一般社団法人日本感染症学会
理事長 館田一博
一般社団法人日本環境感染学会
理事長 吉田正樹
上記の見解は感染症専門家としての科学的な見地からではなく、政府あるいは行政の特定の集団の権益に添ったものだったのではないか。そもそも、「ウイルス性肺炎を強く疑う」状況では抗原検査でもほぼ間違いなく新型コロナであることを確認でき、PCR検査の意義は低下する。無症状や軽症のときにこそPCR検査が力を発揮する。専門家としてその程度のことは解っているはずだ。
オミクロン株について「季節性インフルエンザと同様の扱いにすべきではないか。」という意見が結構あるが、この例から、それが間違いであることがはっきりした。
季節性インフルエンザと同等の扱いにできるのは、
- 正確で手軽な感染検査キットがある。
- 効果的な治療薬がある。
- 後遺症に有効な治療方法が存在する。
という状況になってからだ。
(2022/03/16)
館田一博氏のことを少し調べて見て驚いた。無症状者や軽症者に対するPCR検査に否定的であっただけでなく、ワクチンについては大々的な推進をしていて、「感染・発病・重症化防止に非常に効果があり、若い人も友人や親や祖父母などに感染させないためにも、(社会的責任として)是非接種した方が良い。」といった趣旨の発言をしていたらしい。上記で「アレルギー体質だったのなら未接種はしかたない。」との趣旨のことを書いたが、自分が接種していないのであれば、少なくとも「自分はこれこれの(社会的な責任から逃れる)合理的な理由で接種していない。」ということが説明できるのか。「自分は(リスクがあるから)接種しないけれど、皆さんは(社会的責任として)接種してください。」とは、デタラメにも程がある。こんな人は即刻国民に影響力のある立場から追放するべきだ。
(2022/03/17)
東名あおり運転夫婦死亡事故の差戻審が開かれたが、被告側は無罪を主張したとのこと。そもそも、この裁判は1審の裁判手続きの誤りにより差し戻されたものだ。一審では審理が始まる前の公判前整理手続きで、横浜地裁の裁判官は、「危険運転致死傷罪の成立は認められない」との見解を文書で提出していて、このことが裁判手続き上の違法行為になっていた。
筆者としては、そもそもの一審裁判官の「危険運転致死罪が成立しない。」という見解に大いに疑問を持つ。危険運転致死罪は
危険運転致死罪第二条には
4.妨害運転致死傷罪
人または車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人または車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為
とあって、裁判官はこの適用が出来ないと判断している。この判断の根拠は事故当時車は動いていなかったので、「重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為」に当たらないということらしい。ちょっとマテ!と言いたい。「速度」というのは動いているときだけに定義されるものではないし、高速道路の追越車線で停止させるということが「『重大な交通の危険を生じさせ』ない」という認識が馬鹿げている。高速道路の追越車線で速度0にするということは重大な交通の危険を生じさせる速度だ。正に、裁判官の状況認識・理解能力の欠如と愚かさを表している。そもそも、高速道路で停止すること、いわんや、追越車線で停止(速度0km/h)することは道路交通法で禁じられている。なぜ禁じているかは、「重大な交通の危険を生じるから」に他ならない。こんなことも理解できないのは裁判官に成るための教育が法律文の解釈などのみに終始して法律の制定目的・趣旨を理解せず、条文をひねくり回す技術のみに終始して、現象の合理的な認識・理解・判断をするための教育が無い、つまり、HowTo(技術)ばかりでWhy(科学)を教える教育がなされていないことによると考えられる。その弊害が現れたということであろう。裁判官(のみならず、警察、検察などの法律に関わる者)はもっと現象・現状の認識・理解能力・論理的思考能力、言い換えれば科学的・合理的思考・判断の訓練を受け、その習慣をつけるべきだ。
実は、科学を理解する必要があるのは法律に係わる人のみではなく科学技術で成り立っている現代に生きる全ての人についても言えることなのだが。
(2022/01/28)
AT車のシフトパタンの不合理性については以前に書いたが、バイクのアクセルの構造も不合理だ。アクセルは右ハンドルの先端側から見て左に回すと加速になる。これは、ライダーから見ると手を手前に引く方向なのだが、これは危険だ。何かの拍子に加速したら慣性により体が後ろに引かれて加速方向にアクセルグリップを回す結果になる。つまり、正帰還になるので益々加速して事故に至る可能性がある。特に初心者でこの事故を起こす場合が多いように思う。実際、初めてバイクに触った人でこの状況に陥った例を見たことがある。逆に回す構造になっていれば、負帰還機能により減速になり事故に至らない可能性が高い。
