠に都合の良い利用しやすい道具だ。
 そもそも「神」は人間が都合良く考え出した概念に過ぎない。事が行き詰まったときに「神」のせいにすれは何でも解決がつくお手軽で安易な概念だ。科学が発達していなかった昔ならとりあえず神のせいにして疑問を払拭して心の安寧を得るという効果はあったかもしれないが、安易な解決をしてしまうとちゃんとした解決法を模索する動機を失うのでむしろ有害だ。
 科学的、合理的立場からすれば「神」の存在は証明されていない。そのことは学校教育でちゃんと教えるべきだ。「存在が証明されていないものは存在しないと考えて行動するのが安全だ。」と教えることは真っ当な教育の役割だ。これは「信教の自由」に反しない。「何を信じるかは自由だが神は居ないと考える方が妥当だ。」というのは紛れもない事実を教えることなので全く問題無いばかりかむしろ正しい知識を教えることになるので推奨されるべきだ。教育関連法の中でそのような教育を推進することを謳っても良いくらいだ。もし、世界中でそうすれば互いの理解も進み易くなり、もう少し住みよい世界になるのではないか。もう、まやかしの安心にすがるのは止めたらどうか
 そして、もう一つ、天国も地獄も無い、死ねばただ居なくなるだけ、と言うことも徹底して教えるべきだ。そうすれば、「〜をしなければ地獄に落ちる。」などという脅しに屈することも無くなる。
(2022/10/12)

 プーチン、ネタニヤフなどを見ると「独裁者は神を後ろ盾に殺戮を繰り返す。」と言える。
(2025/08/24)

男女役割分担

 男女役割分担という考えは保守的な勢力で強い。確かに、男と女には肉体的な違いや、そもそも子供を生めるかどうかなど、大きな違いがある部分もある。しかし、脳の機能などは僅かな違いはあるものの大脳皮質に関しては殆ど同じと言ってよい。
 男女役割分担は原始時代に狩りをして生活していたころや、戦国時代に直接敵と対峙して戦っていた、肉体的優位性が直接効いてくるような時代の名残だろう。
 現代のような、戦争も肉体的なぶつかり合いよりもAIに制御された機械が戦う時代になってしまうと肉体的な優位性はほとんど意味を持たなくなってきた。その他の分野でも男女の機能的違いはほとんど問題にならず、要は殆ど違いの無い脳の機能に基づく知識の有無とその応用力の問題になってきている
 こうした状況では男女の役割分担も非常に限られた部分にしか意味を持たなくなってきている。更に言うと、男の優位性が無くなってきている。政治思想にしろ宗教にしろ、今更、男女の役割分担を世の秩序にしようというのは合理性が無く、現実が見えていない愚か極まりない思想だ
(2022/11/19)

信教の自由

 憲法では「信教の自由」ということが挙げられている。これは、政治権力によって個人の信仰を左右されることが無いようにする目的を持つ。ところが、今回、統一教会問題で、議員の統一教会との関係を調査することに信教の自由を盾に取って批判する輩が出てきた。見当違いの屁理屈だ。反社会的行為をしていると最高裁判所が認定した団体との関係は、最早、信教の自由とは別の問題だ。統一教会は宗教法人格をはく奪すれば良いしこれまでの行状からそれに充分該当すると考えられるが、政府・文科省は何もしようとしない。何か弱みを握られているのだろう。
 信教の自由にしても、もちろん個人が何を信じようと自由だ。ところが、多くの宗教は嘘から成り立っている。そもそも、「神」などというものは人間が都合よく作った「概念」に過ぎない。「天国」や「地獄」もそうだ。絵空事を信じるのも自由なのだが、問題は、事実は一つだが、絵空事は無数にありうることだ(もちろん一つの事実も見る立場が異なれば違った認識になるが、嘘よりは共通性が高い)。なので嘘を信じる人が多いほど社会は混乱する。これは、大きな問題になる。できるだけ多くの人が嘘から成り立った宗教から離れ、事実を客観的に見るるようになった方が人々の思考の共通基盤ができて地球は住みやすくなるだろう
(2022/09/06)

近藤誠と宗教

 近藤誠という医師が死んだ。この医師は慶応大学医学部時代から、「癌放置療法」なるものを提唱し、癌の治療に否定的立場から多数の本を書いてベストセラーになった。この人物の本は物事を単純明解に断定するもので悩んでいる人に受けるタイプのものだったらしい。主張は科学的根拠に乏しいものだったが、単純明快な答えを期待する読者に受け、ベストセラーになった。
 その後、近藤説を信じた癌患者が癌で死亡する事例が出て来て、批判が高まり「癌放置治療」は下火になったが、今度はコロナワクチンをとりあげ反コロナワクチン本を出版した。これも「単純明快な答えを好む人々」や「陰謀論的言説を好む人々」に受け、ヒットしてワクチンを受けない人を増やしたようだ。
 さらに、2022年8月2日に「どうせ死ぬなら自宅がいい」を出版したが、直後の8月13日にタクシー乗車中に虚血性心不全を発症し、病院で死亡した。この本の宣伝文句が「わが家で安らかに逝ける」だそうだから皮肉なものだ。
 この手の「物事を単純明快に断定する」タイプの人物は宗教指導者のようなものだ。こうした人物の言説を信じる人は宗教を信じ込みやすいとも考えられる。歯切れ良く断定してくれるものを信じやすい。
 「この薬を飲めば絶対治る。」とか「この株は絶対もうかる。」など自分の好み、思想・信条に関して以外のことで、歯切れよく断定する人の言う事を信じるのは危険だ発展途上の科学の言説は往々にして歯切れが悪く頼りないものではある。「このワクチンで75%の可能性で発症が防げる。」とか「明日の降水確率は60%」など。しかし、こうしたやや頼りなさげだがちゃんと数値(数値に嘘があると問題だが)を挙げている言説は現代社会では最も信頼するに足る言説なのだ
(2022/08/30)

核抑止論

 「核抑止論」という考え方がある。核兵器を持った国同士では武力紛争は起こし得ない、という考え方だ。それを主張する人の多くは憲法第9条

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

を、「平和ボケ。」と揶揄する。しかし、核抑止論の方が平和ボケしているように見える。核抑止論は「互いの国の為政者がまともな判断力がある。」という前提に立っているが、世界を見るとプーチンを始め、金正恩その他まともで無い判断力の為政者がゴロゴロしている。その意味で「核抑止論」は破綻している。ブーチンは頭がおかしくて今にも核兵器を使いそうだし、金正恩は国民のことなどどうでも良く自分は国外に逃げて助かるので核戦争も辞さないと考えているらしい。こうした状況では「核抑止論」は成り立たない。
 核抑止論を主張する連中は原子力発電でプルトニウムを生産・備蓄することを推し進めているが、むしろ外国からの原発への攻撃の可能性の方が注意するべき事柄だ。原発は防衛上の重大なウイークポイントだが、その点についてほとんど有効な施策はされていない。日本を滅ぼすには核ミサイルなど必要なく、通常弾頭のミサイルを原発に打ち込めば事足りる。非常に危険な状況だ。防衛費を増やせという声が大きいが、その対象が「敵基地攻撃能力」や「ミサイル防衛」に使われるなら、「日本国民を守る。」という防衛の本来の目的とはかけ離れたものと言わざるをえない。如何に、日本が武装しても、例えば中国や北朝鮮から飽和ミサイル攻撃を受けたら防御は不可能なことは明白だ。現在、50機余りの原発を持つ我が国で原発が攻撃されたときにどのようにしてそれから国民を守るかを早急に考える必要がある。
 前にも書いたが、日本が生き残るためには巧く立ち回って多くの国を味方に付ける一方で、自国だけで食料、エネルギーなどを賄えるようにすることしか無い。安倍晋三のように事を荒立てるようなバカをやっては日本は生きることはできない。例え心の中で中国や北朝鮮を敵視していても表面は笑顔で巧く立ち回るしかない
(2022/08/11)

 上に原発の危険性を書いたが、現実にロシアがウクライナのザポリージャ原発を占領して非常に危険な状況になっている。図らずも原発を持つことの危険性が証明されてしまった。
(2022/08/14)

ゾコーバ

 塩野義の新型コロナ感染症薬「ゾコーバ」の緊急承認が厚労省の審議会で見送られた。現在のゾコーバの効能としては
  1. ウイルス量は減少する。
  2. 呼吸器症状は改善する。
  3. 発熱、けん怠感、せきなどでは効果が見られない。
  4. 妊婦に使えない。
  5. 既にある薬と同様のものだから。
ということで承認見送りとなったが、ウイルス量が減少するという効果は重要なのではないか。報道をみるとどうもこの委員会は妙なバイアスが掛かっているようで、これまで緊急承認したモルヌピラビルやパキロビット(販売名)については4の問題はスルーされているのにゾコーバについてだけ問題にするとか、ウイルス量減少という最も重要な効果を無視していたり、5.の事項など意味不明な理由を挙げて、始めから否定的な態度だ。これまでに日本で緊急承認された薬は外国で緊急承認されたものばかりで、日本開発の薬は無い。どうも、厚労省は自分達が責任を持って判断することから逃げているか、何等かの利権が絡んでいるしか見えない。何のための緊急承認制度か!
(2022/07/21)

 ゾコーバはその後2022年11月に緊急承認された。実は、筆者の母は2024年7月に2回目のコロナ感染をしたが、ゾコーバが投与されて軽症で済んだ。2022年に早く承認されていれば、助かった命や重篤な後遺症に悩む人を減らせたのではないか。
(2024/07/28)

ルネ・デカルト

 デカルトは一般には哲学の分野で有名だが、筆者にはむしろ数学での貢献が大きく見える。哲学は自然科学の発展により強い影響を受けて時代と共に変化する(というより自然科学に反する哲学は通用しなくなる)が、数学は発展はするけれど変化は少ない。それは組み立てが「証明」という論理的に揺るぎないものになっているからだ。
 デカルトが導入した「座標」という概念はそれまで数学上別の分野として扱われてきた代数と幾何を結びつけてその後の広大な数学の発展の基になった。2次元平面上の点は座標(x,y)で表され、直線は式ax+by=cを満たす点(x,y)の集まりとして表される。円はx2+y2=r2を満たす点(x,y)の集まりとして表される、などである。これらは高校の数学で出てくる。こういったことを知ると筆者などは「おお!」となる。数学の面白さは「答えが一つに決まるから。」などと言う人がいるが、それはつまらないことだ。数学の面白さは上記のような驚きにあると思う。あるいは、元々別の由来の定数が不思議な関係で結びついていたりする。数学嫌いの人にこの面白さを感じてもらえたらと思うのだが‥‥。
 数学において別の分野として発展してきた分野が数学者の天才的な発想により結びつけられて飛躍的な発展に繋がることがある。デカルトの座標概念の導入はその最初のものだったと思う。
(2022/07/16)

送電網計画

 日本の電力供給について地域間の条件の違いを平準化するために送電網が必要だが、政府は北海道から首都圏に今までと独立な系統を建設する計画を持っている。それはとても良い計画だがそれに対する予算が4.8兆円とのこと。もっと金を掛けて他地域での別系統の送電網も早く作ればよい。オリンピックに4兆円も出したのであれば、国民の生命に係るに事業にはもっと潤沢に予算を投下して他の地域間の送電網も整備するべきだ。送電網の整備は電力供給の分散化を促進し、供給源の地域や時間による変動に対して強くなり、安定供給が可能になるので、所謂「ベースロード電源」などということを言わなくて済む。改めて書くが、原子力はやめた方が良い。原子力は処理が難しい放射性廃棄物を出すばかりでなく他国からの恰好の攻撃目標になり危険だし、更に、電力需要の変動に対して融通が効かず常に電気を発生し続ける。これが再生可能エネルギーが普及しているヨーロッパのある国では邪魔になっているらしい。政府は「ベースロード電源」などと耳当たりの良い名前で誤魔化しているが、要は融通が効かないことの裏返しだ。洋上風力や地熱を使えば「ベースロード電源」になるし、風力はプロペラのピッチ制御機構を使えば簡単に発電量を調整できるので需要の変動にも対応容易だ。家庭用電源は屋根の太陽光パネルとバッテリーの普及で可成りの程度賄える。これは電力供給の分散化もできて、分散化とネットワーク化が進めば災害などには有利だ。
 太陽光に対しては今後出る太陽光パネルの廃棄物処理を大問題のように喧伝するむきもあるが、原子力発電から出る廃棄物の処理にくらべれば桁違いに容易だ。太陽光パネルの処理は化合物の処理なので分子レベルの問題だが、放射性廃棄物は原子核レベルの問題になり、原子核に手を加えるのは非常に大きなエネルギーを要する。分子結合が核外の電子のやり取りという比較的弱い、電磁相互作用が関わるのに対して、原子核の結びつきは核力という桁違いに強い相互作用が関わっているので、それを変える(核分裂や核融合)には非常に大きなエネルギーのやり取りが必要でかなり難しい太陽光パネルができた当時も「太陽光パネルを作るには青酸化合物を使うので原子力より問題だ。」といったことが流布された(多分、政府・電通と電力会社が加担していた(原発広告:本間龍))が、上記と同じく問題の難しさを無視した利権と妙な思想絡みの愚論だ。青酸の処理など核廃棄物の処理に比べれば桁違いに容易だ。
(2022/07/06)

科学者で構成された参議院

 片山杜秀という人が、参議院を科学者議会にしたらどうか、という意見を新聞で主張していた。これは非常に良い意見だと思う。
 今の参議院は単なる衆議院の二の舞でしか無い。今の政治に最も欠けているのは科学的な視点の政策だ。パンデミック、食料、エネルギー、国防、どれを取っても、科学的合理的視点よりも利権・思想視点がまかり通っていて、大多数の幸福に資する政策が出て来ない。政策は国民の大多数に最も資する可能性があるものでなければならないが、そのために最も可能性と信頼性があるものは科学的な知見に基づくものだ。
 そもそも、人間の持つ知識は不完全なのだが、不完全な知識体系の中で最も信頼度が高いものを選ぶならば科学的知識にならざるを得ない。信頼性の高い知識体系を構築しようとすれば実証的で論理的になってしまう、つまり科学的になる。人間の知識というものは必然的にそうなってしまうものなのだ。そのことを多くの人は解っていない、そこを日本の教育はちゃんと教えなければ、おかしなことを信じて間違った判断をする人が無くならない。
 政治が利権や宗教的思想しか無い政治家の集まりだけで動くようでは国民の幸福はおぼつかない。参議院は科学議院にするべきだ。
(2022/07/03)

競争は進歩に必要か?

 朝日新聞の「教育」欄で猪木武徳と言う人が「競争は弊害もあるが無くてはならない。競争があるから選手は練習に、学生は勉強に励む。人は互いに切磋琢磨してこそ、よいパフォーマンスを発揮し、成長するわけです。」と書いている。本当か?この人は経済学者とのことだが、経済という、人の作る社会という側面しか見て来なかったのではないか。
 人が競争によって進歩するのは確かだが、「競争があると進歩がある。」が真だからといって、その裏、「競争が無ければ進歩が無い。」()は真ではない。人が競争によって進歩するのは、「競争」という事象が「進歩」を必要条件としているだけであって、「競争は無いけれど進歩がある。」という状況も多々ある。例えば科学の進歩は人との競争というより知的好奇心によるものが主だ。偉大な科学的進歩のほとんどは科学者の強烈な好奇心よっている。これは競争ではない。自然は人と競争したりはしない。また、原始人が弓矢や槍などの道具を作り出したりしたのも他人との競争が動機というより如何にしたらより効率的に狩りが出来て楽に生きることができるかということによる。不幸にも弓矢や槍は後に人との争いに利用されたが‥‥。
 筆者が勉強したのは他人に勝ちたいからではなく、自分の興味がある分野に行きたかったからだ。偶々、入試は他人との相対評価で合格が決まる制度になっていたので競争に加担した結果になったが、入試が絶対評価で合格を決める制度であったとしても勉強したと思う。大学時代も誰かに勝ちたいから、という動機で勉強した記憶は無い。
 「進歩には競争が必要。」というのは競争でしか進歩の動機を持たなかった人か競争好きな人、あるいは競争ばかりが目立つ「社会」にしか関心を持っていなかった人の考えだろう筆者には、競争で得る進歩は地球規模で考えた時、人類の発展存続や幸福に益をもたらさないもののように感じられる

()「競争が無ければ進歩が無い。」の対偶、つまり、論理的に同等な命題は「進歩があれば競争がある。」であり、これは「進歩があるところには必ず競争がある。」との主張になる。
(2022/06/23)

福島原発訴訟についての最高裁の判決

 福島原発事故について最高裁の判決が出た。判決は「現実の地震・津波は想定よりはるかに大規模で、防潮堤を設置させても事故は防げなかった」として国に責任は無いとした。一方、2002年に国が公表した地震予測「長期評価」に基づき、東電子会社が08年に計算した最大15・7メートルの津波予測は「合理性を有する試算」としている。ということは「想定よりもはるかに大規模」との主張は矛盾している。東日本大震災の津波の波高は最高でも15m未満だった。ならば、15.7mの予測値に対応する防潮堤を作っていれば原発事故は防げた
 かなり前から最高裁が政府の顔色を窺う判決を下すのを見てきたが、今回もそう見える。政府に人事を握られているのでは三権分立は名ばかりだ
(2022/06/17)

 東電の旧経営陣の裁判で最高裁が事故の予見可能性を否定して無罪が確定した。判決は国が公表した長期予測での15.7メートルの津波の試算を「信頼性に疑義がある。」として無視したものだ。ここにも法律家の愚かさが見える。仮に「疑義」があるとしてももし、事故が起きたときに生じる事態の重大さを考慮すれば、無視するべきではない試算だ。事故の判断はその事故の起きる確率だけでなく、事故が起きた時に生じる損害の大きさを掛けるので無ければ合理的な判断とは言えない。
(2025/03/07)

座右の銘ではないけれど

 有名人のインタビューでよく出される質問に「座右の銘は?」というのがある。筆者には座右の銘と言えるものは無いが、一時的に心の中で思っていたことはある。
 高校2年になって直ぐに試験があった後に数学の先生から「数学が出来なければ理系に進学できない。」と言われてショックを受けた時だ。中学までは特に勉強しなくても数学はなんとなくできていた。ところが、高校になってもボーッとしていたので数学ができなくなっていた。しかし、文系の科目は好きでなく理科は好きだったので理系に進学したかったのだ。それから人生で初めて「努力」というものをした。まず、自宅での勉強の時間割を作り、数学の参考書を入手して勉強した。また、授業は予習をして真剣に聴いた。そうしたら、急激に成績が上がると共に、数学がとても面白くなった。そのとき心の中で繰り返していたのは「できるかできないかやってみなければわからないじゃないか!」という呪文のようなものだ。
 とりあえず挑戦してみることは、特に若いときには重要だ。いや、年取っても、できないかも知れないと思われることに挑戦してみることは精神的な若さを保つためにも良いのではないかと思う。実際、筆者の女房の実家で風呂を改装したとき、風呂側の壁の内張までは業者がやってくれたが、脱衣スペースの壁は構造体の柱などがむき出しのままだった。それで、女房から「内張をして欲しい。」との要望が出された。家の内張なんぞやったこともないし考えた事も無かったので「そんなのできるのか?」と思ったが、とりあえず業者がはったのと良く似た化粧合板を買ってきて色々と工夫しながらやってみたら結構うまくできて、業者がやったところとほぼ区別がつかない程度の内張ができ、自分でも驚いた。
(2022/06/15)

芸・技・学

 外国人はよく日本料理の技に感嘆する。料理だけではない。例えば、包丁などもそうだ。日本の職人が作った包丁は世界で人気だ。日本の職人の技術は世界的に見ても優れているようだ。これだけ優れた技術を作り出した日本人だが、経済的な観点からすると大きな経済効果を生み出してはいない。これはどういうことか。
 日本は「芸」や「技」を極めるのは得意だが、それに基づいて「学」を発展させるのがあまり得意ではないように見える。ここでいう「芸」「技」「学」とはどんなものを指すかを定義して置こう。
 「技」を伝えるにはそれをやって見せて学ばせるという方法がある。これは、昔からある「徒弟制度」である。ここでは、「どうやればその『技』ができるようになるか。」ということは直接的には伝えられない。伝えられる側は自分で獲得しなければならない。これはあまり効率の良い方法ではない。一方、伝えられる側のの観察と解釈という段階が入ることにより、伝えられる側による新しい観点や解釈の可能性があり、より良い「技」に洗練される可能性がある。
 「技」を分析してその原理を体系的にした「学」を構築できるとその伝承は非常に効率的になり、その「技」の大衆化・大規模化が可能になると同時に色々な方向への発展の可能性も出てくる。その意味で「技」を分析して「学」を構築することは重要だ。
 「学」が有効であるためにはその「学」が信頼できるものである必要があり、そのためには実証的かつ体系として論理的に矛盾が無いことが必要となる。これは「科学的方法」そのものだ。つまり、「学」は突き詰めようとすると必然的に「科学的」になる。この点は非常に重要なのだが、世の中には色々な場面で科学的であろうとすると「科学万能主義」と揶揄する人も多い。そういう人は「きちんとした知識を得ようとする」と必然的に科学的になってしまうということが解っていない。ある時点での科学が正しいという補償は無いが、最も正しい可能性が高いものを選ぶならばそれは科学を選ぶということになる。

(*)「学」を「Science」という事に対して恐らく「科学だけが学ではない。」と反論する人も多いと推測されるが、終りの方で書いたように、「学」は必然的に「Science」になる(というのが筆者の考えだ)。
(2022/06/09)

自動車のトグルスイッチ

 先日、自動車を車検に出した。その際、代車を出してもらった。その車は筆者の車と同じメーカーの後継機種だったのだが微妙にユーザーインターフェースが違っていた。
 まず、キーのドアのロック/アンロックスイッチが筆者のものはトグルスイッチ(*)式であったのが、代車はロック/アンロックが別ボタンになっていた。最初、閉まっているドアを開けようとしてボタンを何度押しても開かずとまどった。悪いことに代車のキーのボタンの表示が摩耗して消えていたのでなかなか気が付かなかった。何度か失敗して以前に乗った代車も別ボタンのキーだったことを思い出して大きいボタンの横の小さいボタンを押したら開いた。
 ドアのロック/アンロックのスイッチはトグルスイッチでない方が合理的だ。トグルスイッチはスイッチ操作だけではロックかアンロックかは車外からはドアのロックボタンを見るか、テールランプが1回点滅したか2回点滅したかを目視しなければ判らない。これは不便だ。ロック/アンロックが別ボタンになっていれば目視しなくてもロックかアンロックはボタンにより確定なので「ガチャッ」という動作音だけ聞けばよい。この点は代車の方が改善されている。
 一方、パーキングブレーキは、筆者のものはロックがパーキングペダルを踏む、アンロックがダッシュボード下のアンロックレバーを引くという動作なので何も見なくても操作可能だし走行中アンロックしたか心配ならアンロックレバーを引けば良いので安心だ。ところが、代車はロックもアンロックもパーキングブレーキペダルを踏むという動作だ。これだと走行中に操作するのは危険だし、パーキングブレーキの踏み増しもできない。筆者には改悪に見える。

(*)「トグルスイッチ」とは少なくともソフトウェア業界では「同じ動作でON/OFFをするスイッチ」のことである。つまり、ボタンが一つで現在ONなら押すとOFFになり、現在OFFなら押すとONになる。この種のスイッチは現在の状態が明かに目視できたり体感できる場合に使用するべきものだ。特に、安全に係る対象の操作にはトグルスイッチは使うべきでない。
 世間では、レバーを一方に倒すとONに他方に倒すとOFFになるスイッチもトグルスイッチと呼んでいるが、これは筆者には違和感がある。この種のスイッチは操作だけにより結果が決まる(1変数関数)。一方、トグルスイッチは現在の状態と操作の2つで結果が決まる(2変数関数)ので本質的に異なる。
(2022/06/02)

法律や規則について

 大阪高裁の森友学園問題の裁判で籠池夫婦に有罪判決が下された。確かに、この夫婦のやったことは法律に触れることなので有罪になると思うが、この事件の根本は安倍晋三・昭恵という政治権力者が非常に重要な場面で係わっていたので、少なくともこの二人に何等かの証言をさせるべきところであり、何らかの罪に問われてしかるべきものなのだが、籠池夫婦のみに罪を押し付けた感が強い。
 法律や規則は通常、言語によって「条文」の形で記述される。その運用は実社会で行われるが、そのためには「条文の解釈」と言うことが重要になる。言語で記述されたものの解釈は一意に確定するものではない。数学のような厳密に形式化・記号化された世界では一意の解釈が有り得るが、自然言語による世界では様々な解釈が存在する。そこに種々の問題が生じる。特に権力者が自らに都合の良い解釈をして、それを法律関係者が裏付けるような場合である。これが、権力者が自分達に都合の良いように法律を使うケースの典型だ。「条文」と「運用」の間に「解釈」という操作が入るので、どのように運用するかの自由度が存在する。
 そもそも、法律や規則はそれらを策定した目的・趣旨があるものなので、本来の目的や趣旨に合理的に沿った解釈の下に運用されるべきものなのだが、えてして法律家は条文を合理的に運用することにあまり関心が無いように見える。そのため、本来、合理的に考えれば趣旨や目的に添わない解釈をして権力に都合の良いような運用がまかり通ることになる。数々の合理的に考えれば罰せられるべき権力者・政治家の汚職などが放置されるのもそのようなことが原因になっている可能性が高いように見える。
(2022/04/19)

間の抜けた話

 筆者は、このページで見るようにレンタルサーバによりHPを開設している/してきた。ところが、昨年末にそれまでのレンタルサーバ事業者(実はプロバイダでもあった)が廃業することになり、HPを現在の「さくらインターネット」に移設した。まず、回線を以前の事業者からNTT西日本の「フレッツ光ネクスト」に変えたのだが、その作業は以前のプロバイダ兼レンタルサーバ事業者がそもそもNTT西日本のフレッツ光ネクストとのコラボ回線だったのでCAF番号により事業者変更依頼をするだけで済んだ。そして、前の事業者に解約届を出し、解約も完了した。‥‥で、問題無くネットを使い続けた(使い続けられた?!)のだが、実は、新たなプロバイダの契約をしていなかった。一寸、不思議だったのだが、以前の事業者との契約がプロバイダとレンタルサーバの両方だったので、プロバイダの移管作業も自動的にNTT系統のOCN辺りに変えられたのかな、と気にも留めていなかった。
 ところが、つい先日、偶々WiFiルータの電源を落とした後、再度起動したらONUのPPPランプが点燈しなくなった。インターネットにつながらない!。調べた結果、ONUの接続設定のプロバイダが以前のプロバイダのままになっていた。これでどうしてインターネットにつながっていたのか?NTTの人に聴くと常時接続の場合、何かつながっている限り接続が切れないままになることがあるのだそうだ。それで、WiFiルータがつながっていたので切れずに続いたらしい。
 前のプロバイダとの解約完了した時点で新しいプロバイダと契約をしていなければならなかったのだが、インターネットが使えたので都合の良いように解釈していたのだ。我ながら間の抜けた話だった。早速、新しいプロバイダと契約手続きをしたが稼働開始するまではスマホ(パケット契約量2GB繰越加えても4GB)のテザリングしか使えないので、動画などは見るのは差し控えている。
(2022/04/15)

冷蔵庫のドアポケットに牛乳

 テレビの「ワイドなショー」で「冷蔵庫のドアポケットに牛乳や卵を入れるのは間違い。」というような話題が出ていた。ネットで「牛乳・冷蔵庫・ドアポケット」のキーワードで検索すると「温度が15℃くらいになるからダメ。」という結果が大量に出てくる。しかし、これは大いに疑問だ。
 そもそも、卵については売り場でも冷蔵保存していないし、冷蔵庫の卵入れに入れていれば、1ヵ月くらい経っても問題無い。牛乳についても、成分が殆ど水なので比熱はほぼ1という高い値であり熱しにくく冷めにくい。そんなものが数秒〜数十秒で温度上昇するとは合理的にみて考えにくい。確かにドアを開けると庫内の空気は温度上昇するだろうが、短時間であれば庫内の温度上昇は熱対流による暖気の進入のみで水分が多い庫内のものの温度上昇は少ないと考えられる。
 「冷蔵庫のドアポケットに牛乳を置くと牛乳の温度が上がるので良くない。」と主張している人で実際にドアポケットに置いた牛乳の温度変化を計測した人はあるのだろうか実際の計測結果を見てみたいものだ
(2022/02/13)

老化

 筆者は2022年1月現在76歳、つまり後期高齢者だ。まだまだやりたい事も多く気持ち的には60代と余り変らないが、最近は以下のようなことで老化を感じることがある。

  1. 炬燵などに座った状態から立ち上がる時に何となく不安定になり何かに掴まりたくなる。
  2. エスカレータに乗って上がる時に手摺を持たないと不安になる(なぜか下りは問題無い)。
  3. 一旦行動を起こしたときに状況変化に対してその修正が難しい。
  4. 複数の事の並行動作が難しい。
  5. 急に上り坂を上がると酸欠のようになり立ち眩む(これは元々貧血傾向なので老化と少し違うかもしれない)。

 特に、3.と4.は車の運転時に問題になる。現在のところ年に2万kmくらい運転し、月1回片道550kmの高速道路主体のドライブをするがゴールド免許を維持しており安全運転には可成り留意しているが、運転していて時々「自分はまともな運転をしているのか?正常に走っていると思っているのは錯覚なのではないか?」といった不安が頭の中をよぎることがある。個人的な事情でまだまだ免許返納は難しいが、危険を察知する能力が落ちたり察知したときにそれを避ける行動を起こす反射神経が衰えたことをどうやって自己認識するか、無料でシミュレータなどのテストが受けられれば有難いのだが。
(2022/01/31)

福島第一原発の使用済核燃料冷却>水停止

 かねてより、東京電力の原発管理杜撰さは目立っているが、またまたそれが露呈した。3月16日深夜の福島沖地震で福島第一原発の2号機の使用済み核燃料プールの冷却水をためるタンクの水位が低下して、核燃料を冷やす機能が一時停止した。更に、5号機のものも一時停止し、タービン建屋ともう一棟の火災報知器が鳴ったが、これは誤動作(誤動作!?)らしく出火は無かった。
 原発に関しては、2011年3月の東日本大震災での福島第一原発メルトダウンの教訓から追加の安全対策をしたはずだ。それを根拠に「原発再稼働」を推し進めてきたのだが、震度6程度でこの体たらく‥‥東電は、そして原子力規制委員会は何をしていたのか。信用するに値しない
(2022/03/19)

館田教授の新型コロナオミクロン株感染

 3月14日のNHKの「NEWS WEB」で、東邦大学の館田一博教授(61)が新型コロナオミクロン株に感染・発病して重症化していたことが報じられていた。同氏は感染症の専門家で、感染症学会の理事長や政府の新型コロナ対策分科会にも出ていた。
 2月4日に喉の軽い症状があったが、抗原検査で陰性になり回復する兆しもあったので放置した。ところが、2月9日になって咳と熱が出始め、10日には強く乾いた咳がとまらなくなった。PCR検査をすると陽性が判明し、CTで肺炎が判明。即、入院となり人工呼吸器を使った治療を開始。以後、10日間もほぼ意識無しが続いた。3月2日退院するも重い後遺症に苦しんでいる。
 重症化した原因は、アレルギー体質だったのでワクチンを打っていなかったことらしい。その事情は気の毒だが、感染症の専門家として恥ずかしい限りだ。ワクチンを打っていない身で2月4日に症状が出た段階でPCR検査をせずに放置したというのは専門家としてはダメだ。退院した今になって「今、冷静に考えると、なぜもっと早め早めに、PCR検査をやらなかったのかと思う。」などと言っている。感染症学の専門家を名乗る資格は無い。なぜ、そんなことになったか‥‥どうも、下に抜粋する、同氏が2020/4/2に「新型コロナウイルス感染症に対する臨床対応の考え方―医療現場の混乱を回避し、重症例を救命するために―」という報告書に書いたことの手前、PCR検査を受けるのが憚られ、抗原検査という精度の低い検査を二回も受けてなお感染を見逃すという愚かな結果になったのではないか。

新型コロナウイルス感染症に対する臨床対応の考え方
―医療現場の混乱を回避し、重症例を救命するために―


‥‥PCR検査の原則適応は、「入院治療の必要な肺炎患者で、ウイルス性肺炎を強く疑う症例」とする。軽症例には基本的にPCR検査を推奨しない。‥‥

2020年4月2日

一般社団法人日本感染症学会
理事長 館田一博
一般社団法人日本環境感染学会
理事長 吉田正樹

上記の見解は感染症専門家としての科学的な見地からではなく、政府あるいは行政の特定の集団の権益に添ったものだったのではないか。そもそも、「ウイルス性肺炎を強く疑う」状況では抗原検査でもほぼ間違いなく新型コロナであることを確認でき、PCR検査の意義は低下する。無症状や軽症のときにこそPCR検査が力を発揮する。専門家としてその程度のことは解っているはずだ。

 オミクロン株について「季節性インフルエンザと同様の扱いにすべきではないか。」という意見が結構あるが、この例から、それが間違いであることがはっきりした。季節性インフルエンザと同等の扱いにできるのは、
  1. 正確で手軽な感染検査キットがある。
  2. 効果的な治療薬がある。
  3. 後遺症に有効な治療方法が存在する。
という状況になってからだ
(2022/03/16)

 館田一博氏のことを少し調べて見て驚いた。無症状者や軽症者に対するPCR検査に否定的であっただけでなく、ワクチンについては大々的な推進をしていて、「感染・発病・重症化防止に非常に効果があり、若い人も友人や親や祖父母などに感染させないためにも、(社会的責任として)是非接種した方が良い。」といった趣旨の発言をしていたらしい。上記で「アレルギー体質だったのなら未接種はしかたない。」との趣旨のことを書いたが、自分が接種していないのであれば、少なくとも「自分はこれこれの(社会的な責任から逃れる)合理的な理由で接種していない。」ということが説明できるのか。「自分は(リスクがあるから)接種しないけれど、皆さんは(社会的責任として)接種してください。」とは、デタラメにも程がある。こんな人は即刻国民に影響力のある立場から追放するべきだ。
(2022/03/17)

裁判官の合理的思考能力の無さ

 東名あおり運転夫婦死亡事故の差戻審が開かれたが、被告側は無罪を主張したとのこと。そもそも、この裁判は1審の裁判手続きの誤りにより差し戻されたものだ。一審では審理が始まる前の公判前整理手続きで、横浜地裁の裁判官は、「危険運転致死傷罪の成立は認められない」との見解を文書で提出していて、このことが裁判手続き上の違法行為になっていた。
 筆者としては、そもそもの一審裁判官の「危険運転致死罪が成立しない。」という見解に大いに疑問を持つ。危険運転致死罪は 危険運転致死罪第二条には
4.妨害運転致死傷罪
人または車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人または車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為
とあって、裁判官はこの適用が出来ないと判断している。この判断の根拠は事故当時車は動いていなかったので、「重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為」に当たらないということらしい。ちょっとマテ!と言いたい。「速度」というのは動いているときだけに定義されるものではないし、高速道路の追越車線で停止させるということが「『重大な交通の危険を生じさせ』ない」という認識が馬鹿げている。高速道路の追越車線で速度0にするということは重大な交通の危険を生じさせる速度だ。正に、裁判官の状況認識・理解能力の欠如と愚かさを表している。そもそも、高速道路で停止すること、いわんや、追越車線で停止(速度0km/h)することは道路交通法で禁じられている。なぜ禁じているかは、「重大な交通の危険を生じるから」に他ならない。こんなことも理解できないのは裁判官に成るための教育が法律の解釈などのみに終始して法律の制定目的・趣旨を理解せず、条文をひねくり回す技術のみに終始して、現象の合理的な認識・理解・判断をするための教育が無い、つまり、HowTo(技術)ばかりでWhy(科学)を教える教育がなされていないことによると考えられる。その弊害が現れたということであろう。裁判官(のみならず、警察、検察などの法律に関わる者)はもっと現象・現状の認識・理解能力・論理的思考能力、言い換えれば科学的・合理的思考・判断の訓練を受け、その習慣をつけるべきだ。
 実は、科学を理解する必要があるのは法律に係わる人のみではなく科学技術で成り立っている現代に生きる全ての人についても言えることなのだが。
(2022/01/28)

バイクアクセルの不合理

 AT車のシフトパタンの不合理性については以前に書いたが、バイクのアクセルの構造も不合理だ。アクセルは右ハンドルの先端側から見て左に回すと加速になる。これは、ライダーから見ると手を手前に引く方向なのだが、これは危険だ。何かの拍子に加速したら慣性により体が後ろに引かれて加速方向にアクセルグリップを回す結果になる。つまり、正帰還になるので益々加速して事故に至る可能性がある。特に初心者でこの事故を起こす場合が多いように思う。実際、初めてバイクに触った人でこの状況に陥った例を見たことがある。逆に回す構造になっていれば、負帰還機能により減速になり事故に至らない可能性が高い。
 ネットを見ると
  1. 前に回したら重心が前にいくので不安定になる。
  2. スポーツバイクで高速ライディングだと伏せて乗るので、前には回しにくい。
  3. ブレーキングの際には、アクセルを戻してブレーキレバーを握るという操作が自然でやり易い。
  4. 上記のような理由を示して「今の仕組みでないと事故が増える。」と主張する。
などとして、危険性をいう主張に「バイクについて無知だ。」とする意見があるが、1.は手首をひねるくらいの動作で重心が移動する可能性は低いし、もしそうならば現行の仕組みで手前に捻った時にも重心の移動が生じて拙いのではないか、との疑問が生じる。2.は普通にバイクに乗る場合とは違う話だ。3.に関しては一応の合理性があるが、ブレーキをかけるとアクセルが戻るような仕掛けを付ければ良い話だ。4.の意見もバイク乗りから出ているようなので、今まで慣れてきた仕組みを肯定したいというバイアスが掛っているように見える。
 なぜ、こんな不合理な構造になったかは、ATのシフトパタンと同様の理由なのではないかと推測している。
(2022/01/26)

キャスター輪に対する加重

 YouTubeのページで、キャスター輪に掛けられる加重について「4個付けているので1個の4倍」というような説明をしていた。これは間違いだ。4個で4倍になるのは、キャスター輪の取付が完全平面でかつ床も平面の場合‥常に4点が床に接地している場合のみだ。そうでない場合は3点支持になったり、場合によっては2点支持になる場合もある。
 上記のような場合を考えれば、4個取付ても2倍として計算した方が安全だ。更に、床を転がす場合には、段差等による衝撃力が加重の数倍になることも考えられ、安全係数を4〜5に採るならば、4個付けた場合も1個分の耐加重程度で考えた方が良いこともある。
 結局、使用状況(加重の性質、床の性質、運用の仕方など)を考慮しなければキャスターの耐荷重は簡単には決められない。
(2022/01/22)

弓の持ち方

 テレビで長嶋一茂がチェロを弾いていた。武道館で披露するとのことでちゃんと習っているらしいが、弓の持ち方がまるでダメだ。ちゃんとした弓の持ち方にすれば、ずっと上達すると思われるのだが。チェロの先生は持ち方の指導をしていないようだ。想像するに、弓の持ち方がちゃんとしたものになると上達し過ぎてテレビ映像的に面白くなくなるので、テレビ局の方針でわざとそのままにしているのではないか
 チェロ弓の持ち方をネットで調べてみると、内容的には似たようなものがほとんどだが、力学的な観点からの説明が不足しているように思える。特に、親指の位置について、なぜ中指と薬指の間辺りに来るように持つかの合理的な説明が充分でない。
 弓を適切な圧力で弦に当てるには力学的な支点が手の中にある方がコントロールし易い。その時の支点が親指になるので、力点(人差し指)が支点(親指)より弓先側に無いと圧力を加えられない。上記の持ち方にしていないと支点は手首や肘の関節になってしまい微妙なコントロールが困難になる。それと、上記の持ち方にすることにより、弓を大きく引いた時に自然に手の甲が左に捩れる形になるので自動的に弓先に圧力が掛り弓の弦に対する圧力の減少が防げる。
 上記のような力学的なことを踏まえて弓の持ち方を指導すれば、恐らく、初心者も要領が掴み易いのではないか。筆者は始めから上記のような力学的な観察をしていたので弓の持ち方は独学の時から問題無かったようで、後に習い始めても弓の持ち方で注意や指導を受けたことは無い。
(2021/11/19)

「しゃべらなきゃならないけど、のどすっきりしたい」

 何度聞いても気持ち悪い。「けど(けれど,けれども)」は逆接の接続詞なので、これに続く文は否定形または否定的な内容の文のはずだが、そうなっていない。
 多分、「喋らなきゃならないけれども喉がすっきりしないので、喉をすっきりさせたい。」と言いたいのだろうが、中間部分が欠けているので、文の論理的な構造として前半と後半が不整合になっている。気持ち悪い。
(2021/10/20)