ネットを見ると
- 前に回したら重心が前にいくので不安定になる。
- スポーツバイクで高速ライディングだと伏せて乗るので、前には回しにくい。
- ブレーキングの際には、アクセルを戻してブレーキレバーを握るという操作が自然でやり易い。
- 上記のような理由を示して「今の仕組みでないと事故が増える。」と主張する。
などとして、危険性をいう主張に「バイクについて無知だ。」とする意見があるが、1.は手首をひねるくらいの動作で重心が移動する可能性は低いし、もしそうならば現行の仕組みで手前に捻った時にも重心の移動が生じて拙いのではないか、との疑問が生じる。2.は普通にバイクに乗る場合とは違う話だ。3.に関しては一応の合理性があるが、ブレーキをかけるとアクセルが戻るような仕掛けを付ければ良い話だ。4.の意見もバイク乗りから出ているようなので、今まで慣れてきた仕組みを肯定したいというバイアスが掛っているように見える。
なぜ、こんな不合理な構造になったかは、ATのシフトパタンと同様の理由なのではないかと推測している。
(2022/01/26)
YouTubeのページで、キャスター輪に掛けられる加重について「4個付けているので1個の4倍」というような説明をしていた。これは間違いだ。4個で4倍になるのは、キャスター輪の取付が完全平面でかつ床も平面の場合‥常に4点が床に接地している場合のみだ。そうでない場合は3点支持になったり、場合によっては2点支持になる場合もある。
上記のような場合を考えれば、4個取付ても2倍として計算した方が安全だ。更に、床を転がす場合には、段差等による衝撃力が加重の数倍になることも考えられ、安全係数を4〜5に採るならば、4個付けた場合も1個分の耐加重程度で考えた方が良いこともある。
結局、使用状況(加重の性質、床の性質、運用の仕方など)を考慮しなければキャスターの耐荷重は簡単には決められない。
(2022/01/22)
テレビで長嶋一茂がチェロを弾いていた。武道館で披露するとのことでちゃんと習っているらしいが、弓の持ち方がまるでダメだ。ちゃんとした弓の持ち方にすれば、ずっと上達すると思われるのだが。チェロの先生は持ち方の指導をしていないようだ。想像するに、弓の持ち方がちゃんとしたものになると上達し過ぎてテレビ映像的に面白くなくなるので、テレビ局の方針でわざとそのままにしているのではないか。
チェロ弓の持ち方をネットで調べてみると、内容的には似たようなものがほとんどだが、力学的な観点からの説明が不足しているように思える。特に、親指の位置について、なぜ中指と薬指の間辺りに来るように持つかの合理的な説明が充分でない。
弓を適切な圧力で弦に当てるには力学的な支点が手の中にある方がコントロールし易い。その時の支点が親指になるので、力点(人差し指)が支点(親指)より弓先側に無いと圧力を加えられない。上記の持ち方にしていないと支点は手首や肘の関節になってしまい微妙なコントロールが困難になる。それと、上記の持ち方にすることにより、弓を大きく引いた時に自然に手の甲が左に捩れる形になるので自動的に弓先に圧力が掛り弓の弦に対する圧力の減少が防げる。
上記のような力学的なことを踏まえて弓の持ち方を指導すれば、恐らく、初心者も要領が掴み易いのではないか。筆者は始めから上記のような力学的な観察をしていたので弓の持ち方は独学の時から問題無かったようで、後に習い始めても弓の持ち方で注意や指導を受けたことは無い。
(2021/11/19)
何度聞いても気持ち悪い。「けど(けれど,けれども)」は逆接の接続詞なので、これに続く文は否定形または否定的な内容の文のはずだが、そうなっていない。
多分、「喋らなきゃならないけれども喉がすっきりしないので、喉をすっきりさせたい。」と言いたいのだろうが、中間部分が欠けているので、文の論理的な構造として前半と後半が不整合になっている。気持ち悪い。
(2021/10/20)
和歌山市の水道管橋が崩落した。耐用年数の3,4年前の突然の崩落は驚きだ。なぜ、崩落したかはまだはっきりしないが、崩落の動画を見ると、始まりはアーチ構造の中央部の加重が突然消失した

ことのように見える。中央部の加重が消失することにより、周辺部の垂直加重に対する抗力が消失して周辺部分から崩れ落ちている。アーチ構造は加重を全体に均等に掛けることにより、垂直加重をアーチ端のアーチの円周方向の圧力に逃がす力学的構造になっているので、一部でも加重バランスが壊れると全体の破壊を生じる。
(2021/10/06)
野菜のコーンは日本語では「とうもろこし」というが、以前からこの呼称はおかしな呼称と思っていた。「とう」は中国のこと(昔、古文で習った)だし、「もろこし」も中国のことと思っていた(これも古文で習った)。なので「中国中国」と言っているのと同じだ(と思っていた)。