水道管崩落

 和歌山市の水道管橋が崩落した。耐用年数の3,4年前の突然の崩落は驚きだ。なぜ、崩落したかはまだはっきりしないが、崩落の動画を見ると、始まりはアーチ構造の中央部の加重が突然消失した

ことのように見える。中央部の加重が消失することにより、周辺部の垂直加重に対する抗力が消失して周辺部分から崩れ落ちている。アーチ構造は加重を全体に均等に掛けることにより、垂直加重をアーチ端のアーチの円周方向の圧力に逃がす力学的構造になっているので、一部でも加重バランスが壊れると全体の破壊を生じる。
(2021/10/06)

「とうもろこし」

 野菜のコーンは日本語では「とうもろこし」というが、以前からこの呼称はおかしな呼称と思っていた。「とう」は中国のこと(昔、古文で習った)だし、「もろこし」も中国のことと思っていた(これも古文で習った)。なので「中国中国」と言っているのと同じだ(と思っていた)。
 ところが、「チコチャンに叱られる」というテレビ番組で「とうもろこし」のひげが話題になったときに調べて見ると、現代語において「もろこし」はイネ科の一年草のコーリャンのことだと判明した。つまり、「中国のモロコシ」という呼び名のことなので同じことを二重に言っているわけではないということだ。これで長年の違和感が払拭された。
(2021/10/02)

アストラゼネカワクチン

 政府は、ファイザーやモデルナのワクチン供給が不足している現状で、これまで、日本人への接種を控えていたアストラゼネカ製のワクチンを使用する方針を決めた。それはこの状況ではやむを得ない選択かもしれない。しかし非常に奇妙なことにアストラゼネカ製のワクチンは40才未満には使用せず、40才以上に使用するとのことだ。海外の調査結果では、アストラゼネカのワクチンの副反応の血小板減少症候群で死亡した数は40才台が最多、50才台が2番目、60才台が3番目でその後に30以下の死亡数が来る。このデータからすると政府の方針とは逆に40才以上は避けるべき年齢だ政府のやることには全く合理性が無い。バカのやることは理解不可能だ。
(2021/08/06)

原子力発電の経済性の嘘

 ついに、経済産業省が原子力発電より太陽光発電の方が経済的だと言い出した。もちろん、太陽光発電技術の発展もあるだろうが、以前に「原子力発電は経済的」と言いつのっていたのは、廃棄物処理や安全対策、事故が起きた時の対応、そして政府から落ちる莫大な補助金のことを無視、いや隠しての嘘の計算に基づくものだったのだ。
 福島の事故以来、上記によって生じる不経済が露呈して、結局「原子発電は不経済」ということを認めざるをえなくなったのだ。それでも今の政府は原子力利権にかじりついて「原子力は重要なベースロード電源」などという誤魔化しのキャッチフレーズで原子力を推し進めようとしているどこまで薄汚い集団なのか
(2021/07/13)

新型コロナワクチンの筋肉注射部位

 新型コロナワクチンの2回目の接種をした。ワクチンは筋肉注射であり、1回目は全く問題無かった。しかし、今回は疑問が生じた。前回は針が刺さる時にちょっとチクッとしただけで、ワクチンを注入するときは全く判らなかった。しかし、今回は注入時に「!?」と感じる痛みがあった。後で見てみると、注射位置が非常に肩先近くになっていた。
が前回、が今回。

 日本医師会の
https://www.kyoto.med.or.jp/covid19/pdf/20210226vaccine05.pdf
によると、「注射部位は三角筋の肩峰より3横指下中央の位置です。」とある。今回の筆者の場合、ほぼ「肩峰」の位置だ。
 上記のページの図

で言えば、の上の端つまり「肩峰」辺りだ。注入時の違和感はそれが原因なのではないだろうか。これで「筋肉注射」になっているのか。むしろ、「関節注射」のように見える。医師が「肩峰」を確認した後、「3指位置をずらす」のを忘れたウッカリミスなのではないか。
(2021/05/31)

 接種した接種会場に行って(11:59〜12:05)上記の件を問うてみた。回答は、一応位置が高いことを認めつつも「この部分にも筋肉があるので筋肉注射にはなっている。今の症状も副反応の一つと考えられる。」とのことであった。
(2021/06/01)

 体温は最高37.7℃までなったが、夜には36.4℃の平熱になった。腕の痛みも夕方にはほぼ無くなって来た。多分、ワクチンは有効に効いているのではないか。
(2021/06/02)

 もう少し、調べてみると、
https://www.mhlw.go.jp/content/000764700.pdf

 注射部位は三角筋中央部で、穿刺部位は肩峰から真下に3横指程度下の位置が目安になる。上方過ぎるとワクチン関連肩関節障害を、下方過ぎると橈骨神経障害を起こすリスクがある。

ともあった。今のところ、特別な症状は出ていないがどうなのだろう。
(2021/06/03)

ATのシフトパタン

 筆者はMT車で免許をとって、45万kmあまりMTに乗り、その後、ATに乗り始めて2021年5月現在、既に20万km以上走った。ずっと疑問に思うのは、ATのシフトパタンだ。前の方から、P−R−N−D−Lとなっている。

  1. まず、シフトが一直線になっていることだ。中にはクランクのつなぎ合わせになっているものもあるが、大多数は一直線だなので、RやP,Lに入れるときは付属のボタンを押しながらでなければならない。ところがN→RとR→Pは同じボタンを押しての同じ操作になる。また、L→DとD→Nはなにもしないでレバーを前に押すのみなので、L→Dのシフトが勢い余ってNまで行ってしまうことがある。MTのようなシフトパタンになっていればそういった事故は起こらないし、手の感覚だけで、どのシフト位置にあるか判る。ATの場合は、前方から視線を移してシフトレバーあるいはメーターパネルの表示を目視する必要があり、安全上問題が生じる。なぜこのような不合理な仕組みになっているのか。
  2. 前に押すとRやPになり、後ろに引くとDやLになっている。人間の自然な感覚なら、前に押すと前進し、後ろに引くと後進になる、というのが合理的と思うが。なぜ、こうなってしまったのか。
  3. 最近知ったのだが、プリウスなどのハイブリッド車はシフトレバーがシフト位置に関わらず、センター位置に戻ってしまうらしい。益々、不合理な仕組みに劣化している。なぜ、こんな方向に進んだのか、そもそも、なぜレバーをセンター位置に戻す必要があるのか意味不明だ。「シフトがどの位置にあるかは見やすい位置にディスプレイがあるのでそれを見れば判る。」と言う意見もあるが、人間の視覚の焦点深度は深くないので、ディスプレイを見るときと運転のために前を見るときは眼の焦点調節をしなければならず、眼に負担がかかる。特に、眼の機能が衰えている高齢者には負担が大きい。ユーザーインターフェースとしては最悪の部類に入るのではないか。自動車メーカの技術者は人間と機械のインターフェイスに関するセンスが無い人ばかりなのか。

 これと似た改悪に、カーエアコンの強度調整がレバー式になっているものがある。

  1. 動かすときに支点が無いので、細かい調整がし難い。
  2. レバー位置が目視しないと判らない。

これは、現在乗っている車はダイヤル式なのであまり問題は無いのだが、以前のものはレバー式だった。

 同様な改悪は、台所のガステーブルにもある。点火がボタン一つ(点火も消火も押す)になっていて危険だったり、火力調整がレバー式になっていて支点が無く細かい調整がし難く、更に何かが引っ掛かって位置がずれる可能性がダイヤル式より高いものがある。

不合理な仕組み
 ATのシフトパタンが直線的で手前に引くと前進になるようになっているのは、恐らく、最初にATを作ったときに油圧や電気回路によるメカニズムが無く、ワイヤー式の伝達機構だったからではないか。ワイヤー式だと張力しか伝えられないので、手前に引く形にした方がワイヤーを支点の下側に張ることができ、デザイン的、メカ的に作りやすかったのではないか。
(2021/05/26)

停止時N−レンジは有害か

 筆者の車はホンダMobilioという車種で、駆動系は[CVT+湿式多板クラッチ]になっている。この車の運転では信号停止などの停止時にギアをニュートラルに入れている。これは筆者としては、D−レンジでの停止時の半クラッチ状態を避けることにより、クラッチの寿命を伸ばそうとの意図がある。ところが、ネットでは「AT車の停止時ニュートラルシフトはトランスミッションの故障につながるのでやってはいけない。」と書いてあるものが多い。ただし、良く読んで見ると、これは液体トルコン車についてのものであり、[CVT+湿式多板クラッチ]車には当てはまらないのではないかと考えていた。これは正しいのか。
 ネットで調べて見ると
ホンダのCVTはスタートクラッチシステムという電磁ソレノイドバルブに依る湿式多板クラッチを使用しているので、(停止時−Nレンジの)悪影響は有りません。

という記事があった。少なくとも、メカ的に悪影響はなさそうである。しかし、
「ニュートラルアイドル制御」の導入が近年進んでいる。「ニュートラルアイドル制御」などは手動によるN→D操作より負荷の変動をさせることなくスムーズに発進できる制御もなされているからだ。

という理由で、停止時ニュートラルは必要無いと書いてある。確かに、モビリオでD−レンジに入れたまま停止していると、最初はエンジンの振動が大きいがしばらくするとエンジンの振動が低くなる。これはクラッチの接触圧が下がってエンジンに対する負荷が減ったことによると推測される。ただ、これでも半クラッチ状態は続いているには違いは無い。筆者のように停止前にN−レンジに入れると直ぐにエンジンはアイドリング状態になり、エンジンの振動はほとんど感じなくなる。D−レンジのまま停止していても、N−レンジで停止していても、エンジン回転数は750rpmに保たれたままなので、D−レンジで停止しているときは摩擦に打ち勝って750rpmを保とうとしてガソリンを多く供給しているはずであり、多少なりとも燃費の悪化を招いていると考えられる。筆者の場合、発進は[(N−レンジから)D−レンジシフト<同時>ブレーキ解除→車の動き出しを確認→アクセルを踏む]という手順で発進操作をしていて、発進時は極めて円滑である。
 ATにおけるN−レンジ使用に否定的な意見として
Nにしておくと、発進の際、ついDに戻すのを忘れてアクセルを踏む→発進しないので焦ってさらに踏み込む→エンジン回転が上がった状態でNレンジのままであることに気付き、慌ててDに入れる→急発進して追突

ということがあるので危険という意見もあるが、そんな事故は本当に多いのだろうか。そもそも、筆者のように、[(N−レンジから)D−レンジシフト<同時>ブレーキ解除→車の動き出しを確認→アクセルを踏む]という手順で発進操作をやっている限り上記のようなことはまず発生しないと考えられるし、からぶかしのままDに入れるなどというのはトランスミッションなどに悪影響があるのでやらない。何かの拍子で空ぶかしをしてもアクセルを戻してからシフトする習慣だ。こういった発進操作で発進のタイミングが遅くなり後続車に迷惑が掛かるという意見もあるが、上記の発進の仕方で並走する車に発進で遅れを取ったことは無い。ただし、筆者は急加速はしないので、発進で遅れをとらなくても次第に遅れるということは良くあるが。
 そもそも、発進時に動き出しの方向も確認せずにいきなりアクセルを踏むというような運転は危険
(2021/03/22)

平成30年エネルギー基本計画について

 2018年エネルギー基本計画が環境省のホームページに掲載されている。これは、カーボンニュートラルを目指して策定されたらしいが、原子力発電については、未だに、嘘を平気で書いてある。(青字)
 この計画を見ると、カーボンニュートラルは口実で、原子力発電をとにかく推し進めたいという魂胆が見えみえだ。
「2030年度には再生可能エネルギーの導入促進や、原子力規制委員会により世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた原子力発電所の再稼働を通じて、‥‥」
原子力規制委員会の「実用発電用原子炉に係る新規制基準の考え方について」の最初のところで、「原子力規制委員会の独立性・中立性」を謳っているが、これまでの規制委員会の姿勢は、如何にして原子力発電所の再稼働をするかに向っているように見える。
原子力規制委員会の委員の選出には、原子力についてどのような見解を持っているかを明確にして、推進側に偏らない人選が必要だ。
「運転コストが低廉で変動も少なく、運転時には温室効果ガスの排出もないことから、安全性の確保を大前提に、長期的なエネルギー需給構造の安定性に寄与する重要なベースロード電源である。」
まだ、こんな嘘八百を並べ立てている。日本のような狭い国土で原子力発電所を設置するために必要となる費用は、当該自治体に対する莫大な補助金や、安全対策、放射性廃棄物処理そして、福島のような事故が起きたときに必要になる気が遠くなるような費用と時間を考慮すれば、「低廉」どころか「非常に高価」な発電方式だ。更に、「長期的なエネルギー需給構造の安定性」も、原子力発電のような集中的巨大電力供給施設は、一旦、発電所あるいはその周辺施設で事故が起きて送電が急停止すると、電力網への影響が非常に大きく、ドミノ倒しのような連鎖的な発電所の停止を招くことは、北海道の例からも証されている。また、「変動も少なく」は実際は「急な負荷の変化に着いて行けない。」と言う事であり、それを「重要なベースロード電源」などと言う耳当たりの良さそうな言を弄して誤魔化そうとする姿勢は詐欺に近い。むしろ、小規模な分散型の電力供給網の方が安定的な電力供給に向く。

「日本の場合、豊富な海岸線を利用しての風力発電や波力発電、潮力発電に太陽光や地熱発電を組み合わせるのが最良と考えられる。
 我が国の排他的経済水域に豊富に眠ると見られているメタン89ハイドレートや金属鉱物を商業ベースで開発が進められるようにするための技術開発を中長期的な観点から着実に進めていく。」
この方向性は良いが、「中長期的な観点から着実に進めていく」という表現からは、いかにも及び腰で本気で、国防上の緊急事項として進めるという姿勢が感じられないこの分野こそ、中国などに先を越されないように今の内に喫緊の課題として全力で開発を進めるべき分野だ
(2021/03/07)

 日本原子力発電と関西電力が2018〜2021年度に福井県敦賀市に15億円もの提供元が載らない形の寄付をしていたそうだ。日本原子力発電には政府からの税金の投入が東京電力を経由して注ぎ込まれている。関西電力にも国の税金から電源立地地域対策交付金などさまざまな交付金が投じられている。結局、国民の税金を不明朗な形で原子力発電に回していることになる。こういった金を含めると「原発の運転コストは低廉」が嘘八百であることは明白だ。
(2021/03/08)

村上陽一郎

 以前にネット上でツェノンのパラドクス紛いについてある人と議論した際に松野浩一郎氏が現代的な微分の概念を理解していないのではないかとの疑いを持ったが、松野氏の主張の元になっているのが村上陽一郎という東大教授の科学哲学者の主張だと言っていた。思い立って、村上氏の主張を調べて見て仰天した!。村上氏の主張は以下の通りだ。
 瞬間速度という概念が、微分という便宜的な算法を使わずには成り立たない、あるいは概念上の困難がある、ということを前回に述べた。日常的な考えに従えば、速さという概念は、あくまで一定の時間が定義されたとき、その時間内に移動する距離との比によって与えられるものだからであり、「瞬間」である限り、そこには一定の値を持つ「時間」が定義できないからである。
 それを微分を使って切り抜けて、見事に成功をおさめたのが、近代力学であった。しかし、そこに争い難い問題が残ることも確かである。
 それは結局時間幅をゼロに近付ければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離のほうだけはゼロにならない、という微分の言い抜けである。
(村上陽一郎、科学哲学の窓:時間を巡って、『図書』1999年3月号、58-59頁より)
 この人は1次関数計算もできない人なのか!あるいは頭がおかしくなってしまったのか。これでよく東大教授、それも科学哲学の教授になれたものだ。例えば、距離f(t)が、f(t)=ktという場合を考えてみれば簡単に解ることだ。高校数学での微分は

  {f(t+Δt)−f(t)}/Δt

で、Δtを0に近づけた時にどうなるかと言う計算になる。f(t)ktの場合上式は

  kΔtΔt

となり、分母(時間幅)が1/100になれば、分子(移動距離)も1/100になり、分母が1/1010 になれば、分子も1/1010 になって、決して「時間幅をゼロに近付ければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離のほうだけはゼロにならない。」などと言う事にはならないことは中学生でも解る。どこでこんな高校生でも間違いを指摘できるトンデモナイ誤解をしたのだろう。この人は数学を道具として使う技術は習得したが、数学を理解はしていなかったのだろう。
 現代の微分は、0/0などという破綻の無いε−δ論法を使った定義になっている。ε−δ論法は大学の理系の数学で習ったはずなのだが、高校レベルの微分も理解できない村上氏には大学レベルのε−δ論法を使った微分の概念が理解できなかったらしい。同氏が「哲学」に走ったのも、大学レベルの数学や物理学を理解することが出来なかったからではないか。
 村上氏は教育行政に深く関わっているらしい。そして、科学知識を過度に相対化する傾向にあるようだ。こんな人が教育行政に関わっていて、まともな科学教育を推進できるのか
※ 相対主義者は、真理が各社会やそれぞれの方法論的アプローチにとって、また各個人によってすら、異なっているかもしれないし、また事実しばしばそうであるとする。
 真理の相対化の問題点は科学的真理が常に実験その他による検証によって観測との整合性を確認されていることを無視していることである。例えば、病気を怨霊が原因とするか細菌が原因とするか、それぞれが「真」であるとして、病気に対する効果的な治療法はどちらの立場が得られやすいかを考えれば明らかである。「細菌を殺すあるいは細菌の活動を止めることにより治療できた。」という事実を受け入れるならば真理の相対化が間違っていて科学的真理の方が常識的な意味の真理に近いということになる。
(2021/03/04)

福島第一原発3号機地震計>故障放置

 福島第一原発3号機の地震計2台が故障したまま放置されていて、2月13日の震度6強の地震のデータを取れていなしことが判明した。昨年には故障していたが放置されていたとのこと。原発建屋の劣化の程度を調べる重要なデータが取れなかったのだ。東京電力の無責任さがまた露呈したこんな会社に原発は任せられない
(2021/02/23)

あるビーガンの意見

 さるビーガン推進のキャンペーンの勧誘に下のようなことが書いてあった。

動物にも、人間と同じように恐れや不安を感じる気持ちがあるのです。動物の命を蔑ろにすることが許される程、人間ってそんなに偉いのでしょうか。

 この人は大きな勘違い/間違いをしている。人間が肉を食べるのは人間が偉い(キリスト教では人間は「偉い」存在らしいが)からではない。人間が雑食性だっただけの話だ。肉食動物が他の動物の肉を食べるのも「偉いから」ではないのと同様だ。この人は「偉い者」は「偉くない者」を殺して良いと考えているふしがあり気持ち悪い考え方のベースに「人間は特別だ」と考えるキリスト教の影響下にあるように感じる。

 世界的な食糧危機に備えて哺乳類食や鳥類食よりも効率の良い昆虫食(筆者にはかなり努力が必要だが)や植物食を進めるのは意味があるとは思うが、上記のような考え方はおかしいと思う。
(2021/02/23)

COVID-19ワクチン

 COVID-19ワクチンがかなり有効であることが判ってきて、各国で輸入されている。既に、輸入の争奪戦の体をなしている。ファイザー社のワクチンの製造工場があるベルギーを含むEUはワクチンをEU外に出すことを制限する方向にあるようだ。こうなると菅義偉の言うような日本での迅速なワクチン接種が可能かどうか怪しくなってくる。
 日本は食料やエネルギーなど国民の生命線となるものを輸入に頼っていて、ワクチンも自国生産に力を入れず、輸入に頼ろうとする姿勢は相変わらずだ。
 日本のワクチン開発に掛けた/掛ける予算は2020年度で実質1000億円、2021年度は「ワクチン・治療薬の開発・安全性の確保等」に1606億円つまり実質開発費はおそらく1000億に満たないのではないか。2021年度の防衛費5兆3000億円余りに対してあきれるほど少ない。今、現実にあるコロナ危機に対して予算を投入せずに今すぐ必要ではない防衛費に莫大な予算を投入し、これで国民を守るなどと見当外れをやっている愚かさ。今は、防衛費を削って国産ワクチン開発に力を注ぐことが実質的な防衛になる。そもそも「防衛」を「戦争する」ことと勘違いしている輩が政治をやっているからこんなことになる
 食料にしろエネルギーにしろワクチンにしろ、他国に頼らないで供給できる体制を作らないで「国民の生活と命を守る」などというのは噴飯ものだ
(2021/02/05)

 ワクチンの接種スケジュールは当初の計画よりかなり遅れる見通しだ。既に、ワクチンの取り合いと供給側の調整が始まっている。この状況下で7月までにワクチン接種者が数千万人になるとは考えられない。オリンピックは無理だろう。
(2021/02/19)

 中国が中国産の不活化ワクチンを武器に各国に進出している。正に、ワクチン戦争の体をなしてきている。これに対して日本はどう対処するのか。日本政府は「国防」という意味で非常に無力だ。
 もし、日本が十分な予算を投じてワクチンを開発製造できていれば、各国に提供することにより、世界での有利な地位を獲得できていたはずだ。これこそ「国防」だ。「国防」を武力と勘違いしている愚か者が支配している今の日本政府では絶望的だ
(2021/02/24)

 コロナワクチンの接種が微々たるものではあるが始まった。ところが、既に5件の廃棄があったとのこと。東京八王子では予約者が接種に来ずに2件の廃棄があったとのこと。予約者が状況の変化で来れなくなることは当然考えられることなのだが、なぜ、「補欠候補者」のようなものを指名しておかなかったのだろう。こんなことは誰でも判ることだと思うが。八王子市は「公平性に問題が生じる。」のような言い訳をしているが、補欠候補者を指名することがどのような「公平性の問題を生じる。」というのだろう。不可解な話だ。報道によると八王子市では医療関係者のワクチン接種率(一度でもワクチンを接種した人)が16%とのことで、その状態で高齢者に接種を始めたらしい。結局、政府がワクチン輸入の失敗を糊塗したい余りに、一般人の高齢者への接種を強引に始めさせたというのが実情らしい。どこまで腐った政府なのか。
(2021/04/13)

ノーベル賞学者の提言

 山中伸弥氏、本庶佑氏ら4名のノーベル賞学者が新型コロナ対策について提言をした。

  1. 医療機関と医療従事者への支援を拡充し医療崩壊を防ぐ。
  2. PCR検査能力の大幅な拡充と無症候感染者の隔離を強化する。
  3. ワクチンや治療薬の審査及び承認は独立性と透明性を担保しつつ迅速に行う。
  4. 今後の新たな感染症発生の可能性を考え、ワクチンや治療薬などの開発原理を>生み出す生命科学およびその社会実装に不可欠な産学連携の支援を強化する。

2.について羽鳥慎一モーニングショウで、本庶氏は補助金をばらまくより、検査にお金を使うほうがコスト的にも社会的にも有効。と発言されていた。誠にもって正しい意見だと思う。感染症学者の岡田晴恵氏もずっとPCR検査の拡充を言っていた。それによって成功している台湾などの事例があるのに、なぜか政府は検査体制の拡充に後ろ向きだ。このことは、既に、昨年の3月ころからずっと言われていたことだ(もっとも、「検査を拡充すると医療が逼迫するので間違い」などという見当はずれの意見をネットに公開していた人もいたが)。また、コロナ専用病院と通常医療の病院を分ける。コロナ専用病院を作って感染者を隔離するとともに、効率的な治療体制にすることも重要だしこれも以前から言われていたことだ。それにはオリンピック村を使えば良い。森喜朗他政府も未だにオリンピック開催に固執しているが、既にオリンピックが開催できる状況にないことは明らかだ。厚生労働省の上層部には科学的・合理的判断をする能力がある人物が居ないらしい。まさか、文系の科学的思考ができない輩ばかりではないと思うのだか‥‥。
(2021/01/14)

原子力発電は日本に向かない

 そもそも、原子力発電は経済的でなく、事故が起きた時の対応が非常に難しいのに加え、
原子力発電は止めるべきだ。一部の政治家は、日本が核兵器を所有するべきと考えていて、そのためのプルトニウム保持を正当化するために原子力発電を推進しているのではないかと疑わせる言動が見られる。しかし、プルトニウムを保持していても他国の核攻撃には直ぐには対応できない。もし、他国からの核攻撃に核兵器で対抗するのであれば、現に核ミサイル等を製造・配備して置かなければ役に立たない。それは非常に危険な施策だ。
(2020/12/20)

日本原電のデータ改竄(2)

 ことし2月に日本原電が提出した原発の真下を通る断層のボーリング調査結果などをまとめた資料の中で、過去に示したデータの一部を削除し、最新の結果のみを記載していたとのこと。首長の文書改竄癖がお仲間に伝染したようだ。
 日本原電は「より信頼性の高い内容に書き直そうとした結果で、改竄の意図はない。」と主張しているが、とても信用する気になれない。むしろ、他の原発でも原発推進に都合が良いように、同様の改竄があるのではないかと疑いたくなる。
(2020/12/15)

大飯原発3,4号機運転差止め判決

 大飯原発3,4号機運転差止め訴訟の地裁判決が出た。原子力規制委員会はこれまで、起こりうる地震の強さに関して、平均値に基づいて判断して運転許可を出していたらしい。もしそうなら明かに科学的におかしい。原子力規制委員会のメンバーには科学者が多数いるはずだが、こんな非科学的な判断をしてきたのだろうか。これほどまでに曇った眼になってしまった原因は何だったのか。「規制委員会」とは名ばかりで「原子力ムラ」の住民の手先らしい。
(2020/12/05)

 原子力規制委員会は、2011震災の後に民主党政権時代に出来たものらしい。この委員会は政権から独立性の高い「3条(国家行政組織法第3条)委員会」という法律的な地位にある。当時、政権だった民主党がそれより緩い「原子力規制庁」というものを提示したところ、野党だった自民・公明党が「独立性が十分でない」と主張して3条委員会としての「原子力規制委員会」ができた。もし、自民・公明が野党でなかったら、元々、原子力を推進してきた自民・公明が3条委員会にするはずが無かったが、とにかく民主党政権の影響力を減らしたかった自民・公明が現在の形にしてしまった。ところが、今の自民・公明政権にとってはこの委員会が3条委員会であることが非常に不都合になってきている。一時の感情で墓穴を掘ったというか自縄自縛になっているというか、愉快な状況になっている
 このように、自民・公明政権にとって扱いにくい委員会ではあるが、この委員会は、基本的に「原子力発電を進めるための委員会」という性格の委員会であって、「原子力発電を廃止するための委員会」でないことは肝に銘じて注意深く監視して行く必要がある。
(2021/01/17)

再生可能エネルギー

 温室効果ガス低減のために世界中で再生可能エネルギーが注目されている。これまでの政権は温室効果ガス低減を口実に強引に原子力発電を進めてきた。そして、太陽光、風力、水力、潮力、地熱などの発展をむしろ妨害してきた。その結果、日本の再生可能エネルギー普及率は世界の主要国から大きく遅れを取ってしまった。
 特に、太陽光パネルについては、かつては世界の55%のシェアを誇っていたが、今はわずか0.7%に落ち込んでしまった。これは政府の後ろ向きの姿勢と妨害があった結果だ。太陽光パネル生産をちゃんと育てる政策を打っていれば、今頃は大きな経済効果を生んでいたはずだ。原爆を作る能力を温存したかった(恐らく)ために原子力発電を推し進めてきた政権の責任は重い。
 今の政権もその姿勢を引き継いでいて原発の稼働率が非常に落ちているにも関わらず原発維持を主張している。愚劣だ。
(2020/11/10)

 菅義偉首相が所信表明で「2050年カーボンニュートラル」目標を掲げた。カーボンを減らすのは良い方向だが、それを原発推進のために利用している、むしろ、原発推進の口実を作るためにカーボンニュートラルを打ち出したのではないかと疑われる。原発は不経済な上、汚いものだ。福島原発事故の処理もまだ五里霧中の状況を放置して、電力固定価格買取制度の効果を蔑ろにし、原発再稼働する方向でカーボンだけ減らせば良いと考えている。未だに、大手電力会社の手先だ
(2021/01/24)

池袋暴走事故

この事故の経過は
  1. 運転者は事故現場付近の左カーブに50km/hを越える速度で進入した。[Wikipedia]
  2. 運転者の妻「危ないよ。どうしたの?」
  3. 運転者「あー、どうしたんだろう」
  4. 縁石に接触
  5. 加速(これは事実と考えられるが運転者はアクセルは踏んでいないと主張)
  6. 最終的に120km/h程度


 以上の事項を総合してみると、高速でカーブに侵入した直前に運転者の反応が無さそうなところから、車の異常とは考えにくい。車の異常ならその時点でなんらかの反応があるのが自然なように思える。このことからすると、やはり運転者の過失の可能性が高い。普段、スピードメーターで自車の速度を頻繁にチェックする運転をしていたのかどうか。縁石接触後の加速については、パニックに陥ってブレーキの心算でアクセルを踏んだままになったのではないか。
 そもそもの問題として、歩くのがやっとのような脚で、とっさのブレーキを力強く踏めるのか。仮に、「アクセルが床に張り付いていた。」としても、充分な踏力でブレーキを踏めば車は減速する。フルブレーキを踏めないような状態では車の運転をするべきではないと思う。
(2020/10/14)

天才の特徴

 藤井聡太7段が木村一基王位を破って、棋聖と王位の2冠となった。この若者は天才だと思う。天才の特徴と筆者が考えるのは、これまでの常識に囚われない思考や視点を持つができることも一つだが、もう一つ重要なのが、普通の人がとんでもない苦行と感じることを、平気でむしろ楽しんでやれることもあると思う。師匠の杉本昌隆八段によると、重要な対戦の前でも、面白そうに詰将棋を解いたりしているそうだ。普通の棋士はタイトル戦などの前は頭を休めるために、詰将棋を解こうとしたりはしないそうだ。また、タイトル戦の翌日のインタビューで「自宅に帰ってやりたいことは?」と聞かれ(多分質問者は「ゆっくり休養して‥‥。」のような回答を期待)て「昨日の将棋をじっくり振り返られればと思います。」と答えて、全く飽くことが無い。苦行を楽しめる、とんでもない努力を努力と思わない、それと、「常識に囚われない」ということと関連があると思うが、最も自分に合った努力のやり方(努力の効率が高い)ができるというのは天才の特徴ではないか。
(2020/08/21)

 メジャーリーグでは大谷翔平の活躍が著しい。この青年も天才だろう。他の選手にとっては苦行のような練習その他の努力をほとんど楽しんでいるようにやってしまう。天才だ。
(2023/04/11)

ゼータ関数と素数

 リーマンのゼータ関数というのがある。オイラーの等式の所でも書いたが、数学には不思議で驚くような等式がある。ゼータ関数のオイラー表示もその一つだ。


自然数の逆数のべき乗の和と素数とがこんな形で結びつくとは‥‥見れば見るほど不思議だ。こんなことに気が付くオイラーも、もう、天才というより不思議の域にある。
(2020/08/01)

交通事故における信頼の原則

 「信頼の原則」というのがある。これは「自分の行動は、他人が法律を守って行動することを前提にして法律の範囲内で行動すれば良い。」ということである。この原則は特に交通事故において問題になる。交通事故が起きたときに、自動車同士だと過失割合が問題になるが、そのとき、保険業界の慣習では、一方だけが道路交通法違反をしていても、両方の車が動いていたら保険の過失割合は10:0にはならない。しかし、道路交通法上は信頼の原則により、一方が道路交通法違反をしておらず、他方が違反をしている場合にには、違反していない側は相手が違反をする可能性まで考慮して運転する義務は無く10:0になる可能性があるただし、以下の場合には10:0にならない。


 実は筆者も歩行者信号のある広い道路(片側2車線)と信号の無い狭い側道(停止線あり)の交差点で当方が広い道路で信号が青の(当然歩行者は赤)ところを進行していて、細い道路から出てきた車に当方の車の左後部に衝突された経験がある。このとき非常に偶然にも当方の車の右直後を事故処理車が走ってきており、更に交番の前でもあったという状況だった。事故後、間髪を入れずに事故処理担当官が走ってきたのには驚いたが、事故の状況を見ていたらしく、こちらには何のお咎めも無く、ゴールド免許を維持できた。相手側の車は、停止線で一旦停止していたが、筆者の前のワンボックスカーが側道に左折したので、そちらだけに気を取られて右方向を確認せずに進行したらしい。当方も相手の車が停止線で停止しており、前車が左折したので減速して安心して通過していたのだが、相手の車が当方の車の前部横に来たときに突然動き出したので驚いてハンドルを右に切ったのだが間に合わず左後部に当てられた。その状況は当方のドライブレコーダにも記録されていた。この場合、相手の車が停止していたので、それが突然動き出すことを予測する義務は当方には無かった(信頼の原則)。
 道路交通法的にはこちらに何もお咎めが無かったが、保険屋の慣習ではこちらも動いていたということで保険的な過失割合は1:9になった。保険屋に言わせると、押釦式歩行者信号のみの道路は歩行者信号の自動車側が青の場合、自動車に関しては無信号交差点と同じ扱いになり、広い道路側も側道から来る車に注意する義務があるとのことだったが停止している車に対して何を注意するのか、当方としては納得できなかったが、裁判を起こす気力もなくそれを受け入れたのだが。
 そもそも、押釦式歩行者信号のある交差点については、優先道路側は歩行者信号が赤の時は「消灯」にするのが合理的だ。
(2020/07/24)

UV−Cの威力

 UV−C紫外線は強力な殺菌作用があるが、それ以外にも色々な物質に対して作用を及ぼす。人間の眼や皮膚には非常に有害だ。その他、プラスチックなども照射によって劣化する。先日、自作のUV−C殺菌ボックスに、配達された新聞を入れて取り出すのを忘れて1時間余り置いておいたら、新聞紙が薄黄色に変色してしまった。10W2灯の紫外線ランプのUV−Cを至近距離(10cm以下)から照射されたらこうなる。恐ろしい威力だ。
(2020/07/16)

一倍とは

 NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組で、「『人一倍』はなぜ『人二倍』ではないの?」ということが話題になっていた。江戸時代は「一倍」は×2を表していたらしい。
 子どもの頃、多分小学校低学年の頃、「『倍』が×2なら『1倍』は×2のことじゃないのか。」と言い張って姉から「屁理屈言うんじゃない。」と怒られたことがあるが、筆者の主張もあながち単なる屁理屈ではなかったようだ。ただし、江戸時代は「一倍」は×2、「二倍」は×3、「三倍」は×4のことだったらしい。
 因みにネットで「倍」を調べてみると、
ばい
[倍]
多くする。加える。それに同数・同量を足し加える。また、同じ数を何回か加える。

とあり、「倍」が「×」の意味ではなく、「+」の意味であることが書かれている。なので、「一倍」は「同じものをもう一つ付け加える」ので「×2」となる。つまり「『倍』を『×2』と考えることは誤り」だったということになる。ただし、現代の日本語の用法では「倍」は「×」の意味で使用されることが慣用になっているので「2倍」を「×2」の意味で使用するのが普通である。従って「1倍」は「×1」と解釈される。
(2020/06/06)

アビガンについて

 アビガンが新型コロナウイルスに効きそうだということで試験が行われているが、なかなか承認されない。これは、信頼のおける試験方法である「二重盲検法(DBT:Dowble Blind Test)」による試験が進まないことによるらしい。その原因は、現在のような感染状況とPCR検査の実施状況では、検体が不足して有意な結果を得られるようなDBTの実施が困難なことによると考えられる。現在のところ、「効く」という結論が得られなかったが、同時に、「効かない」という結論も得られていないのではないか。
 DBTは確かに信頼性のある試験方法ではあるが、状況によってはそれに固執することが合理的かどうか考えるべきだ。海外では治療薬として承認されているところもある。
 可成り症状が出ている患者がアビガンを投与した後どの様な時間経過で症状が緩和されたかの症例と、投与しなかった場合の症例を集めて、時間経過を比較すれば、可成りの程度効果を推測できると思われるのだが、現在はそういった観点からの評価はされていないようだ。このような比較でも効果が確認された場合には「仮承認」のような形で使用できるようにするべきではないか。
 偶々、NHKのBS放送で脚気の予防法で、疫学的観点から麦飯を採用して脚気患者が激減した海軍の提言を、当時陸軍の軍医監だった森鴎外らが細菌感染症という考えに固執して病原を科学的に特定することができず、ガンとして海軍の提言を採用しなかった。そして、白米の支給を続けた結果、陸軍では大量の脚気による死者が発生し、それが森鴎外が死ぬまで続いてしまったという話が放映されていた。(フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿「ビタミン×戦争×森鴎外」)

厚生労働省としてはイレッサやサリドマイドの失敗のトラウマがあるのかもしれないが、脚気の轍を踏まないことを期待したい
 因みにロシアはアビガンのジェネリック(アビファビル)を暫定承認したのことだ。
(2020/06/03)

 アビガンは2021年1月現在、まだ承認されていない。アビガンについて富士製薬が試験結果を厚労省に提出したが、DBTでないという理由で却下された。富士製薬の試験が単盲検法(SBT:Single Blind Test)だったのが却下の理由らしい。確かに、DBTは現在のところ最も信頼性の高い試験方法だが、海外で承認され、ある程度の効果を上げている事実があっても特例承認しないというのは合理性を欠くと思う。一方、ワクチンの方は海外の承認に基づき承認するらしいので、一貫性も欠く。
 現在、東京都では感染が判明しているのに入院ができずに自宅待機を強いられている人が1万人に届きそうな状況にある。この人達は実質的に「見殺し」に近い、「座して死を待つ」ような状況だ。アビガンが承認されれば、このような、入院待ちで自宅待機をしている感染者にも投与可能になり、治療されずに死んで行く者を減らす可能性が高い
 厚労省が合理的な判断をしない理由として、なんだか政治的なキナ臭い匂いがする。新型コロナに関しては、どうも政治の非合理的な動きが目立つ政治が合理的判断をしないことが原因で死者が増えているとしたら、これはもう殺人だ
(2020/01/21)

総務省のページ

 総務省の「特別給付金」の「よくある質問」のページ(https://kyufukin.soumu.go.jp/ja-JP/faq/)に以下の記述がある。


申請方法に関するよくある質問

Q 申請書以外に準備すべき書類はありますか。

A それぞれの申請方式により以下の書類が必要となります。

 【郵送申請方式】
  1. 本人確認書類
    マイナンバーカード、運転免許証、健康保険証等の写し
  2. 振込先口座の確認書類
    金融機関名、口座番号、口座名義人が分かる通帳やキャッシュカード、インターネットバンキングの画面の写し(水道料引落等に使用している受給権者名義の口座である場合には不要)
 【オンライン申請方式】
  ‥‥‥‥‥

「本人確認書類」や「振込先口座の確認書類」の項の書き方は曖昧だ。上記の書き方だと挙げてある書類の全てなのかどれか一つなのかはっきりしない。「以下の書類が必要となります」と上に書いてあるので、むしろ、「全て」と解釈する可能性が高いもちろん、他の情報を総合すれば「どれか一つ」で良いことは想像できるがQAの回答文としては0点だ。この種の文はできるだけその文だけで意味が通じるように論理的に明確に書かなければダメだ。総務省にはこんな書き方しかできない出来の悪い人材しかいないのか。

 ここは、面倒でも例えば「マイナンバーカードまたは運転免許証または健康保険証等の写し」のような書き方にするべきだろう。
(2020/05/11)

感染症数理モデル

 感染症の数理モデルについて「感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題」という論文がある。その中で例示されている予測式(ケルマックマッケンドリック型モデル)

 S(t):感染可能者割合,I(t):感染者割合,R(t):免疫保持者割合とし、βを感染者が未感染者に感染させる割合、γを感染者の回復割合として
  dS(t)/dt=−βS(t)I(t)     ‥‥(1)
  dI(t)/dt=βS(t)I(t)−γR(t) ‥‥(2)
  dR(t)/dt=γI(t)         ‥‥(3)

で、自然に放置した場合に、免疫保持率がどう変わるかについての予測式が、この論文の(2.1)第3式
  dR(t)/dt=γI(t) ‥‥(3)
である。ただし、t時点での免疫保持者割合をR(t)とし、感染者割合をI(t)とする。これは、以下のようにして導かれる。

t時点での免疫保持者割合をR(t)とすると、Δt後の免疫保持者割合R(t+Δt)は、δを死亡率として、Δt後、感染者割合I(t)の内生き残った量(1−δ)I(t)Δtが免疫保持者割合の増分なので、

  R(t+Δt)=R(t)+(1−δ)I(t)Δ
すなわち、
  R(t+Δt)−R(t)=(1−δ)I(t)Δ
両辺をΔtで割って、
  (R(t+Δt)−R(t))/Δt=(1−δ)I(t)
ここで、
 Δt→0で
  (R(t+Δt)−R(t))/Δt→dR(t)/dt
なので、
  dR(t)/dt=(1−δ)I(t)
となり、γ=(1−δ)と置けば、
  dR(t)/dt=γI(t) ‥‥(3)