ところが、「チコチャンに叱られる」というテレビ番組で「とうもろこし」のひげが話題になったときに調べて見ると、現代語において「もろこし」はイネ科の一年草のコーリャンのことだと判明した。つまり、「中国のモロコシ」という呼び名のことなので同じことを二重に言っているわけではないということだ。これで長年の違和感が払拭された。
(2021/10/02)
政府は、ファイザーやモデルナのワクチン供給が不足している現状で、これまで、日本人への接種を控えていたアストラゼネカ製のワクチンを使用する方針を決めた。それはこの状況ではやむを得ない選択かもしれない。しかし、非常に奇妙なことにアストラゼネカ製のワクチンは40才未満には使用せず、40才以上に使用するとのことだ。海外の調査結果では、アストラゼネカのワクチンの副反応の血小板減少症候群で死亡した数は40才台が最多、50才台が2番目、60才台が3番目でその後に30以下の死亡数が来る。このデータからすると政府の方針とは逆に40才以上は避けるべき年齢だ。政府のやることには全く合理性が無い。バカのやることは理解不可能だ。
(2021/08/06)
ついに、経済産業省が原子力発電より太陽光発電の方が経済的だと言い出した。もちろん、太陽光発電技術の発展もあるだろうが、以前に「原子力発電は経済的」と言いつのっていたのは、廃棄物処理や安全対策、事故が起きた時の対応、そして政府から落ちる莫大な補助金のことを無視、いや隠しての嘘の計算に基づくものだったのだ。
福島の事故以来、上記によって生じる不経済が露呈して、結局「原子発電は不経済」ということを認めざるをえなくなったのだ。それでも今の政府は原子力利権にかじりついて「原子力は重要なベースロード電源」などという誤魔化しのキャッチフレーズで原子力を推し進めようとしている。どこまで薄汚い集団なのか。
(2021/07/13)
新型コロナワクチンの2回目の接種をした。ワクチンは筋肉注射であり、1回目は全く問題無かった。しかし、今回は疑問が生じた。前回は針が刺さる時にちょっとチクッとしただけで、ワクチンを注入するときは全く判らなかった。しかし、今回は注入時に「!?」と感じる痛みがあった。後で見てみると、注射位置が非常に肩先近くになっていた。
○が前回、←が今回。
日本医師会の
https://www.kyoto.med.or.jp/covid19/pdf/20210226vaccine05.pdf
によると、「注射部位は三角筋の肩峰より3横指下中央の位置です。」とある。今回の筆者の場合、ほぼ「肩峰」の位置だ。
上記のページの図

で言えば、[の上の端つまり「肩峰」辺りだ。注入時の違和感はそれが原因なのではないだろうか。これで「筋肉注射」になっているのか。むしろ、「関節注射」のように見える。医師が「肩峰」を確認した後、「3指位置をずらす」のを忘れたウッカリミスなのではないか。
(2021/05/31)
接種した接種会場に行って(11:59〜12:05)上記の件を問うてみた。回答は、一応位置が高いことを認めつつも「この部分にも筋肉があるので筋肉注射にはなっている。今の症状も副反応の一つと考えられる。」とのことであった。
(2021/06/01)
体温は最高37.7℃までなったが、夜には36.4℃の平熱になった。腕の痛みも夕方にはほぼ無くなって来た。多分、ワクチンは有効に効いているのではないか。
(2021/06/02)
もう少し、調べてみると、
https://www.mhlw.go.jp/content/000764700.pdf
に
注射部位は三角筋中央部で、穿刺部位は肩峰から真下に3横指程度下の位置が目安になる。上方過ぎるとワクチン関連肩関節障害を、下方過ぎると橈骨神経障害を起こすリスクがある。
ともあった。今のところ、特別な症状は出ていないがどうなのだろう。
(2021/06/03)
筆者はMT車で免許をとって、45万kmあまりMTに乗り、その後、ATに乗り始めて2021年5月現在、既に20万km以上走った。ずっと疑問に思うのは、ATのシフトパタンだ。前の方から、P−R−N−D−Lとなっている。
- まず、シフトが一直線になっていることだ。中にはクランクのつなぎ合わせになっているものもあるが、大多数は一直線だなので、RやP,Lに入れるときは付属のボタンを押しながらでなければならない。ところがN→RとR→Pは同じボタンを押しての同じ操作になる。また、L→DとD→Nはなにもしないでレバーを前に押すのみなので、L→Dのシフトが勢い余ってNまで行ってしまうことがある。MTのようなシフトパタンになっていればそういった事故は起こらないし、手の感覚だけで、どのシフト位置にあるか判る。ATの場合は、前方から視線を移してシフトレバーあるいはメーターパネルの表示を目視する必要があり、安全上問題が生じる。なぜこのような不合理な仕組みになっているのか。
- 前に押すとRやPになり、後ろに引くとDやLになっている。人間の自然な感覚なら、前に押すと前進し、後ろに引くと後進になる、というのが合理的と思うが。なぜ、こうなってしまったのか。