 R(t)はロジスティック曲線に似た曲線になる。

(2.1)第1式については
現在の感染可能者割合をS(t)とするとΔt後の感染可能者割合S(t+Δt)は、Δt時間の感染可能者割合増加は現在の感染可能者割合S(t)と現在の感染者割合I(t)に比例すると考えられるので、比例係数をβ(感染力を表す)として感染可能者割合の増分は(感染すると「感染可能者」でなくなるので)
  −βS(t)I(t)Δ
つまり
  S(t+Δt)=S(t)−βS(t)I(t)Δ
よって
  S(t+Δt)−S(t)=−βS(t)I(t)Δ
すなわち
  (S(t+Δt)−S(t))/Δt=−βS(t)I(t)
Δt→0で
  dS(t)/dt=−βS(t)I(t) ‥‥(1)

 S(t)はR(t)をひっくり返した形になる。

(2.1)第2式については
Δtでの感染者割合の増分は、Δtで新に感染する量βS(t)I(t)Δtから回復して免疫保持者になる量γR(t)Δtを差し引いた量なので、
  I(t+Δt)=I(t)+(βS(t)I(t)−γR(t))Δ
  I(t+Δt)−I(t)=(βS(t)I(t)−γR(t))Δ
  (I(t+Δt)−I(t))/Δt=βS(t)I(t)−γR(t)
Δt→0で
  dI(t)/dt=βS(t)I(t)−γR(t) ‥‥(2)

I(t)は一旦増加してピークに達した後減少する。ピークがどんな値になるかは、βによる。
(2020/05/02)

増幅

 PCRの説明で「増幅(amplification)」という用語が出てくる。工学特に電気・電子工学ではこの用語は交流信号の振幅などをトランジスタやオペアンプ(ここで既に「アンプ(amp)」という用語が出ているが)などで大きくすることなどを言う。しかし、PCRでは同じ用語を「コピーして」数を増やすことに使う。微妙に意味が異なるので違和感がある。
(2020/04/17)

半クラッチの不思議

 自動車のMT(マニュアルトランスミッション)における半クラッチとはどういう状態なのか。
 MT車に乗っていたとき、半クラッチでアクセルを踏むと加速度が増加していたように思う。しかし、動摩擦係数は、高校程度の物理では摩擦速度に関係無いということになっている。より厳密なことを言えば、摩擦速度が上がると摩擦係数が下がるらしい。
 速度が低い場合、岩同士の摩擦の場合、V*を規準になる速度、μ*を速度V*における摩擦係数として、速度Vでの摩擦係数μ(V)は

 μ(V)=μ*+αlog(V/V*)

となるらしい。ただし、α<0

これだと、アクセルを踏むとクラッチ板の速度差が増加して、摩擦が減るので加速度は下がりそうに見える。

MTのときに自然に加速できていたのは、加速時には無意識にアクセル開度に合わせてクラッチ圧を上げていたのかも知れない。

静止摩擦と動摩擦の関係も複雑で静止摩擦から動摩擦に移り変わる瞬間はなかなか複雑な現象が起きているらしい。
(2020/04/09)

オーバーシュート

 19日の新型コロナウイルス専門家会議の提言の中で「爆発的な感染拡大」のことを「オーバーシュート」と言っていたが、正しい使い方なのだろうか。少なくとも工学畑だとオーバーシュートはある定常値があって、低い値からそれに達する直前に一時的にその定常値を行きすぎる現象オーバーシュートと呼んでいる。「オーバー」にはその意味が含まれていると思うのだが。急激に増加するだけではオーバーシュートとは言わない。

 オペアンプなどの場合に出力電圧の立上がり(増加)速度のことを「スルーレート(slew rate)」と呼ぶ。
(2020/03/20)

オカルティックだけどアルミテープチューン

 筆者は車そのものに工学的な興味はかなりあるが、チューニングなどには殆ど興味が無かった。ところが、さるサイトで「アルミテープチューン」なるものを知った。折しも、前のMobilioが200000km近くになって、不具合も幾つか出てきたので、別の中古のMobilioに変えたところ、前のより1km/Lくらい燃費が悪くなっていてどうにかしたいと考えていたので、半信半疑でやってみた。
 アルミテープチューンというのは、車のプラスチック(不導体)部分にアルミテープを貼ることにより、プラスチックと空気の摩擦で生じる静電気を放電して、境界層の剥がれを防いで乱流を減少させ、気流をスムーズにすることにより、燃費向上などが図れる、というものだ。
 やってみると、晴天時16km/L台だったが、アルミテープチューン後は17km/L台になった。他の色々なサイトも見てみると燃費向上の報告は多い。どうも、効果があるのは本当のようだ。
(2020/03/03)

逆転写PCR法

 テレビでコロナウイルスの感染の検査で使われる逆転写(RT: Reverse Transcription)PCR(PCR:Polymerase Chain Reaction)法についてコメンテーターに専門家が説明していたが、どうも要領を得ない。「逆転写」とは何か、「なぜ逆転写をするのか」などの説明が出来ていないので、コメンテーターは納得した表情をしていなかった。筆者の理解は以下である。


以上のような要点を説明しなければ、理解してもらえないのではないか。
(2020/02/05)

ディジタルアンプ

 現在、我が家には6台のディジタルアンプ(D級PWMアンプ)が動いている。3台はLP−2020A+、1台はLP−2024A+、もう1台はYAMAHAのYDA−138を使ったキットを組立てたもの。更に1台はYDA−138を用いた完成基板で製作したもの。効率が良くて、音が良い(一部のマニアはあまり良く言わないが、ブラインドテストで良さは証明されている)ので、我が家で増殖を続け、置き換えられたアナログアンプが5台も転がっている。特に、LP−2020A+の音は低域から高域まで、「エ!これが3000円のアンプか?」と驚くほどクリアで力強い。
 少し、問題があるとすれば、中華製品の信頼性の低さと、電源が12Vなので、パワーが10W×2チャンネルしか出ないことだが、我が家のメインスピーカーは比較的高能率(93db/w(m))なので、16畳の洋間でとりあえず十分な音量で再生できている。
 信頼性に関しては、やはり、残念ながら低い。4台のLepaiアンプの内LP−2020A+1台と1台あるLP−2024A+が不具合を生じている(使用中に「ブツッ、ブツッ」と言い出した)。とりあえず、ケミコンの劣化の可能性を考えて、交換用のケミコンを購入したがこれで治るかは判らない。
 寝室で使っているのはTDA7297というMOS−FETのアナログICアンプ基板を使ったアンプである。これには、10cm口径のユニット(88db/W(m))で作ったバックロードホーンスピーカーをつないでいるので、10cmとしては比較的能率が高く、寝室には十分というより過大な音量が出せる。昔はアンプに大金を掛けたものだが、良い音が本当に廉く手に入る時代になった。
(2020/01/28)

 ブツブツノイズが出だしたディジタルアンプだが、電源のケミコンを交換したら正常動作するようになった。
(2020/03/30)

算数の問題と答え

 小学校の算数の問題で小学生の答えが話題になっている。
問題文は
ゆきこさんの 家から えきまで 30分 かかります。
8時50分に えきに つくには、 家を 何時何分に
出ると よいでしょう? りゆうも かんかえましょう。


である。小学生の答えは

家を[8時15分]に 出ると よい。 8時20だとぎりぎりであせるとあぶないから。
 算数としては×とするのもやむを得ないかもしれないが、上記のような問い方なら正解としても良い答えだ。先生も「この答えは普通の算数の答えとしては×になるけれどもこの問い方の答えとしては正しい。」ということを他の生徒の前ではっきり評価して説明するべきであろう。ただ、「なぜ正しいか」をちゃんと説明できる先生がどれくらいいるか‥‥。

 上記の問題文の問題点。

  1. 問い方が「何時何分にでるとよいでしょう?」となっている。
    これは「良い/悪い」という価値評価を算数の中に持ちこんでしまっている。そのため、件の小学生は「良い/悪い」の評価を含んだ上記のような答えにしてしまったのであろう。このように、価値評価を含んだ問いにしてしまったため、上記のような生徒の答えも正解になってしまう算数や科学に価値評価を持ち込むのは根本的に間違っているのだ。これは「何時に出ればぴったり8時50分につくでしょう。」のような問い方にするべきだ。上記の問題文の問い方だと、「5分くらい遅れても大丈夫と思うから8時25分でよい。」という答えが出てくる可能性さえある
  2. 更に、「りゆうも かんがえましょう。」は多いに余計だ。問題としては単に引き算の問題なので「理由」も何も無い。にも関わらず上記のような問いかけをされると、「良い/悪い」という価値評価を含む問いなので大人でも上記の小学生のような価値評価を含んだ理由を付けた答えをする可能性がある

 こう言った、出題意図が歪んで伝わってしまう問題文が作られることを防ぐためにも「国語教育の改革」が必要だろう。
(2019/11/06)

国語教育

 高校の国語が論理国語と文学国語になるらしい。このやり方が妥当かどうかは別として、筆者は、これまでの「国語」が文学作品の鑑賞に偏っていたことには不満を持っていた。
 小学校のころから国語に関して(というより言語に関して)「いぬ」はどうして「いぬ」なんだろう。「意味」って何だろう。「(日本語の)単語の意味を(日本語で)書けたら本当に意味が解っていることになるのか?」。「文法とは?」など、言語そのものに関する興味があったが、国語の授業では文学小説の感想などばかりが重視されて面白くなかった。その意味で「国語教育の改革」は必要と感じている。
 高校の国語なら言語学や意味論、論理学などの分野の話題ももっと取り上げるべきだし、その方が遥かに好奇心を刺激するし、将来的にも役に立ちそうに思える。文学小説などから何を受け取るかは文学理論の「受容理論」でも指摘されているように、読者の自由に委ねられるものなので、学校の授業になじみ難いのではないか。それに対し、上記のような言語学的観点は普遍性のある議論が可能であり授業にも適している。
(2019/10/18)

 askomaという国語教員の方のサイトで

 「僕たちは論理だけでは説得されない」ということだ。実際、人を説得する文脈でよく用いられるのは、論理の組み立てというよりも、印象的なレトリックや物語(エピソード)の力なのだ。

と書かれていた。
 これは事実であろう‥‥が、むしろレトリックなどに惑わされずに、その文章が述べている論理を正確に読み取る能力を養うことが重要なのではないか。ネットで比喩(レトリックの一つ)ばかりを持ち出して議論する人と論争したことがあるが、比喩は論証とは似て非なるものであり、比喩で説得されるととんでもない結論に誘導される可能性があり、とても危険なことなのだ。人の説得にレトリックや物語(エピソード)を使用するのは後のトラブルを考えるとかなり慎重でなければならない。レトリックや物語(エピソード)による納得は本当に主張の正しさを理解した上での納得ではないことに注意しなければならない。
 同ページに「論理的文章は『論理的』ではない?」という見出しで、同ページの筆者が考えるらしい「論理的文章」が論理的でないと書いてあるが、その記事での「論理的文章」がレトリックや物語(エピソード)で出来ているとしたら、その様な文章を「論理的」と考えることが、学会の論文の査読や若い人の論文のチェックをしてきた筆者には驚きである。
 「説得力のある文章」よりも「論理的に筋の通った文章」を書ける教育が重要なのではないか。政治家?や詐欺師には説得力のある文章作成能力が必要かもしれないが、正確なコミュニケーションには論理的にきちんとした文章を書ける能力の方が重要であろう。

 国語教育が「論理の組み立てというよりも、印象的なレトリックや物語(エピソード)」の文章作成能力の育成に偏ったものであるとしたら、正確なコミュニケーション能力の学習を阻害することにならないか。
 「論理国語」が筆者の期待する効果を発揮するかは判らないが、現状の国語教育が上記のような内容だとしたら改革は必要であろう。
(2019/10/19)

引き算のやり方

 普通、小学校で例えば(33−7)をするやり方として「1の位では引き算ができないので、10の位から10借りて来て、(10−7)=3,3+23=26」のような計算をするように指導される。
 筆者は小学校時代から「借りて来て‥‥」というのがなんだか気持ち悪くて、「3から7を引くと4引き足らないので30から4引いて26」のような考え方で計算して来た。「4引き足らない」というのは(−4)という負の数を実質的に使ってきたことになる。もし、子供がそんな計算の考え方を披露したら小学校の先生はどう評価するのだろう。
 ネットで見ると(33−7)のような計算は「10の位から10借りてきて(10+3)=13にして(13−7)=6。そして6+20=26」というような説明をしている。しかし、このやり方だと「1の位で引き算ができない」という状況は回避できていないので、合理的な説明とは思えない。この場合は「(10〜19まで引く一桁)の九九」のようなものを覚えておく必要があるように思える。
(2019/10/08)

 繰り下がりのある引き算についてネットで調べてみたら、筆者のやり方はほぼ「減減法」というやり方らしいことが判明した。33−7=30+(3−7)=30−(7−3)と式変形して計算しているのと同等であり2回引き算をする形になるのでこの名称が付いたらしい。「減減法」でやっている人は全体の1割くらいらしい。ただし、減減法では上記の計算で「(7−3)をしてその結果の4を30から引く」となるが、筆者の場合(7−3)をやっている感覚は無く、あくまで「(3−7)で4引き足りない」と考えていた。実質的に同じことなのだろうが、感覚的には違う感じがする。標準的な減減法においては(3−7)をするのに引く数7と引かれる数3をひっくり返して(7−3)をするので、これを「筆算で躓く誤りのパタン」として減減法の欠点としているものがある。確かに(3−7)を(7−3)にしてしまうと混乱を招く可能性があるかもしれない。しかし、筆者は(7−3)ははやっておらず、感覚的には(3−7=−4)をやっていた。なので、「減減法は筆算で躓く」というのは「4引き足りないから」という考え方には当てはまらないのではないか。実際、筆者は筆算で困ったことはない。(3−7)を(7−3)にするような教え方をするから拙いのではないか。「4引き足りないから」という考え方を子供がしていたらそれはそのまま生かしてやる方が良いと思う。また、上記のような理由から「4引き足りないから」という考え方は標準的な減減法とは根本的に異なる考え方なのではないかと考える。
(2019/11/16)

押釦式歩行者信号と優先道路

 優先道路とそうでない道路の交差点において、優先道路に設置した押しボタン式歩行者信号は、優先道路側は通常青信号になっていて歩行者が押しボタンを押した時のみ「黄信号→赤信号」となる。

 このような信号は、自動車にとっては法律的には信号の無い交差点と同等のものとして扱われるが、これは以下の理由から合理性を欠くと考える。

  1. 青信号で走行中の優先道路側が、非優先側に車両を見た場合、減速などの、無信号交差点と同等の運転行動を採ることは優先側の円滑な交通を妨げる危険性がある。
  2. 青信号が点灯している道路を走行中の自動車にとって「信号無し交差点」(と同等な交差点)であるか、単なる横断歩道用の信号であるかを徐行せずに識別することは実用上難しい。
  3. 通常、特に夜間は地上の視認性低下により、運転者は青信号を視野の端に認識しながら地上の周囲の交通状況に主要な注意を向けるので、目前の信号が「押しボタン信号」であることを認識しようとして信号を注視すると、他の車両等に対する注意がおろそかになり返って交通事故を誘発する危険性がある。
  4. そもそも、「無信号交差点と同じ扱い」とするなら、歩行者が押釦を押していないときは「信号消灯=無信号」とするのが論理的に一貫性がある。歩行者が押釦を押していないときに青信号にするのでは論理的に一貫性が無い。

 上記のことを考慮すると、優先道路と非優先道路の交差点において無信号交差点と同等の注意義務を優先道路側に要求するのであれば、「押しボタン信号」の優先道路側の点灯制御は「通常消灯⇔赤点灯」にするか、「通常黄点滅⇔赤点灯」にするべきではないか。
(2019/08/26)

3D映像の問題点

 最近、3D映像が普及してきた。テレビ、映画などやVRなどで、3D映像が与えるインパクトは絶大だ。しかし、現在一般に普及している3D映像には問題がある。
 現在普及している3D映像は、人間の両眼視の「視差距離」を再現する方式だが、人間が距離感を得るには他に「焦点距離」、「輻輳距離」がある。
 「視差距離」は二つの眼から1点を見た時に対象の見える面の差異に基づく距離知覚であり、「焦点距離」は眼のレンズ(水晶体)の厚みを変えて網膜に焦点を結ばせる眼の筋肉の感覚に基づく距離知覚である。「輻輳距離」は二つの眼が対照の1点を見るときにできる2つの視線の角度を、眼球を動かす筋肉の感覚として知覚する距離知覚である。
 現在の3D映像が視差距離しか再現できていないということは、焦点距離と輻輳距離は固定されたまま視差距離だけが変化するということになり、焦点距離・輻輳距離との矛盾が生じる。現実世界では人間の視覚は3種の距離感覚を総合してそれらの感覚に矛盾を生じない形で距離知覚を行っているので、総合が巧く行かないのである。そのため、3D映像を見ると眩暈のような症状が出たり、眼の疲労を生じたりする。
(2019/06/27)

色空間と一般相対性理論

 色空間には「RGB」、「HSV」、「L***」その他幾つかあるが、人間の感覚に近いのは「L***」と言われている。「人間の感覚に近い」とは「人間が感じる色の差がその空間における距離と大体一致する」という意味である。その意味では例えばRGB空間は人間から見ると「歪んだ空間」ということになる。RGB空間において人間の感覚と同じような距離を考えるには歪んだ空間の幾何学である「リーマン幾何学」が必要になる。
 非常に直観的な表現をすれば、リーマン幾何学とは空間の各点に空間の密度のような値(これを「リーマン計量」と言う)が与えられていて、これに基づいて距離を計算するということになる。密度の高いところでは速度が低下し実質的な距離が長くなる。
 実は、リーマン幾何学はアインシュタインの一般相対性理論を記述するのに使われる数学である。一般相対性理論では空間は質量の存在によって歪む。これを記述するためにリーマン幾何学が必要になった。
 色空間のことを調べていて色空間の変換を考えるときにリーマン幾何学が出てきて、匂いを嗅ぐ程度にリーマン幾何学(とっても難しい)を勉強したら、一般相対性理論の言っていることが何となく(非常に浅くだが)解った。RGB空間におけるリーマン計量は実験的に「マカダムの楕円」という形で有限の点について得られているので、これを適当な方法で補間して空間の任意の点に与えることにより、RGB空間での測地線が決定されその長さ、つまり、知覚的色距離を定義することができる。
(2019/06/26)

「執行猶予」という用語

 法律用語で「執行猶予」という言葉がある。これは奇妙だ。「猶予」という用語を辞書で索いて見ると、
--------
実行の日時を延ばすこと。(goo辞書)
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となっていて、「実行をやめる」とはどこにも書いていない。ところが、「執行猶予」は猶予期間が過ぎると執行が消失することを言う。こんな誤用がまかり通るのが法律なのが不思議である。
(2019/06/25)

オイラーの等式

 数学には不思議なそして驚くべき事実が潜んでいる。表記の「オイラーの等式(Euler's identity)」などはその代表例であろう。この式は数学に興味がある人ならまず知らない人はいない式ではあるが、見れば見るほど不思議の念にかられる。
 数の体系は自然数(1,2,3,‥‥)から始まり、整数(‥‥,−2,−1,0,1,2,‥‥)、有理数(整数の分数で表される数)、実数(有理数と無理数(有理数に根号が掛かった数および超越数)を含めた数)そして複素数(実数と虚数単位×実数の和の形の数)のように拡張されてきた。
 無理数は有理係数の代数方程式の解として出てくる「代数的数」と「超越数」に分かれる。代数的数は√(2)=1.41421‥‥などで、いくらでも思いつくことができるが、超越数は我々がよく目にするπ=3.14159‥‥以外では、e=2.71828‥‥くらいしか思いつかない。この2つの数は、片や円周率という名で良く知られているし、もう一つは自然対数の底として数学や自然科学、工学で非常に重要な数である。そして、虚数単位iは√(−1)であらゆる虚数の元になる数である。この3つの数は不思議なことに次のような驚くほど単純な関係が成り立つ。
  eiπ=−1
これが、オイラーの等式である。e、π、iはそれぞれ別の数学分野から出てきた数であり、かつ、eもπも超越数である。超越数の超越純虚数乗が整数−1になる!?これらの数がこんな形で結び付くことは不思議かつ驚きである。このようなことになるのは、人間の物事の認識・理解のやり方が深く関わっているように思える。
 この等式はオイラーの公式
  eiθcos(θ)+isin(θ)
において、θ=πとすると
  eiπcos(π)+isin(π)=−1+0=−1
として求められる。
(2018/11/29)

単語の意味

 小学生のころ、国語の時間は好きでなかった。国語のテストでは漢字テスト(これが一番嫌だった)と共に単語の意味を書かせる問題も良くあったが、当時の筆者は、「単語の意味として辞書に書かれていることが書けても意味が解ったことにはならない。単語の意味が解るとは、その単語を適切な場面で適切に使えることだ。」と考えて、出題に反発を感じていた。
 また、先生がやたらと文学小説をありがたがって、感想などを要求するのが面白くなかった。筆者はむしろ、「いぬ」ってどうして「いぬ」という名詞になったんだろう、といった語源や単語の意味の意味などに興味があったので、それを扱ってくれない授業はつまらなかった。この疑問に初めて触れてくれたのは、大学に入って英語の講義の一つで「The tyranny of words」という意味論に関するテキストを扱ったものだった。正に、子供の時からの自分の疑問に関わる内容だったので、面白くて夏休みの間にテキストを全て訳した。おかげで、その講義の成績は優であった。
(2018/11/28)

小学生の哲学?