- 最近知ったのだが、プリウスなどのハイブリッド車はシフトレバーがシフト位置に関わらず、センター位置に戻ってしまうらしい。益々、不合理な仕組みに劣化している。なぜ、こんな方向に進んだのか、そもそも、なぜレバーをセンター位置に戻す必要があるのか意味不明だ。「シフトがどの位置にあるかは見やすい位置にディスプレイがあるのでそれを見れば判る。」と言う意見もあるが、人間の視覚の焦点深度は深くないので、ディスプレイを見るときと運転のために前を見るときは眼の焦点調節をしなければならず、眼に負担がかかる。特に、眼の機能が衰えている高齢者には負担が大きい。ユーザーインターフェースとしては最悪の部類に入るのではないか。自動車メーカの技術者は人間と機械のインターフェイスに関するセンスが無い人ばかりなのか。
これと似た改悪に、カーエアコンの強度調整がレバー式になっているものがある。
- 動かすときに支点が無いので、細かい調整がし難い。
- レバー位置が目視しないと判らない。
これは、現在乗っている車はダイヤル式なのであまり問題は無いのだが、以前のものはレバー式だった。
同様な改悪は、台所のガステーブルにもある。点火がボタン一つ(点火も消火も押す)になっていて危険だったり、火力調整がレバー式になっていて支点が無く細かい調整がし難く、更に何かが引っ掛かって位置がずれる可能性がダイヤル式より高いものがある。
不合理な仕組み
ATのシフトパタンが直線的で手前に引くと前進になるようになっているのは、恐らく、最初にATを作ったときに油圧や電気回路によるメカニズムが無く、ワイヤー式の伝達機構だったからではないか。ワイヤー式だと張力しか伝えられないので、手前に引く形にした方がワイヤーを支点の下側に張ることができ、デザイン的、メカ的に作りやすかったのではないか。
(2021/05/26)
筆者の車はホンダMobilioという車種で、駆動系は[CVT+湿式多板クラッチ]になっている。この車の運転では信号停止などの停止時にギアをニュートラルに入れている。これは筆者としては、D−レンジでの停止時の半クラッチ状態を避けることにより、クラッチの寿命を伸ばそうとの意図がある。ところが、ネットでは「AT車の停止時ニュートラルシフトはトランスミッションの故障につながるのでやってはいけない。」と書いてあるものが多い。ただし、良く読んで見ると、これは液体トルコン車についてのものであり、[CVT+湿式多板クラッチ]車には当てはまらないのではないかと考えていた。これは正しいのか。
ネットで調べて見ると
ホンダのCVTはスタートクラッチシステムという電磁ソレノイドバルブに依る湿式多板クラッチを使用しているので、(停止時−Nレンジの)悪影響は有りません。
という記事があった。少なくとも、メカ的に悪影響はなさそうである。しかし、
「ニュートラルアイドル制御」の導入が近年進んでいる。「ニュートラルアイドル制御」などは手動によるN→D操作より負荷の変動をさせることなくスムーズに発進できる制御もなされているからだ。
という理由で、停止時ニュートラルは必要無いと書いてある。確かに、モビリオでD−レンジに入れたまま停止していると、最初はエンジンの振動が大きいがしばらくするとエンジンの振動が低くなる。これはクラッチの接触圧が下がってエンジンに対する負荷が減ったことによると推測される。ただ、これでも半クラッチ状態は続いているには違いは無い。筆者のように停止前にN−レンジに入れると直ぐにエンジンはアイドリング状態になり、エンジンの振動はほとんど感じなくなる。D−レンジのまま停止していても、N−レンジで停止していても、エンジン回転数は750rpmに保たれたままなので、D−レンジで停止しているときは摩擦に打ち勝って750rpmを保とうとしてガソリンを多く供給しているはずであり、多少なりとも燃費の悪化を招いていると考えられる。筆者の場合、発進は[(N−レンジから)D−レンジシフト<同時>ブレーキ解除→車の動き出しを確認→アクセルを踏む]という手順で発進操作をしていて、発進時は極めて円滑である。
ATにおけるN−レンジ使用に否定的な意見として
Nにしておくと、発進の際、ついDに戻すのを忘れてアクセルを踏む→発進しないので焦ってさらに踏み込む→エンジン回転が上がった状態でNレンジのままであることに気付き、慌ててDに入れる→急発進して追突
ということがあるので危険という意見もあるが、そんな事故は本当に多いのだろうか。そもそも、筆者のように、[(N−レンジから)D−レンジシフト<同時>ブレーキ解除→車の動き出しを確認→アクセルを踏む]という手順で発進操作をやっている限り上記のようなことはまず発生しないと考えられるし、からぶかしのままDに入れるなどというのはトランスミッションなどに悪影響があるのでやらない。何かの拍子で空ぶかしをしてもアクセルを戻してからシフトする習慣だ。こういった発進操作で発進のタイミングが遅くなり後続車に迷惑が掛かるという意見もあるが、上記の発進の仕方で並走する車に発進で遅れを取ったことは無い。ただし、筆者は急加速はしないので、発進で遅れをとらなくても次第に遅れるということは良くあるが。
そもそも、発進時に動き出しの方向も確認せずにいきなりアクセルを踏むというような運転は危険だ。
(2021/03/22)
2018年エネルギー基本計画が環境省のホームページに掲載されている。これは、カーボンニュートラルを目指して策定されたらしいが、原子力発電については、未だに、嘘を平気で書いてある。(青字)
この計画を見ると、カーボンニュートラルは口実で、原子力発電をとにかく推し進めたいという魂胆が見えみえだ。
「2030年度には再生可能エネルギーの導入促進や、原子力規制委員会により世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた原子力発電所の再稼働を通じて、‥‥」
原子力規制委員会の「実用発電用原子炉に係る新規制基準の考え方について」の最初のところで、「原子力規制委員会の独立性・中立性」を謳っているが、これまでの規制委員会の姿勢は、如何にして原子力発電所の再稼働をするかに向っているように見える。
原子力規制委員会の委員の選出には、原子力についてどのような見解を持っているかを明確にして、推進側に偏らない人選が必要だ。
「運転コストが低廉で変動も少なく、運転時には温室効果ガスの排出もないことから、安全性の確保を大前提に、長期的なエネルギー需給構造の安定性に寄与する重要なベースロード電源である。」
まだ、こんな嘘八百を並べ立てている。日本のような狭い国土で原子力発電所を設置するために必要となる費用は、当該自治体に対する莫大な補助金や、安全対策、放射性廃棄物処理そして、福島のような事故が起きたときに必要になる気が遠くなるような費用と時間を考慮すれば、「低廉」どころか「非常に高価」な発電方式だ。更に、「長期的なエネルギー需給構造の安定性」も、原子力発電のような集中的巨大電力供給施設は、一旦、発電所あるいはその周辺施設で事故が起きて送電が急停止すると、電力網への影響が非常に大きく、ドミノ倒しのような連鎖的な発電所の停止を招くことは、北海道の例からも証されている。また、「変動も少なく」は実際は「急な負荷の変化に着いて行けない。」と言う事であり、それを「重要なベースロード電源」などと言う耳当たりの良さそうな言を弄して誤魔化そうとする姿勢は詐欺に近い。むしろ、小規模な分散型の電力供給網の方が安定的な電力供給に向く。
「日本の場合、豊富な海岸線を利用しての風力発電や波力発電、潮力発電に太陽光や地熱発電を組み合わせるのが最良と考えられる。
我が国の排他的経済水域に豊富に眠ると見られているメタン89ハイドレートや金属鉱物を商業ベースで開発が進められるようにするための技術開発を中長期的な観点から着実に進めていく。」
この方向性は良いが、「中長期的な観点から着実に進めていく」という表現からは、いかにも及び腰で本気で、国防上の緊急事項として進めるという姿勢が感じられない。この分野こそ、中国などに先を越されないように今の内に喫緊の課題として全力で開発を進めるべき分野だ。
(2021/03/07)
日本原子力発電と関西電力が2018〜2021年度に福井県敦賀市に15億円もの提供元が載らない形の寄付をしていたそうだ。日本原子力発電には政府からの税金の投入が東京電力を経由して注ぎ込まれている。関西電力にも国の税金から電源立地地域対策交付金などさまざまな交付金が投じられている。結局、国民の税金を不明朗な形で原子力発電に回していることになる。こういった金を含めると「原発の運転コストは低廉」が嘘八百であることは明白だ。
(2021/03/08)
以前にネット上でツェノンのパラドクス紛いについてある人と議論した際に松野浩一郎氏が現代的な微分の概念を理解していないのではないかとの疑いを持ったが、松野氏の主張の元になっているのが村上陽一郎という東大教授の科学哲学者の主張だと言っていた。思い立って、村上氏の主張を調べて見て仰天した!。村上氏の主張は以下の通りだ。
瞬間速度という概念が、微分という便宜的な算法を使わずには成り立たない、あるいは概念上の困難がある、ということを前回に述べた。日常的な考えに従えば、速さという概念は、あくまで一定の時間が定義されたとき、その時間内に移動する距離との比によって与えられるものだからであり、「瞬間」である限り、そこには一定の値を持つ「時間」が定義できないからである。
それを微分を使って切り抜けて、見事に成功をおさめたのが、近代力学であった。しかし、そこに争い難い問題が残ることも確かである。
それは結局時間幅をゼロに近付ければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離のほうだけはゼロにならない、という微分の言い抜けである。