 人は自分がこの世から消えてなくなりたいと思ったとき、どのように考えて、それから逃れるのだろう。
 筆者は、小学生低学年のころ色々なことで自信が無く、孤独であった。学校や家庭などで逃げ出したいことが結構あったが、次のような内容の考えをして諦めていた。
自分が居なくなったとしても、必ず、自分と同じ顔をした子供がどこかに現れて、その子が今の自分と同じ境遇になっていて、自分と同じように考える、それは実は自分なのだ。
これも幼い考えではあるが、一種の哲学?かもしれない。
(2018/11/28)

個人の存在意義

 世の中では「人は誰でも天から与えられた存在意義を持つ」というようなことが言われる。障害を持った人達に対してこのようなことを言うことが多いように感じられる。これは「障碍者は社会の邪魔者」というような考えに対する反論として出てくるようだ。しかしこれはおかしいと思う。まず「意義」という概念は価値評価に関する概念なので、価値評価主体が居なければ存在しないし、その評価主体によって価値は変わるので「意義」も変ってしまい、上記のような場合に想定している「生まれながら」の「意義」は存在しない。個人の存在意義は個人の行動により自分に付与する、あるいは付与されるものである。つまり、「『個人の存在意義』は、生まれた後にその個人が造り出すもの」なのだ。「個人が作り出す」ものなので、どのような人も自分にとってあるいは他人にとっての何等かの「価値」を造り出すことができるという意味で、障害者であろうと健常者であろうと「存在意義」を持ち得るということになる。
 民主主義では個々人の価値評価を認め、それに基づく意義を互いに尊重(人に直接的害を与えない限り)しよう、という姿勢なので、どのような人にも「存在意義」が認められることになる。そうでない社会は民主主義社会ではない。
(2018/11/02)

目の構造

 「進化」という用語は奇妙なものだ。「進化」というと何か良い方向に変化したような語感だが、必ずしもそうではない。例えば、人間の眼とタコの眼を比べてみると、タコの眼の方が合理的に思える。
 人間の眼の網膜は不思議なことに、視細胞の前に神経線維がある。そのため、神経線維を脳につなげるために、網膜の一部に穴を開けて眼球の後ろに引き出す構造になっている。その引き出した穴の部分は視野の欠損となる。これが「盲点」である。ところが、タコの眼球は神経線維が視細胞の後ろにあるので、網膜に穴を開けずに脳につなぐことができている。
 視細胞の前に神経線維があるのは視細胞の受光のじゃまにならないのであろうか。少なくとも、じゃまにならないような神経線維になる必要があったはずで、なぜ、そのような面倒な形に進化したのか不思議である。
 どうして人間の眼は上記のような構造で固まってしまったのだろう。盲点があることが、あまり生存に不利にならなかったのだろうが、進化といっても結構そんな不合理に見える特性を残している場合がある。
(2018/10/11)

鳥肌が立つ

 最近、「鳥肌もの」とか「感動して鳥肌が立った。」といった言い回しがよく使われる。つまり、「鳥肌が立つ」を良い意味で使っている。ところが、これを「『鳥肌が立つ』は、悪い意味で使うものなので誤用だ。」と主張する人がいる。確かに辞書を牽くと
鳥肌が立つ(Weblio辞書)
強い寒さや悪寒、あるいはそれに似た感情を覚えることにより、腕などの肌の毛穴が収縮した様子を指す表現。さながら羽を毟った鳥のようになる。
などとある。しかし、これはおかしい。感動で鳥肌が立つことは事実としてあるので、誤用もなにも単に事実を述べているだけである。表現の問題ではない。むしろ、「鳥肌が立つ」の意味として上記のような意味しか載せていない辞書の方が間違っているのであって、それを基に「誤用」などと言うのは無知でしかない。辞書の記述はその単語あるいは言葉の最大公約数的な意味を(辞書編纂者が)要約して書いてあるに過ぎないし、それまでの代表的な慣習をとりあげて書いたものにすぎない。例えば、「風邪」は昔、「悪霊が取り付いて起きる病」と考えていたが、今はそのような意味と考える人はいない。無知がもたらした誤った認識に基づく「意味」は改めるべきものであってそれに固執するのは愚かである。
 筆者は、毎年「第九」をプロオケとやっているが、第3楽章の変奏が始まるところや、第4楽章の「歓喜」のテーマが弦楽合奏になるところで毎回余りの美しさに鳥肌が立つ。
 これは以前に触れた「収納スペース」や「収納庫」の意味で「収納」という用語を用いるのとは別の問題(*)だ。辞書編纂者の無知がもたらした弊害だ。
 このことに関しては最近は
ディジタル大辞泉(小学館)
寒さや恐怖などによって、皮膚に鳥肌があらわれる。鳥肌立?(だ)?つ。「怪談に―・つ」
[補説]近年、「名演奏に―・つ」のように、深い感動の表現としても用いられることがある。
のように記述があるものもあるが、これも少しおかしい。「感動表現としても用いられる」のではなく、単に事実を記述しているのであり、「表現云々」という問題ではない事実を述べることを妨げるような規範や慣習は改めるべきである
 オックスフォード大学で
感情が湧き上がった結果、肉体的変化(鳥肌)があった被験者は、「聴覚野と感情を処理する領域をつなぐ神経線維の密度が、普通より高い」ことが判明した。
という研究結果が掲載された。
https://academic.oup.com/scan/article/11/6/884/2223400
この論文を見て解ったのだが、世の中のかなりの人が、感動で鳥肌が立たない脳の構造をしているということである。とすると、そのタイプの脳の人にとっては「感動で鳥肌が立った。」は比喩的表現でしかなく、「『鳥肌が立つ』という表現の使い方の間違い」といった話になるのも頷ける。一方、感動で鳥肌が立つタイプの脳の人にとっては「感動で鳥肌が立った。」は事実をそのまま記述しただけで、表現の問題とは関係の無い話なので、なぜ「誤用」などと言われるのか理解できない。
 筆者も、ある程度以上の感動があると誰でも鳥肌が立つものと思っていたので、誤用だという人が理解できなかったが、脳の構造が原因で誤用と感じる人が一定数以上いる以上「感動で鳥肌が立った。」と書くのは少し慎重になった方が良いのかも知れない。

(*)「収納庫」「収納スペース」と「収納」の問題は「物」を表す名詞と「事」を表す名詞の混乱の問題であり、「鳥肌」は名詞そのものの意味記述の不備の問題
(2018/09/22)

収納?

 最近、住宅の設備の説明で「収納」という言葉を頻繁に聞く。筆者にはこれが気持ち悪くてしかたがない。住宅設備の説明等で使われる「収納」はほとんど「収納庫」あるいは「収納(戸)棚」、「収納スペース」のことである。しかし、「収納」は本来、
  1. 中に入れて、しまっておくこと。「たんすに衣類を収納する」「収納家具」
  2. 現金や品物などを受け取っておさめること。国または地方公共団体の会計では、現金を受領することをいう。「国庫に収納する」
  3. 農作物などを取り入れること。
などの意味で使われ、「収納庫」のような意味は無い。つまり、「収納」は「事」を表す語であって「物」を表す語ではなかった。更に、「物」の意味では「収納庫」「収納家具」などの用語が既にあるのにどうして上記のような用法が広まってしまったのだろう。
(2018/09/13)

ε−δ論法

 極限の概念の定義に「ε−δ論法」というものがある。この考え方を初めて知ったのは高校の時に読んだ「数学序説」(吉田洋一・赤攝也著、培風館)であったが、大学に入って明確な形で教わった。その時は「なるほどそういう風に考えることもできるな。」程度の印象だったが、後に哲学好きと議論する機会があったことや認知科学に関わったりしたことで、この定義の巧妙さに気づかされた。著名な科学哲学者にもこの論理が理解できていない人がいるようだ。
 ガリレイ−ニュートン流の関数f(t)による微分は、

  {f(t+Δt)−f(t)}/Δtで、Δtが0になったときの値

としていたが、このニュートン流の定義は0/0というような数学的な不都合を生じるので、既に1800年代前半にコーシによって棄てられ、現在では「Δtが0になったとき」即ち「長さ0の時間で割る」というような不都合を生じないようになっている。その考え方が「ε−δ論法」というものである。
ε−δ論法による微分の定義は下のようになる。
あるg(to) があって、どんな(に小さな)ε>0に対しても適当なδ>0を採れば、
     |{f(to+δ)f(to)}/δ−g(to)|<ε
とできるときg(to)f(t)o における微分という。
 この定義の巧妙な点は、δを0にしてしまう必要はないということと、関数の変化量ε(即ち速度の話の場合について言えば移動距離(=位置の差))を先に提示する形になっていることである。つまりこれを認知的な見方を絡めて言えば、「どんなに小さな位置の差でも『その差εが知覚できる限り』、それに対してδを定めることができて、{f(to+δ)f(to)}/δとg(to) の差をε以下にできる」ときに「g(to)f(t)o における微分という」ということでである。つまり、δが0でないときの「状況」しか使っていないので「長さ0の時間間隔で割る」などという不都合を避けられ人間が直感的に知覚する微分と非常によくマッチする。
(2018/08/11)

数学のすごさと不思議

 微分という演算がある。関数の傾きなどを計算する方法なのだが、たとえば、関数f(x)における微分f'(x)は、



だが、Δx→0とすると、結局0/0という状況になる。これでは微分は計算できないことになる。ところが、例えば、f(x)=x2の場合

 
={(Δx)22}/Δx
=(2+2ΔxΔx22)/Δx
(2ΔxΔx2)/Δx
分子を因数分解
Δx(2Δx)/Δx
Δx

となり、Δx→0としても、ちゃんと値2が得られる。
 ここで使われた「因数分解」は、中学のときに習って、その意義がよく解らないままでいたが、それがこんな所で力を発揮し、計算できなさそうな計算ができてしまう。直感的にも、滑らかな曲線には接線が存在すると考えられるが、その直感通り極限値が計算できて接線が求められ、微分という方法の有効性が確認される。
 因数分解が数学上で発明(発見?)された時代は微分が発明された時代より遥かに昔だったので、それが微分に使われて極限値が求まるなどということは予想だにしなかったに違いない。それが、予定調和のように巧く使われる‥‥高校のときはこの事実にあまり驚かなかったが年を経るにつれ段々驚きと不思議の念に駆られるようになった。数学にはそんな事柄が沢山あり、数学の異なる分野の定理などが予想外のところで繋がりがあったり精密に絡み合っていたりして、数学を揺るぎないシステムにしている。
(2018/02/14)

科学に基づかない哲学

 科学知識なしに哲学をやることは危険である。例えば、以前に書いたネット上の議論の相手のI氏のように数学知識なしに考えてしまうと「アキレスと亀」のような詭弁に簡単に騙されてしまったりする例がある。
 科学哲学をやっている有名人でもちゃんと科学を理解せずにやっている人がいるし、以前に以下のような例に出くわした。

LCCワークショップのまとめ(〜2002/11/31)

 「共約不可能性」について少し調べて書いているが、以前個人的な興味からI.ラカトシュ&A.マスグレイブ著森博他共訳「批判と知識の成長(原題:Criticism and the Growth of Knowledge)」を原書と対照しながら読んだのが役に立っている。これはいわゆる「科学哲学」書である。日本語訳を読みながら妙なところを原書で確認すると、どうもこの訳者達は物理学の知識に欠けるところがあるようだった。例えば「ふくれあがる惑星」という訳があって、そんな妙な惑星は聞いたことがないと思って原書を見ると「赤道が膨らんだ(bulging)の惑星(典型的な例は木星や土星、地球もそうであるが)」のことだったり、「諸々の惑星は本質的には、ほぼ球形をしていて重力に引かれて動くスピニング・トップである。」という訳があり、「spinning top」がカタカナのままにしてあったりする。これは、訳者が「spinning top」の意味が解らなかったからだろうと思われる。原文は「the planets are essentially gravitating spinning-tops of roughly spherical shape」である。文脈からして、「重力に引かれている回転する独楽」と訳すのが正しい。哲学者が科学について論じるときに科学を理解せずに論じている例が、特にポストモダンという思想に毒された人々において、かなりあるようだ。そんな例は、「知」の欺瞞という本に沢山引用されている。
 「bulging planet」についてWebで検索していたら、ニュートンが「地球は赤道半径の方が極半径より大きいはずだ。」と推測した経緯の説明があった。

ニュートンの主張
            
 ...if our earth were not a little higher around the equator 
    than at the poles, the seas would subside at the poles and,
    by ascending in the region of the equator, would flood
    everything there.
            
    もし仮に我々の地球の極半径より赤道半径が少し大きくないとすると、
    海は、極のところでへこみ、赤道のところで上昇するはずで、赤道で
  はすべてが洪水に飲み込まれるはずだ。

[解説]
            
The implication is that the Earth's surface must be (very nearly) 
an equi-potential surface, because otherwise the waters would slide
sideways in the direction of the lower potential.
            
この意味は、地球の表面は(ほぼ)等ポテンシャル面になっていなければ
ならない、なぜなら、そうでなければ水は低いポテンシャルの方向に滑
っていってしまうことになる、という意味である。
(藤田注:赤道付近では遠心力によって等ポテンシャル面が少し高くなる。)
「遠心力で赤道が膨れた。」というのではなくて「液体(海水)が作る面は等ポテンシャル面だ。」ということから根拠づけているところが偉い。地球のような複雑な個体が遠心力で均等に膨らむのは結構複雑な過程になると考えられるが、海水という比較的力学的に純粋なものに着目し、矛盾を提示することで論証したところがすごい。
(2017/09/25)

日本鋸

 日本の鋸は引いて切るように刃がついている。一方、洋鋸は、押して切るように刃がついている。筆者には、日本の方式の方が合理的に思える。
 鋸は薄い鋼板でてきている。なので、押した場合「座屈」という現象が起きやすい。洋鋸はそれを防ぐためにぶ厚い鋼板で出来ているが、そうすると、鋸跡の幅が大きくなり、おが屑も多くなる。また、高精度の工作もしにくくなる。何故、不合理な鋸が西洋では使い続けられているのか不思議である。
(2017/08/10)

 ネットを検索すると押切の方が切るときに体重を掛けやすいし切る対象が台に押し付けられて動きにくいという主張がある。確かに鋸を対象の上の向こう側から切り始める場合には押し付けられる形にはなるが、多くの場合その程度の下方分力では対象の台との摩擦は小さく対象は動いてしまう。そもそも、体重は体重以上の力は発生できないので、結局筋力がものを言うことになるが、斜め上から押して切る場合は筋力が体重を上回ってしまうことになり体が浮いて力が掛けられなくなる。この場合は押すよりも引く方が脚で抑えて支点にできるので強い力が得られる。また、通常はクランプやバイスなどで対象を固定する場合も多く、その場合、切断は引く方が力の方向が安定する。これは、棒を使って物を動かす場合に、力点が対象の手前にある場合、押すよりも(引っ掛けることができれば)引く方が安定して動かせることからも明らかだ。
 金切鋸の場合、数センチ径の鉄棒を切る際に体重を掛けられる方が切削が速いという主張もあるが、本当にそうなのか疑問だ。鋸の刃をフレームに付けて切る限り、圧力をどの程度書けられるかは押す場合も引く場合も大きく変わらないと考えられる。
 金属の場合、通常は対象を手で固定して切ることはまず無く、ほとんどの場合バイスやクランプで固定して切るので、鋸のフレームと柄の両方を持って使うことが多く、押す引くで対象の安定性も変わらない。また、金鋸はフレームに取り付けて使うのが基本だが、筆者の場合、フレームが邪魔になる場合があり、刃に包丁のような簡単な柄を付けて使うことも多い。このときは引く方向に持つ方が遥かに切りやすい。
 金切鋸も慣習や伝統を鵜呑みにせず、合理的に考えて状況に合った使い方を選ぶ方が良い
(2024/03/23)

死ねば天国/極楽/神/仏

 「死んだら天国/極楽に行ける、あるいは神様/仏様になる。」といった類の教えの宗教は有害だ。その宗教思想に沿った行為で死ぬことを推奨する結果になる。今、各所で起きている自爆テロは正にその典型だろう。戦時中に兵隊を死地に赴かせるときに使われた考えもこれに通じる。「死んだら何もなくなる。」とか「死んだら地獄におちる。」と説かれたら、少なくともその宗教思想のために命を粗末にすることは少なくなるだろう。
 また、「神」は多くの場合、殺人を正当化する。ISにしても、旧日本軍にしても、かつての十字軍にしてもそうである。「神」などという概念は早急に棄てるべきだ。「神」は人間に都合の良いように創り上げられた「概念」に過ぎない。
(2016/07/05,0217/01/31追記)

耐震補強

 熊本、大分で地震が続いている。震度7が2回あると多くの家は倒壊するようだ。我が家は、2012年に改装増築した際、耐震補強もした。その効果は確かにあったと思われる。以前に震度4程度の揺れがあった時は、家全体からギシギシ音が出た。今回は、かなり揺れたが音があまりしなかったので不思議な感じだった。
 二階の揺れもあまり大きくなかったようで、押入れの物が少し落ちたのと、立てかけていた板が倒れたのと、積んでいたレコードなどが少し落ちた程度であった。二階の箪笥、一階の食器棚などは固定してあったので、全く問題なかった。耐震補強は有効だ。
(2016/05/02)

小選挙区制

 小選挙区制をやめるべきだ。原理的に民主主義に反する。国民の51%しか支持しない党が100%の議席を得ることが可能な制度は民意を反映しないという意味で根本的に民主主義に悖る。いろいろの屁理屈を付けて小選挙区制を押す人は結構いるが、原理的におかしい制度が民主主義を達成するはずがない。現実に、国民の支持が30%に満たない政党が議席の2/3以上を占めているのが現状である。そのため、独裁政治に近い状態がもたらされ、憲法違反の法律が易々と国会を通過する。
日本の民主主義を歪めた最も大きな要因が小選挙区制の採用だ。
 かつては、コミュニケーション手段が貧弱で、選挙運動などは候補者自ら、あるいは運動員が各地を回って演説等するしかなかったが、現在はインターネットなどコミュニケーション手段が発達して、個人が簡単に世界に向けて考えを発信できるようになってきていて、選挙区を小さくする意味は無くなった。むしろ、全国一区も可能になっているし、全国一区の方が国全体を考える政治家が出やすい。にもかかわらず、相変わらず小選挙区制にかじりついている。大政党の党利党略・民意無視以外の何物でもない。
(2016/04/11)

 小選挙区制の害悪は選挙が民意を反映しないということだけでなく、世襲政治家ばかりになることだ。多くの世襲政治家は収入のために政治家なっていることがほとんどだ。最も重要な「国民のため」という動機が全く見えない自分の収入を増やすための政治しかやらない。それが政治を劣化させる大きな要因だ
(2024/01/31)

取調べ可視化

 2016年4月8日、栃木女児殺害事件の判決が下りた。この判決に、取調べの映像が大きな影響を与えたらしい。しかし、この判決には大きな疑問がある。

  1. 映像は約80時間あるらしいが、裁判員が見ることができたのはその1/10に満たない7時間分しか無かった。これでは、公平、客観的な判断は無理である。結局、検察側に都合の良い部分を上手く編集して判決の誘導があったとの疑いを拭えない。
  2. 80時間の映像も、取調べの全てではないとのこと。取調べの可視化制度において、少なくとも、事実を明らかにしようとするなら、取調べの全過程を可視化することが必須であることは明らかであるにもかかわらず、現在のような形にしてしまった。これではむしろ有害な制度だ。
  3. 裁判官が、これで、自分が正しい判断をしたと考えているとしたら、その裁判官はもはや人を裁く資格は無い。非常に危険である。

こういうやり方を見ていると、我々、一般人は何時なんどき無実の罪で、死刑や無期懲役にされるかわからない。恐ろしいことである。

そもそも、裁判における判決を下す過程は大きく分けて3段階になると考える。
  1. 事実を明らかにする。
  2. 明らかにされた事実を法律に照らして有罪/無罪を決定する。
  3. 有罪の場合、量刑を行う。

第1段階は本質的には科学的領域である。この領域においいては観測事実を正確・厳密に見ることが不可欠である。現在の可視化制度はこの観点からは全くもって不十分どころかむしろ有害な構造になっている。ついでに言うならば、第3段階は法律知識を十分に持つ法律の専門家が行うべきで、裁判員にも行わせる現在の裁判員制度は問題である。

 今回の判決においては立命館大学人間科学研究所インクルーシブ研究7「取調べと可視化―新しい時代の取調べ技法・記録化と人間科学―Transparency of Interrogation: Innovative Data Recording and Analysis by the Human Science 報告2:日本における取調べ可視化の現状と課題」において渕野貴生教授が述べられていた懸念
結局、録画をしていない取り調べのところで被疑者に圧力をかけて、被疑者を完全に屈服させて、自白させたあとにそれから録画をスタートさせて、再演させるということになります。そこでスラスラと供述をするというところだけを録画するというのでは、かえって違法な取り調べを隠蔽する効果をもたらさないか懸念されています。
がそのまま現実となっているのではないか。
(2016/04/10)

 香川県警が女子大生を誤認逮捕した。その際の取り調べのやり方は「取り調べ完全可視化」がいかに重要かを示している。この女子大生に対する取り調べは恫喝・脅迫以外の何物でもない。薄弱な根拠しかないのに、初めから女子大生を犯人と決めつけて女子大生の言い分を何も聞こうとしない。そこにいるどの刑事もである。恐ろしい話である。この女子大生はよくそれに耐えた。もし、精神的耐えられなくなって嘘の自白でもしていたらそのまま裁判で有罪になる可能性は非常に高かった。このような取り調べをした刑事たちの情報は公開されない。公務としてやったことはどんな酷いことをしても護られる一方女子大生のプライバシーは保護されていない。誠に片手落ちというか、警察に都合の良いことになっている。むしろ公務としてやったことなら、公開してしかるべきだ。もちろん、個人としての責任は問えないにしても公人としての責任はある。警察・検察が「取り調べ完全可視化」に反対するのはこのような取り調べを続けたいからではないか。
 それにしても、警察官、検察官、裁判官のどれを取っても科学的・合理的思考力の欠如が目立つ捜査、起訴、裁判のどれを取っても科学的に合理的な観察とそれに基づく推論と判断がまずあってその上で法律的な判断ができるはずのものだが、基礎になる事実認識の能力や技能の欠如の問題が多すぎる。これらの人々に対しての科学教育(科学的な観察力、科学的な推論力、科学的な評価力を付ける教育)は法律の勉強以前の基礎として絶対に欠かせないものと思うのだが。
(2019/08/23)

 NHKの番組の「逆転人生」で警察によるでっちあげ冤罪事件のドキュメンタリーを見た。検察・裁判官が警察官の言い分だけを聞いて目撃者の証言などの客観的事実を無視した結果、冤罪を作ってしまった。この場合も上記の三者の科学的・合理的思考力の欠如が目立つがそれに加え公務中の事件にも拘わらず「警察官のプライバシー」を主張して証言記録を不開示とし続けた検察の保身が見え隠れして不快だ。
(2019/11/13)

人間ピラミッド

 学校の体育で大きな人間ピラミッドを作ろうとして失敗しけが人が出ることが年に8000件もあるらしい。ニュースでも昨年失敗してけが人が出ているにもかかわらず今年もやってけが人を出した学校の校長が出ていたが、「安全に対する配慮が足りなかった」などと間の抜けたことを言っていた。こういうことをする教師には力学的思考力が無いに等しい者が多いように思う。
 一番下の段について考えると、2段の場合、2人で1人を支える、つまり1人当たり1/2人を支える。3段の場合、3人で3人を支える、つまり、1人当たり1人を支える。4段の場合、4人で6人を支える、つまり1人当たり3/2人を支える、というように段を増やすと一人当たりに掛かる重量が増加する。これを下の段が2次元的な広がりを持つような形にしても、1人当たりの加重が、段を重ねるにつれて大きくなることに変りはない。しかも、人間は剛体ではないので、実際には下の者は、自分の上段数分の人数に近い力を受けることになる。さらに、中段の者は不安定な人間の上で自分を支えることになり、段を重ねるということが力学的に非常に不安定な状況を作り出す。このことが解っていないのではないか。
 人間ピラミッドをやりたがる教師は「みんなで一致協力することの大切さを学ぶ機会になる。」「うまくできたときの達成感と感動を経験することは教育的な意義がある。」などと言っているが、そもそも「一致協力」は単に目的達成のために効果的な手段でしかないいうことを忘れている、いや、解っていない。多くの体育教師は競技スポーツで無批判に「一致協力」をしてきたのでそのことの意味を知らないのであろう。
 「一致協力」はそれに相応しい「目的」があって初めて意義を持つ。早い話が、「一致協力して泥棒」をしたり、「一致協力して殺人」をしたりするのを是とする人は少ないであろう。先の大戦で闇雲に「一致協力をする/させられる」ことの危険性を身にしみて経験しているはずなのだが‥‥。「一致協力」そのものを「良いこと」と勘違いしている人が多いように思う。
 学校で無批判に「一致協力」を教え込むことは止めた方が良い無批判に「一致協力」を是とする教育は、集団の中で大勢の方向に同調しない者を「悪者」とみなす生徒を作り出すもっと、「一致協力」の危険性も教えるべきだし、「何が一致協力するに相応しいことなのか。」を考える力を養う教育をするべきである。
 また、「達成感」や「感動」は「危険」を伴うことでなくても様々な事柄で経験できる。
 結局、「大きな人間ピラミッド」は教師の見栄、競争心と愚かな親の満足感のためにやっているとしか見えない。
(2015/10/10)

「関係」と「関係性」

 このところ、「関係性」という用語を色々なところで聞く。筆者の印象では、「関係」で良い場合でも「関係性」と言っている場合が多いようである。では、「関係性」と「関係」は同じなのか?筆者は異なると考えている。
 「関係」は数学的には部分集合を規定する概念である。関係には2項関係、3項関係、‥‥、n項関係などがあるが、ここでは2項関係を考える。
 一般にxとyにRという関係があるときxRyのように表す。例えば、数xと数yに大小関係「<」があるときx<yのように表される。そして、このような関係にある(x,y)の対の集合は{(x,y)|x<y}であるがこれは図的に表せば、(x,y)平面上の点の集合の内、直線y=xを境界としてその左上の半平面の中の点の集合すなわち(x,y)平面の点の部分集合と対応する。つまり「関係は部分集合を規定する。」ということになる。他の例としてはx2+y2≦1などは、点(x,y)が半径1の円周または円内にあるという関係であるし、2+y2=1は、点(x,y)が半径1の円周上にあるという関係である。関係はこの他にも無数にある。つまり、「関係」とは「関係がある要素の集まり」と「関係が無い要素の集まり」を分ける機能がある。
 話を「関係性」にもどすと、上記のような議論の中で「関係性」という用語を使用して違和感が無い場合があるであろうか?例えば「数xと数yの関係性は‥‥。」といったような場合、何を思い浮かべるか。筆者は、「数xと数yに何か関係があるのか、あるとすればどのような関係か。」といった議論を思い浮かべる。具体的には「xとyは『xはyより大きい』という関係なのか『xはyより小さい』という関係なのかどちらなのだろう。」というような場合だ。「関係性」という用語は明確な関係がある場合に用いるのではなく、「関係があるかもしれない。」という状況で、「あるとしたらどんな関係か。」といったことについて考えるとき、あるいは「複数の事象における『関係』という側面」を表すときに用いるのではないかと考える。
 最近では、明確で具体的な関係について言う場合にも「関係性」という言葉を使っているように感じる。例えば、
日本語/英語の単語をノードに見立てて,それぞれの言語の各単語関係性を平面グラフに描いたとしたとき
http://www.hcn.zaq.ne.jp/___/WEB/
一般に感情や情動といった概念は、西欧形而上学の歴史のなかで、魂の自己感受といった意味あいで、世界へのわたしたちの受動的な関係性を規定するものであった。
http://heideggerforum.main.jp/ej8data/kobayashi.pdf
本論では「けれども」や「が」の前で述べられている文を「前件」、後で述べられている文を「後件」とし、前件と後件の関係性の観点から両用法を分析する。
http://www.pu-kumamoto.ac.jp/‾h-hando/kumade/shouron.htm
地域によって、また相手との関係性よって、さまざまな表現を用いることがあります。
http://whitebear0930.net/archives/3660
などは、単に「関係」だと思うがどうだろう。
(2015/10)

原子力発電

 2011年3月11日の大地震により、福島の原子力発電所が破壊された。その結果、これまで、「安全経済的」等と宣伝してきたことが全くの嘘であることが露呈した。
 そもそも、日本には原子力発電は向かないと思う。狭い国土は断層だらけで地震が多い。地球上で起きる地震の1割がこの狭い日本で起きているという。日本のような狭い国土に原子力発電所を作って、数十年で廃炉にして使えない跡地を増やして、国土を狭くするというのはいただけない。原子力を推進してきた自民党の人々は、北方4島や尖閣諸島のことを声高に言うが、自分から国土を捨てようとしているのに等しい行為をして、矛盾も極まれりだ。更に、将来の日本を放射性廃棄物だらけにして、住むところを減らす結果になるのも問題である。
 「原子力は経済的」という論も全くの虚構であった。税金を使っての膨大な補助金や廃炉処理、各種補償費、事故処理費、宣伝費、その他を含めると「原子力だから必要となる経費」は膨大なものになる。このような施設を、貧乏な自治体の頬を札束ではたくようなやり方で、補助金という麻薬づけにしてやってきたのが「原子力発電」である。しかも、原子力を推進してきた輩は何の責任もとっていないし、取ろうともしない。あまつさえ、「再稼動、再稼動、そうでなければ電気が足りない」と、2011年以降、ほとんど原子力に頼らずに電力供給できた事実を無視して叫び続ける。恥ずかしくないのか。
(2011)

 経済的に成り立たないことが証明された原子力発電だが、安倍政権は2019年4月現在も原子力発電を推し進めようとしている。どうしても原子力発電を続けたいようだ。どうも電力業界からの献金が欲しいだけではなく、プルトニウムを持ち続けたいからではないかと思われる。つまり、本心は、将来、核兵器を作りたいからではないか。プルトニウムの保持はテロ組織から狙われる可能性があり、とても危険な馬鹿げた行為だ。
(2019/04/27)

「熱い」と「厚い」

 以前から気になっていたが、「暑い」「熱い」のイントネーションと 「厚い」「篤い」のそれが同化あるいは逆転している。NHKの アクセント辞典では、前者は「あ/つ\い」であり後者は 「あ/つ い」の はずだが、NHKのアナウンサーも「厚い視線」や「厚い戦い」の ように発音するので、気になってしかたがない。NHKはアナウンサー 教育をちゃんとやっているのか?つい、「何センチの視線や!」と突っ 込みを入れたくなる。

不合理な体操競技

 体操競技は変である。体操競技の着地はひざや体全体のばねを駆使してできるだけ衝撃が少なくなるような着地とは正反対に、衝撃がまともに体に伝わるようなものを高評価とする。そのため、体操選手は鼠径ヘルニア(脱腸)になるのだそうだ。こんな体をダメにするような演技を高評価にするのでは、体操は病気の原因となる「不健康なスポーツ」ということになる。
 ついでに言えば、フィギアスケートも変である。スケートは滑る道具なのに、やたら「ジャンプ」を評価する。そのため、事故や怪我が多い。まあ、そんなことを言い出したら、競技スポーツは皆不健康なものになる。勝ち負けに拘るあまり、無理な練習をして選手の多くは怪我・故障だらけである。一番の問題はスポーツを「競技」にしてしまったことかもしれない。

原子炉の構造

 東北電力や東京電力で過去に臨界事故が発生し、それを隠蔽していたことが発覚し、問題になっている。もちろん、事故の隠蔽は非常に問題ではある。しかし、解せないのは、「制御棒が抜け落ちて臨界に達したという点である。原子炉の制御棒は、当然、抜け落ちたら燃料の中に落ちて、反応が止まるようになっているものと思っていた。原子炉のような危険な装置は、フェイルセイフ、すなわち、故障は安全側に起きるようになっているものと思っていた。PWRは、そのようになっていたようだが、BWRは、制御棒が抜け落ちると、制御棒は炉心の外になるらしい。なぜ、こんなバカげた構造にしてしまったのであろうか。理解に苦しむ。

重量級回転ドア

 東京の有名ビルで回転ドアに子供が挟まれて死亡する事故が発生した。この種の事故は、最近あちこちの大きなビルで起きているらしい。これについて、マスコミその他では、相変わらず「安全基準ができていない。」「センサの設定が間違っていた。」等の見解を言いたてている。しかし、私には、もっと別の根本問題があるように思える。
 そもそも、人がしょっちゅう出入りし開け閉めするドアが1.5tもある、そのこと自体の不合理性を問題にしないことがおかしいと思われる。このドアの設計者の力学的センスが問題である。巨大な城門などは何トンもあるものもあるであろう。しかし、この種の門は、人が通る度に開け閉めするものではない。普段は閉まっていて、いったん開けたらしばらくは開けておく。更に、通常、人が通るのは「通用門」という小さな門である。
 軽いドアならば、人が挟まれそうになったりした場合、人力で簡単に止めることができる。しかし、1.5tもあるドアは、動かすのにもなんらかの動力が必要であるし、何かあったときに人手で瞬時に止めることは不可能である。そのことの異常さを感じない技術者は、技術者として失格であろう。
(2004/04/08)

人間の頭髪の不思議

 朝通勤途中で信号待ちをしていると、筆者の前をストレートヘアが腰近くまである女性が自転車に乗ってゆっくりと横切って行った。それで、ふと考えたのであるが、人間というのは妙な動物である。頭以外にはほとんど毛が無いのに、頭の毛だけはやたらと長い。この長さは、ものに引っかるなど生存には多分有害なのではなかろうか。頭髪もある程度の長さまでは、頭部を外傷から守るという機能があるであろうが、腰まである必要はなさそうである。とすると、なぜこんなものが遺伝的に残ってしまったのか。
 筆者は次のように考えるのだが、妄想をたくましくしすぎであろうか。人以外の動物の場合、生存に不利な形質を持つ個体は淘汰されて次第に消滅するであろう。しかし、人間は巨大な脳のおかげでこの無用の長物をうまく処理(例えば短く切る、適当に折り畳んでまとめるなど)して、不利を克服する方法を考案することができた結果、長い頭髪が生存にほとんど影響しなくなったのではないか、と。あと、人間が樹上生活から平原へ生活の場を移したことも関係ありそうである。樹上では長い頭髪は木の枝等に引っかかって危険であるが、平原ならばそんなに問題にならない。
(2003/08/29)

進化問答

進化についてのある人との議論。
(2003/07/21)

短絡思考/指向

 中学生が幼児を殺害したとして補導された。これを聞いた鴻池祥肇青少年育成推進本部副本部長が「犯罪者の親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい。」などと発言した。
 このごろの少年の凶悪犯罪は、自分の行為の結果がどんな事態を引き起こすか、ということに思い及ばず、短絡的に行動に走ってしまっているように見える。いろいろな状況を考えて行動することができず、一つの側面だけの判断で行動する。この傾向は子供だけではないようだ。上記の鴻池氏など、最も多面的な思考が必要な立場にあるのに、単純に上記のような短絡的な発言をするのでは、凶悪犯罪を犯す少年と大して違わない同氏のような人間が青少年育成推進本部副本部長などという役についているのでは、現在の複雑な状況を多面的に考慮して行動できるような、まともな青少年の育成ができるとは考えられない
 どうも、最近の傾向として、複雑な状況を強引にぶった切って単純化してしまおうとすることが多いように見える。一見、歯切れが良くて気持ちが良いが、これでは、昔、無知ゆえに物事を大雑把にぶった切って判断してきた愚を反省し、より正確な状況認識の下に木目細かい対応をしようという現在の社会の方向とは逆行することになる。
 このことについては、最近の朝日新聞で推理作家の高村薫氏も「粗雑な言葉、粗雑な思考は、中間の複雑な条件を全部取っ払いますから結論しか残らない。それが、極端な考えを生む大きな原因だ。みんな別に戦争は好きじゃないけれども、途中の複雑な条件を勘案することができないから、ぱっと結論のところへ行く。朝鮮半島情勢が緊迫しているから北朝鮮はけしからんという単純な結論になる」「要するに、言葉に行きつく。複雑なことを考える思考能力が危機に瀕している。だから感情論にしかならない。鴻池さんだって12歳の少年が事件を起こして、感情でけしからん、と思ったのでしょう。これを言ったらどうなるかということが考えられない。これを言うことが大変に教育的配慮を欠いたひどく極端な意見であるといった自制が働かない」と述べている。
 筆者もかってインターネットのとある掲示板で、ある若い(と推察される)人と論争したことがあるが、「水も氷もどちらもH2Oだから同じだ。」という主張をするので、「それは分子組成として同じだけれども、物理的性質はまるで違う。1kgの氷で殴るのはたやすいけれど、1kgの水で殴るのは難しい。ものごとを一面だけでみるのは拙い。」と言ったら、反論に窮したのか、おふざけで誤魔化し始めてしまった。複雑なものもある面では単純であるけれども、その面だけで単純にぶった切ってしまい、複雑な面を受け入れる力が無くなっているのか。
(2003/07/12)

宗教についての議論

 筆者の宗教についての視点
筆者としては宗教は「嘘も方便もっと言えば「麻薬」と同類のものと思っている。
(2003/07/05)

ツェノンの詭弁

 ツェノンが昔提出した「アキレスと亀」の詭弁を未だに「パラドクス」と思い込んでいる人が結構有名な哲学者や、科学者にもいるようである。下のページは「アキレスと亀」について、あるMLで論争した記録である。
アキレスと亀というパラドクシカルな命題について
(2002/11/9)

科学は人を苦しめる?

 昨日、女房が見ているテレビの中で、武田鉄也が科学好きの生徒に「科学も良いが、人間に非常に役に立ったのも科学だが、人間を最も苦しめたものも科学だということを認識しないといけない。」というようなことを言っていた。こういう見当はずれの認識をさも正しいかのように放送するのは困ったものだ。科学は人間が得た力の一つに過ぎない。科学が人間を苦しめたのではない。人間を苦しめたのは人間である。特に、自己の利益あるいは自分の属する狭い集団だけのために動くような一部の政治家や軍の支配者あるいは宗教家、企業家達ではないか。そのような輩が科学という力を振りかざすとき人々にはかり知れない苦しみを与えてきたのではないのか。
 一部の政治家が政治権力という力を悪用して数え切れない人々を苦しめてきたからといって、政治権力自体を非難しても始まらない。科学が強力であることを非難するなら、政治権力が人を殺す法律をも作れることを非難することにもなる。力があることとそれをどう行使するかの問題を混同してはいけない
 それともう一つ、非常に重要なことであるにも拘わらずあまり認識されてないことは、科学を何か不自然なもののように考えている人が多いようだが、科学は人間の脳の構造に根ざした、人間にとって極めて自然な、言うならば「非常に(こういう言い方は好きではないが)人間的な」ものなのだ
(2002/3/29)

地球規模の視点からの宗教

 最近、いろいろな地域での宗教が絡んだ争いを見るにつけ、宗教は人類の幸福に役立っているのか?という疑問がわく。昔、情報の伝わり方も人の移動も非常に緩慢で量的にも少なかった時代にできた宗教という思考・信念の形態は、そのような時代において、他の集団との接触が少ない状態では、その集団に属する個々人の幸福には役立ったかもしれない。しかし現代のような何もかもが地球規模で瞬時に動く時代には、宗教はむしろ害の方が多いようにも思える。
 宗教の特性の一つはものごとの「善悪」あるいは「正邪」を言うことである。これが問題である。(科学でも「正しい/正しくない」という言い方はするが、科学での「正しい」とは宗教上で言うそれとは異なり単に「現象と合い、論理的に他と整合性がある。」という意味であるので、「科学も正しいかどうかを言うではないか」との反論は的外れである。)。  「善悪」は、価値観に基づく。価値観は価値評価主体の存在が前提であり、評価主体により「善悪」は全く逆になったりする。そんなものが世界共通の規準になりようがないのは明らかだ。もう一つの特性は、多くの宗教が、不可知なものを出発点としていることである。「不可知」であるということは、「検証」を受け付けないということであり、これがそれぞれの宗教間の歩み寄りや理解を阻害し、「自分の信じる宗教だけが正しく他は間違いである。」という思い込みからの脱却を困難にしている。特に、「唯一全能絶対の神」を持つ宗教は教義に現実にそぐわない点があっても、教義自体を疑うことを拒否するので害が多い
 上記、二つの特性が組み合わさることにより、現代において宗教同士が他を否定するという構図を作り上げ、宗教的な争いの原因を作っている。少なくとも大部分の宗教についてはその「使い方の問題」というよりも、地球規模で見た場合に根本的に不都合な部分があると思われる。「宗教」は「人間」が生きやすくなるためるに「人間」が造り出した「考え方」の一つに過ぎない。
 地球規模の総体的な幸福を考えるとき、そろそろ、宗教に頼るのは止めた方が良いのではないか。
(2002/4/9)

科学は人を苦しめる?