(村上陽一郎、科学哲学の窓:時間を巡って、『図書』1999年3月号、58-59頁より)
この人は1次関数計算もできない人なのか!あるいは頭がおかしくなってしまったのか。これでよく東大教授、それも科学哲学の教授になれたものだ。例えば、距離f(t)が、f(t)=ktという場合を考えてみれば簡単に解ることだ。高校数学での微分は
{f(t+Δt)−f(t)}/Δt
で、Δtを0に近づけた時にどうなるかと言う計算になる。f(t)=ktの場合上式は
kΔt/Δt
となり、分母(時間幅)が1/100になれば、分子(移動距離)も1/100になり、分母が1/1010 になれば、分子も1/1010 になって、決して「時間幅をゼロに近付ければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離のほうだけはゼロにならない。」などと言う事にはならないことは中学生でも解る。どこでこんな高校生でも間違いを指摘できるトンデモナイ誤解をしたのだろう。この人は数学を道具として使う技術は習得したが、数学を理解はしていなかったのだろう。
現代の微分は、0/0などという破綻の無いε−δ論法を使った定義になっている。ε−δ論法は大学の理系の数学で習ったはずなのだが、高校レベルの微分も理解できない村上氏には大学レベルのε−δ論法を使った微分の概念が理解できなかったらしい。同氏が「哲学」に走ったのも、大学レベルの数学や物理学を理解することが出来なかったからではないか。
村上氏は教育行政に深く関わっているらしい。そして、科学知識を過度に相対化※する傾向にあるようだ。こんな人が教育行政に関わっていて、まともな科学教育を推進できるのか。
※ 相対主義者は、真理が各社会やそれぞれの方法論的アプローチにとって、また各個人によってすら、異なっているかもしれないし、また事実しばしばそうであるとする。
真理の相対化の問題点は科学的真理が常に実験その他による検証によって観測との整合性を確認されていることを無視していることである。例えば、病気を怨霊が原因とするか細菌が原因とするか、それぞれが「真」であるとして、病気に対する効果的な治療法はどちらの立場が得られやすいかを考えれば明らかである。「細菌を殺すあるいは細菌の活動を止めることにより治療できた。」という事実を受け入れるならば真理の相対化が間違っていて科学的真理の方が常識的な意味の真理に近いということになる。
(2021/03/04)
福島第一原発3号機の地震計2台が故障したまま放置されていて、2月13日の震度6強の地震のデータを取れていなしことが判明した。昨年には故障していたが放置されていたとのこと。原発建屋の劣化の程度を調べる重要なデータが取れなかったのだ。東京電力の無責任さがまた露呈した。こんな会社に原発は任せられない。
(2021/02/23)
さるビーガン推進のキャンペーンの勧誘に下のようなことが書いてあった。
動物にも、人間と同じように恐れや不安を感じる気持ちがあるのです。動物の命を蔑ろにすることが許される程、人間ってそんなに偉いのでしょうか。
この人は大きな勘違い/間違いをしている。人間が肉を食べるのは人間が偉い(キリスト教では人間は「偉い」存在らしいが)からではない。人間が雑食性だっただけの話だ。肉食動物が他の動物の肉を食べるのも「偉いから」ではないのと同様だ。この人は「偉い者」は「偉くない者」を殺して良いと考えているふしがあり気持ち悪い。考え方のベースに「人間は特別だ」と考えるキリスト教の影響下にあるように感じる。
世界的な食糧危機に備えて哺乳類食や鳥類食よりも効率の良い昆虫食(筆者にはかなり努力が必要だが)や植物食を進めるのは意味があるとは思うが、上記のような考え方はおかしいと思う。
(2021/02/23)
COVID-19ワクチンがかなり有効であることが判ってきて、各国で輸入されている。既に、輸入の争奪戦の体をなしている。ファイザー社のワクチンの製造工場があるベルギーを含むEUはワクチンをEU外に出すことを制限する方向にあるようだ。こうなると菅義偉の言うような日本での迅速なワクチン接種が可能かどうか怪しくなってくる。
日本は食料やエネルギーなど国民の生命線となるものを輸入に頼っていて、ワクチンも自国生産に力を入れず、輸入に頼ろうとする姿勢は相変わらずだ。
日本のワクチン開発に掛けた/掛ける予算は2020年度で実質1000億円、2021年度は「ワクチン・治療薬の開発・安全性の確保等」に1606億円つまり実質開発費はおそらく1000億に満たないのではないか。2021年度の防衛費5兆3000億円余りに対してあきれるほど少ない。今、現実にあるコロナ危機に対して予算を投入せずに今すぐ必要ではない防衛費に莫大な予算を投入し、これで国民を守るなどと見当外れをやっている愚かさ。今は、防衛費を削って国産ワクチン開発に力を注ぐことが実質的な防衛になる。そもそも「防衛」を「戦争する」ことと勘違いしている輩が政治をやっているからこんなことになる。