 昨日、女房が見ているテレビの中で、武田鉄也が科学好きの生徒に「科学も良いが、人間に非常に役に立ったのも科学だが、人間を最も苦しめたものも科学だということを認識しないといけない。」というようなことを言っていた。こういう見当はずれの認識をさも正しいかのように放送するのは困ったものだ。科学は人間が得た力の一つに過ぎない。科学が人間を苦しめたのではない。人間を苦しめたのは人間である。特に、自己の利益あるいは自分の属する狭い集団だけのために動くような一部の政治家や軍の支配者あるいは宗教家、企業家達ではないか。そのような輩が科学という力を振りかざすとき人々にはかり知れない苦しみを与えてきたのではないのか。
 一部の政治家が政治権力という力を悪用して数え切れない人々を苦しめてきたからといって、政治権力自体を非難しても始まらない。科学が強力であることを非難するなら、政治権力が人を殺す法律をも作れることを非難することにもなる。力があることとそれをどう行使するかの問題を混同してはいけない
 それともう一つ、非常に重要なことであるにも拘わらずあまり認識されてないことは、科学を何か不自然なもののように考えている人が多いようだが、科学は人間の脳の構造に根ざした、人間にとって極めて自然な、言うならば「非常に(こういう言い方は好きではないが)人間的な」ものなのだ
(2002/3/29)

力学的感覚

 先日、本学で「ものづくりシンポジウム」というものが開催された。そこで講師の先生がある装置をわざと故障状態にして学生にその故障を見つけさせるということを実際にやらせていた。
 こういった場面で問題になるのは、最近の若者の力学的・物理学的感覚である。ものの動きや装置の力学的性質について抽象的には理解していても感覚的に理解していない。こんなことがあった。自動車好きの学生に「車のドライブシャフトはものすごく丈夫だね、よくねじ切れないもんだ。」と言ったら「ねじ切れないように設計してあるんでしょう。」と答えた。そんなことは分かりきったことである。普通の乗用車のドライブシャフトは高々直径4cm程度のものである。これで、直径60cmくらいのタイヤ回すわけで、ギヤをロウに入れてグッとアクセルを踏むと普通の乗用車でもタイヤをスリップさせることができる。このときにどんなすごいねじり応力(せん断力)がドライブシャフトにかかるか思い浮かばなくてはだめである。60cmの円盤に4cmの軸を付けて、子供に円盤を持たせて、自分が軸をねじってみる場合を想像してみればそんな細い軸で円盤を回すのがいかに大変か。まして、タイヤには200kgw以上の荷重が掛かっていて、ゴムと地面の摩擦は相当なものであろう。こういったことが実感として感じられないような技術者は心配である。
(2002/3/25)

代理母(代理出産)

 代理母(ここでは、厳密に言うと「代理出産(妻の卵子と夫の精子の受精卵を別の女性の子宮内に着床させて育ててもらうこと)」を指す)の事実を担当医師が発表して問題になっている。多くの論調は、代理母について批判的である。曰く「女性を道具にしている。」、曰く「生まれてきた子供にどう説明する?」など。さらにはクローンに対する反応と同様の「生命を弄んでいる。」。
 代理母が「女性を道具にしている」のは事実である。しかし、それを批判するならば、次のような場合はどうであろうか。仮にある夫婦がいて、夫は子供が欲しいと考えており、妻は欲しくないと考えていたとする。夫が妻に「子供を産んでくれ。」と要求するとしたらこれは「妻を子供を産む道具として考えている」ことにならないのか。「妻」ならばそれが妥当だとすることに疑問は無いのだろうか?子供が欲しいならば「養子」という手もあるはずである。自分の遺伝子を残したいのであれば、クローンと言う手も近い将来可能になるであろう。夫と妻だけの話ではなく、いわゆる「跡取りを生んでくれ。」と言った類の話はゴマンとある。これらは、今回の代理母ほどの非難はされていない。これは片手落ちではないだろうか。
 むしろ、「代理母まで頼んで自分の遺伝子を残す」ことに固執する精神構造あるいは社会にこそ、問題があると思う。
 現在のところ、「子供を生む。」ということは女性にしかできないことなので、代理母であろうと普通の母であろうと、必然的に「女性は子供を生む道具」という一面をもたざるをえない。これは、いかに美辞麗句を並べても覆い隠すことができない事実なのだ。だから、「女性を道具にしている。」という批判は筋が通っていない。「女性を道具にしている。」と批判する人達は人工子宮ができて女性に頼らずに子供を作れるようになったら、よしとするのだろうか、そうは思えない。
 もちろん、人類という種を存続するために、生まれつき「子供を生む」という役目を担わされた性をいかに支援するかという問題は重要であるが。
 「生まれた子供にどう説明するか。」と言う問題は、高々、「養子に自分の出生をどう説明するか。」と言う問題と本質的に変らないと思う。これもクローンの場合と同様で、むしろ、「代理母から生まれた人は異常だ。」という偏見やそれに起因する差別の方が問題であろう。「どのような生まれ方であろうと、人間の遺伝子をもって、人間としてのコミュニケーションができる者は人間だ。」ということは平等を謳う社会の基本であろう。
 「生命を弄んでいる。」という批判は、全くの見当はずれだと思う。上記の医師はごく真面目に子供が欲しい夫婦のことを考えているので、「弄ぶ」などという概念とは無関係である。

 最後に残る問題は、「生みの母」と「遺伝子の母」との関係および心の問題であろう。しかし、この問題は通常の養子の場合よりも深刻ではない。なぜならば、代理母と子の間には遺伝子的なつながりはないという認識が双方にあり、養子の場合のような「生みの母との血のつながり」ほどの関係の強さはないと当事者は感じると予想されるからである。したがって、もし問題が起きたとしても「代理母」を依頼した/引受けた者同士、当初の合意・約束に従うのが当然であろう。ただし、代理母になる/依頼することによる結果がどのような事態を生む可能性があるかについては充分なコンセンサスが必要である。逆に言えば、代理母よりもむしろ、養子をもらう場合や子供を持っている者が再婚する場合などに起こってくる事態に対して、現在、充分なコンセンサスを確立する手順を踏んでいるのか・・・、よく聞く、再婚相手の連れ子の虐待などを考えると疑問が多い
(もちろん、「代理母」に金が絡んでくると、いろいろな弊害が出てくる可能性はある。しかし、金が絡んで弊害が出るのは「代理母」に限ったことではない。また、医学的な危険性については現段階ではあるかもしれないが、いずれ克服されるであろう。)
(2001/5/30)

読書

 テレビのある番組で、読書について取り上げていた。その中で、飯島愛が「私は図鑑や辞典が好きで、読み始めると1日中読んでいることがある。」と言ったところ、渡辺正行が図鑑や辞書を読むのは読書とは言えないというような態度をとった。なるほどそうか!と思った。私も子供のころ、理科の図鑑が好きで図鑑を読みふけっていたが、国語の時間に「図鑑や辞書を読むのは読書ではない。」と言われ先生に反感をもったのを思い出した。そう言った種類の読書を読書として認めない風潮も私を国語嫌いにした一因である。
 小学校にしても中学校にしても読書というのは、「読んで感動の涙を流すようなもの」という固定観念が先生にあったように思う。しかし、私が図鑑を見ているとき、「ヘーッ、この機械はこんな仕組みになっているのか!」とか「体の中はこんなになっているのか!」といった、「分かること、知ることの感動」を体験していたと思う。国語教育が、その種の読書を読書として認めないものであるらば、国語教育は偏狭な固定観念に毒されているといわざるをえない。
(2000/11/26)

人の命は重い?

 NHK教育テレビで「10代に聞く・少年犯罪をどう思いますか?」という番組が放送されていたが、その中で、「なぜ、殺人・自殺はいけないか。」という話題があった。そして、識者達が、「人の命はなによりも重いものだから・・・。」というような理由を根拠に文学的とも言える意見を述べていたが、どうも的外れに思えてしかたがない。「人の命の重さ」などということは一つの価値判断であり、ものごとの価値判断ほど、あやふやで立場によってどうにでもなるものは無い。そんなものを根拠に「殺人・自殺」を否定してみても、ほとんど説得力は無いと思う。
 そもそも、「殺人・自殺」をしてはならないのは、それが」という生命について決定的に不可逆的な事態を引き起こすからである。この厳然たる事実に根拠を置かなければ、説得力のある説明はできないであろう。
 もし、「死」が可逆的な現象ならば、「死」の重大さは無くなるし、縁者の悲しみも無くなるであろう。「死」が重大なのは正にこの「不可逆」という一点にある。それが、殺人・自殺の重大さの根本にある。生きることに何らかの文学的理由付けをしたがる人達から「そんな単純なことか?」とバカにされそうだが、人が生きることそのものに「理由」は無いのだ。では、「なぜ生きるのか?」といえば、「生きるようにできてしまったのが生物だ。」としか言い様が無い。もちろん、ある個人が死ぬことによって、悲しむ人々や困る人々が居るかもしれない。しかし、それも「死が不可逆である」ことの裏返しでしかない。
 「殺人・自殺」をしてはならないということの説得・教育は徹底してこの「死の不可逆性」を教え込むことから始めなければ効果が無いと思う。人が、生きているとき、喜び、悲しみ、笑い、そしていろいろなことに興味を持ち、いろいろな行為をし、いろいろな人間との関係をつくり、いろいろなものを創造し、・・・といった生きているときに行なう/行なうであろう、あらゆることが、「殺人・自殺」によって不可逆的に断たれることになる。そのことの認識なくしては説得力のある議論は成り立たない。
(2000/11/25)

「マニュアル」と受験勉強

 雪印乳業のいろいろな問題点が話題になっている。昨日も、同社のある工場で停電があり、その間放置された牛乳に黄色ブドウ球菌が発生したものをそのまま製品にしてしまい、毒素が残ってしまった件について報道していた。
 ある新聞には、そうした(停電などが起きた)ときのマニュアルが無かったことを非常に大きい問題として取り上げていた。しかし、これは違うのではないか。確かに、いろいろな事態に対処するマニュアルは必要である。しかし、事故というものは往々にしてマニュアルが無いところで起きる。あらゆる場合を想定したマニュアルなど作れない。重要なことは不測の事態に陥ったときに、起きている状況を正しく把握して原理原則に基づき最悪の事態を予測できることである。上記の例でも、牛乳を3時間も細菌の繁殖し易い温度で放置すればどんなことが起き、どうしなければならないかは、ちょっと考えれば解ったはずである。マニュアルに頼りすぎると、こういったマニュアルにない状況に陥った場合に思考停止してしまう。これは、以前にあった核燃料会社の事故の場合にもあてはまる。まず、「核燃料混合装置がどうしてあんな形になっているか」といった原理的なことを理解していれば、ばかげた「裏マニュアル」などできることはなかったであろうし、また、「裏マニュアル」に盲目的に従って事故に至ることもなかったはずである。
 これらは、どうも受験勉強が原因のように思われる。小学校の、いや、幼稚園のころから、「問題の解き方=マニュアル」と「それに盲目的に従って解く」ことばかりを教え、根本原理に立ち戻って「なぜか」を考える姿勢を失わせている。これでは、「マニュアルが無ければなにもできない/マニュアルがあれは何でもしてしまう」人間を作ってしまう。
(2000/8/25)

再び臨界超過事故について

 東海村の核燃料工場での事故については、10月2日以降のニュースを聞くにつけ、あきれかえってしまう。安全性を無視した「ウラマニュアル」などというものがどうして存在し得たのか。また、科学技術庁等の関係者の発言で「原子力発電所以外のところで臨界量に達する可能性については想定していなかった。」などと言っているがどこからそんな結論が出てくるのだろう。核燃料工場においても当然人間はミスをするし、もし、悪意を持った者が、核燃料を勝手に操作したらどんな事になるか等を考えなかったのだろうか。核燃料を重油と同じように考えているのだろうか。既に書いたように、核燃料工場などでは、臨界量を超えさせようとしてもできない仕組みになっていなければならない。そうでない施設を認可した科学技術庁の責任は重い。さらには、しゃにむに原子力発電を押し進めるため、原子力発電所の安全性だけに金を掛け安全性を宣伝してきた政府の責任も重大だ。そのため、付帯する施設の安全性が無視され、こんな事態を招いた。
(1999/10/4)

臨界量超過

 茨城県東海村の核燃料工場で全く信じられないような事故が起きた。核燃料が臨界量に達して制御不能の連鎖反応が起きたのだ。幸い、液体だったのでネガティブフィードバックが掛かって大爆発には至らなかったが、ぞっとする話だ。核燃料を原子炉以外のところで臨界量以上に集積してはならないということは、核燃料を扱う上で基本中の基本、鉄則の中の鉄則のはずだ。だから、そういった工場では、仮に人間がミスを犯しても、あるいは故意に臨界量以上を集積しようとしても、そうならないようにしてあるべきだし、そうなっているものと思っていた。ところが全くそのような仕組みはなかったようである。恐ろしい話だ。核燃料を瞬間的に臨界量以上に集積して連鎖反応を起こし巨大なエネルギーを発生させるのが原子爆弾なのだから。
 それと、この事態を報道するマスコミなどが「放射能漏れ事故」と呼んでいるが、止めてもらいたい。事態を矮小化することになってしまう。事態は「放射能漏れ」といったなまやさしい言葉でよばれるようなことではなく、ミニ核爆発事故とも言えるような、もっと、根本的に深刻な事態なのだ。
 科学技術庁長官の「(事故を起こした当事者は)技術者としてのモラルに問題があった」とのコメントはいただけない。むしろ、当事者の根本的な認識の間違いとシステムの設計ミスの問題だろう。認識やシステムの設計ミスの問題をモラルの問題にすりかえてはならない。上に述べたように、「臨界量超過は起こそうとしても起きないシステム」になっていなければならない。
(1999/10/1)

クローン

 ドリーというクローン羊以来、クローンについて、いろいろと問題になっている。特に、農水省が、クローン技術による肉類をそれと明示せずに売ることを許している。これは、なぜだろう。なぜ、個々の消費者の選択の自由を奪うのだろう。何を好むかは個人の自由だと思うのだが。情報公開が叫ばれている昨今、なぜこんなことがまかり通るのであろうか?ちゃんと公開して消費者の選択の自由に任せればよいと思うのだが。
 上記のようなことを書くと、クローン反対のような印象を持つ人もいるかもしれないが、私自身は、なぜクローン技術がこんなにも忌み嫌われるのかも分からない。妙に怖がる人もいるが、これまで、動物や植物で無数の掛け合わせが行われて、新種の動植物が作られてきた。これには何の疑問も抱かずに、クローンを恐がるのでは、支離滅裂といわざるをえない。掛け合わせの場合、できてくるものはもとになった二つの親とは異なる遺伝子を持つ訳で、これこそどんな危険な生き物ができるか分からない。クローンの場合、既に存在する親の遺伝子をそのまま持った生き物であるから、むしろ得体が知れている訳であり、それをどうして怖がるのであろうか?確かに、まだ、技術的に未熟な面があるが、これはクローンそのものの問題ではない。
 人間のクローンにしても、もし技術が確立すればそれほど問題があるとも思えない。避妊をしたり人工受精をしたりするのとどこがそんなに違うというのだろう。ただの、年の違う双子にすぎないのに。もちろん、同じ遺伝子を持った人ばかりになるといろいろと問題が出てくるが、そうでなければなにがそんなに問題なのであろうか?
 クローン人間を嫌がる人は「クローン人間は正常な人間でない」と考えているふしがある。ここが根本的に間違っているのではなかろうか。どういった手段で生まれてこようとも人間の遺伝子をもち人間とコミュニケーションができれば人間だ、とは思わないのだろうか?これは、人種差別と同根の問題を含んでいるように思える。そして、農水省のお役人も「クローンは正常でない」と思っていて、「国民には隠しておかなければ」と考えているのだろうか。
(1999/9/22)

奇跡人間の都合

 先日、増水で川の中州でキャンプをしていた人が流された。そのとき、ある赤ちゃんを川の近くの住人が命懸けで助けることができたことが報道された。この報道で、記者かアナウンサーかがしきりに「奇跡がおこり」を連発していた。例えば宗教的な話で「奇跡」がよく出てくる。非常に都合よく希なことが起こったらさも神秘的なことが起きたように「奇跡」言い立てる。しかし、これは単に「自分に都合がよい」と言っているに過ぎない。事象に対する非常に身勝手な人間の解釈でしかない。不都合なことが起こったら神秘的とは思わないのか、「奇跡」とは言わない・・・それが「奇跡」と呼ばれる事象と同程度に希と考えられることであっても。
 実は世の中に起きるどんな事象も同程度に希で奇跡的なものだということに気が付いていないのではないか。
(1999/8/18)

理由の呪縛

 宮部みゆきの「理由」という推理小説が直木賞を取ったが、まだ、読んでいない。「理由」という言葉で思うのは、人は何と「理由」を知りたがる生き物であるか!ということである。何か(特に不都合なことが)起きるととにかく「理由」を知って納得したがる。もちろん、この性癖が、人間をこれほどまでに発展させた要因ではあるのだが。あるがままの事態をとりあえず受け入れるということができず、とにかく「なぜ?」を問う。しかも、性急に答えを要求する。「なぜ?」と考えることは、人間の発展にとって非常に有用であることは確かであるが、その答えを性急に得ようとするのは問題が多い。これが高じると、理由が解らないときに強引にそれをでっち上げる。全能/万能の神様を持つ宗教などはこの例だろう。その時点で理由が解らないことが起きると神様のせいにして納得する。この意味で、この種の宗教の役割は、「簡単に理由が分からないことの理由を探し続けて苦しむのを円満に終了させ、より生産的な方向に向かわせる」ということにある。しかし、今解からないことに安易な解決を付けず将来解決するべき問題として保持しつづけるということが無ければ進歩・発展は望めない。
(1999/2/26)

眼から鱗(ローレンンツ力の仕事)

 やや自慢めいた話であるが、数日前、高校生の息子が、「ローレンツ力の磁界は仕事をせんよなあ?」と言い出した。ローレンツ力とは磁界中を運動する荷電粒子が受ける力のことである。例えば磁界中を電子が走ると軌道が曲がることは、テレビのブラウン管の偏向コイルなどで利用されている。私は、そんなことを頭に浮かべ、電子の軌道が曲がるということは電子に何らかの仕事をしてるので、磁界は仕事をしていると答えたが、息子は「磁界が荷電粒子に及ぼす力は、荷電粒子の運動方向に直角だから、仕事をしていないはず」と反論する。考えてみれば確かにそうなのである。たいていの場合、物体が力を受けながら動くと仕事をされたことになるが、その先入観で判断してしまっていた。(実は、息子の学校の物理の先生もそのようである)
 これは実に虚を衝かれた感じであるというのは、私自身は30年以上も昔ではあるが、工学部の電気工学科出身で、学生時代マクセルの電磁界の微分方程式を何度も解き、ローレンツの法則も知っていたはずで、電磁気学については高校生などより遥かに良く解っている積もりであった。ところが、ローレンツ力についてエネルギー的に考えた記憶が無いのである。上記の事実は考えてみれば全く当たり前のことで(下の解説参照)あるが、「眼から鱗が落ちたような」を実感した。つまり、ローレンツ力とは、摩擦の無い束縛なのである。

[解説] ローレンツ力を、粒子の電荷をq、速度を磁界の磁束密度をとし、ベクトルの内積を「・」、外積を「×」で表すと、

  =(q×)/ζ

の形になる。つまり、力は速度にも磁界にも直交する。仕事は速度と力の内積

  
 =・(q×)/ζ
 =0(この場合直交するので0になる)

を時間で積分したものであるので、積分結果も0となる訳である。

[荒唐無稽な想像] もし2次元の世界があったらローレンツ力はどうなるのだろう?速度にも磁界にも直交する第3の方向は存在しないのだから。点電荷による電界は、(1/r)に比例することになるのだろうか?すると、点電荷から有限の距離のポテンシャルエネルギーは無限大になりそうである。
(1999/2/17)


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