食料にしろエネルギーにしろワクチンにしろ、他国に頼らないで供給できる体制を作らないで「国民の生活と命を守る」などというのは噴飯ものだ。
(2021/02/05)
ワクチンの接種スケジュールは当初の計画よりかなり遅れる見通しだ。既に、ワクチンの取り合いと供給側の調整が始まっている。この状況下で7月までにワクチン接種者が数千万人になるとは考えられない。オリンピックは無理だろう。
(2021/02/19)
中国が中国産の不活化ワクチンを武器に各国に進出している。正に、ワクチン戦争の体をなしてきている。これに対して日本はどう対処するのか。日本政府は「国防」という意味で非常に無力だ。
もし、日本が十分な予算を投じてワクチンを開発製造できていれば、各国に提供することにより、世界での有利な地位を獲得できていたはずだ。これこそ「国防」だ。「国防」を武力と勘違いしている愚か者が支配している今の日本政府では絶望的だ。
(2021/02/24)
コロナワクチンの接種が微々たるものではあるが始まった。ところが、既に5件の廃棄があったとのこと。東京八王子では予約者が接種に来ずに2件の廃棄があったとのこと。予約者が状況の変化で来れなくなることは当然考えられることなのだが、なぜ、「補欠候補者」のようなものを指名しておかなかったのだろう。こんなことは誰でも判ることだと思うが。八王子市は「公平性に問題が生じる。」のような言い訳をしているが、補欠候補者を指名することがどのような「公平性の問題を生じる。」というのだろう。不可解な話だ。報道によると八王子市では医療関係者のワクチン接種率(一度でもワクチンを接種した人)が16%とのことで、その状態で高齢者に接種を始めたらしい。結局、政府がワクチン輸入の失敗を糊塗したい余りに、一般人の高齢者への接種を強引に始めさせたというのが実情らしい。どこまで腐った政府なのか。
(2021/04/13)
山中伸弥氏、本庶佑氏ら4名のノーベル賞学者が新型コロナ対策について提言をした。
- 医療機関と医療従事者への支援を拡充し医療崩壊を防ぐ。
- PCR検査能力の大幅な拡充と無症候感染者の隔離を強化する。
- ワクチンや治療薬の審査及び承認は独立性と透明性を担保しつつ迅速に行う。
- 今後の新たな感染症発生の可能性を考え、ワクチンや治療薬などの開発原理を>生み出す生命科学およびその社会実装に不可欠な産学連携の支援を強化する。
2.について羽鳥慎一モーニングショウで、本庶氏は「補助金をばらまくより、検査にお金を使うほうがコスト的にも社会的にも有効。」と発言されていた。誠にもって正しい意見だと思う。感染症学者の岡田晴恵氏もずっとPCR検査の拡充を言っていた。それによって成功している台湾などの事例があるのに、なぜか政府は検査体制の拡充に後ろ向きだ。このことは、既に、昨年の3月ころからずっと言われていたことだ(もっとも、「検査を拡充すると医療が逼迫するので間違い」などという見当はずれの意見をネットに公開していた人もいたが)。また、コロナ専用病院と通常医療の病院を分ける。コロナ専用病院を作って感染者を隔離するとともに、効率的な治療体制にすることも重要だしこれも以前から言われていたことだ。それにはオリンピック村を使えば良い。森喜朗他政府も未だにオリンピック開催に固執しているが、既にオリンピックが開催できる状況にないことは明らかだ。厚生労働省の上層部には科学的・合理的判断をする能力がある人物が居ないらしい。まさか、文系の科学的思考ができない輩ばかりではないと思うのだか‥‥。
(2021/01/14)
そもそも、原子力発電は経済的でなく、事故が起きた時の対応が非常に難しいのに加え、
- プレート境界上にあって、何時、巨大地震が起きてもおかしくない地震国であること。(世界全体に占める日本の地震発生割合は,国土面積は世界の0.25%に対しマグニチュード6以上の地震回数で20.89%)
- 活断層が多く、どこに隠れた断層があるか分らないので原子炉直下で地震が起きる可能性も高い。
- 国土が狭いので、立地が難しい上、廃炉になったときに活用できない土地になってしまい、狭い国土を更に狭くしてしまう。因みに福島の壊れた発電所が使える土地になるまでには最短でも100年掛かる(日本原子力学会)ことが試算されている。
- 放射性廃棄物の廃棄場所が無い。海洋投棄は漁業に壊滅的な風評被害を与える。
- プルトニウムの蓄積はテロの恰好の対象になる上、原発やプルトニウム貯蔵施設はミサイルの恰好の攻撃目標になる。核弾頭を積んていないミサイルが、核弾頭と同様の効果をもたらすことになり非常に危険だ。
原子力発電は止めるべきだ。一部の政治家は、日本が核兵器を所有するべきと考えていて、そのためのプルトニウム保持を正当化するために原子力発電を推進しているのではないかと疑わせる言動が見られる。しかし、プルトニウムを保持していても他国の核攻撃には直ぐには対応できない。もし、他国からの核攻撃に核兵器で対抗するのであれば、現に核ミサイル等を製造・配備して置かなければ役に立たない。それは非常に危険な施策だ。
(2020/12/20)
ことし2月に日本原電が提出した原発の真下を通る断層のボーリング調査結果などをまとめた資料の中で、過去に示したデータの一部を削除し、最新の結果のみを記載していたとのこと。首長の文書改竄癖がお仲間に伝染したようだ。
日本原電は「より信頼性の高い内容に書き直そうとした結果で、改竄の意図はない。」と主張しているが、とても信用する気になれない。むしろ、他の原発でも原発推進に都合が良いように、同様の改竄があるのではないかと疑いたくなる。
(2020/12/15)
大飯原発3,4号機運転差止め訴訟の地裁判決が出た。原子力規制委員会はこれまで、起こりうる地震の強さに関して、平均値に基づいて判断して運転許可を出していたらしい。もしそうなら明かに科学的におかしい。原子力規制委員会のメンバーには科学者が多数いるはずだが、こんな非科学的な判断をしてきたのだろうか。これほどまでに曇った眼になってしまった原因は何だったのか。「規制委員会」とは名ばかりで「原子力ムラ」の住民の手先らしい。
(2020/12/05)
原子力規制委員会は、2011震災の後に民主党政権時代に出来たものらしい。この委員会は政権から独立性の高い「3条(国家行政組織法第3条)委員会」という法律的な地位にある。当時、政権だった民主党がそれより緩い「原子力規制庁」というものを提示したところ、野党だった自民・公明党が「独立性が十分でない」と主張して3条委員会としての「原子力規制委員会」ができた。もし、自民・公明が野党でなかったら、元々、原子力を推進してきた自民・公明が3条委員会にするはずが無かったが、とにかく民主党政権の影響力を減らしたかった自民・公明が現在の形にしてしまった。ところが、今の自民・公明政権にとってはこの委員会が3条委員会であることが非常に不都合になってきている。一時の感情で墓穴を掘ったというか自縄自縛になっているというか、愉快な状況になっている。
このように、自民・公明政権にとって扱いにくい委員会ではあるが、この委員会は、基本的に「原子力発電を進めるための委員会」という性格の委員会であって、「原子力発電を廃止するための委員会」でないことは肝に銘じて注意深く監視して行く必要がある。
(2021/01/17)
温室効果ガス低減のために世界中で再生可能エネルギーが注目されている。これまでの政権は温室効果ガス低減を口実に強引に原子力発電を進めてきた。そして、太陽光、風力、水力、潮力、地熱などの発展をむしろ妨害してきた。その結果、日本の再生可能エネルギー普及率は世界の主要国から大きく遅れを取ってしまった。
特に、太陽光パネルについては、かつては世界の55%のシェアを誇っていたが、今はわずか0.7%に落ち込んでしまった。これは政府の後ろ向きの姿勢と妨害があった結果だ。太陽光パネル生産をちゃんと育てる政策を打っていれば、今頃は大きな経済効果を生んでいたはずだ。原爆を作る能力を温存したかった(恐らく)ために原子力発電を推し進めてきた政権の責任は重い。
今の政権もその姿勢を引き継いでいて原発の稼働率が非常に落ちているにも関わらず原発維持を主張している。愚劣だ。
(2020/11/10)
菅義偉首相が所信表明で「2050年カーボンニュートラル」目標を掲げた。カーボンを減らすのは良い方向だが、それを原発推進のために利用している、むしろ、原発推進の口実を作るためにカーボンニュートラルを打ち出したのではないかと疑われる。原発は不経済な上、汚いものだ。福島原発事故の処理もまだ五里霧中の状況を放置して、電力固定価格買取制度の効果を蔑ろにし、原発再稼働する方向でカーボンだけ減らせば良いと考えている。未だに、大手電力会社の手先だ。
(2021/01/24)
この事故の経過は
- 運転者は事故現場付近の左カーブに50km/hを越える速度で進入した。[Wikipedia]
- 運転者の妻「危ないよ。どうしたの?」
- 運転者「あー、どうしたんだろう」
- 縁石に接触
- 加速(これは事実と考えられるが運転者はアクセルは踏んでいないと主張)
- 最終的に120km/h程度
- 3.のところの運転者の発言が最も気になるところで、正常な運転操作をしているのに車が異常な動きをしたので発した言葉という可能性も無いとは言えない。
- 2.の、運転者でない妻の言葉は、不安を感じたことが推測される。
- 高速でカーブに進入した結果、運転は不安定になったと考えられる。この進入直前に運転者は「ええっ!」とか「オオッ!」とか危険を感じた声を発していないようなのが気になる点。
- 後続車の運転手の、事故直前に事故車が車線変更を繰り返しながら加速し、ブレーキランプは点灯しなかったのを目撃したとの証言があるようだが、これは縁石に接触した後のことのようである。
- 高速でカーブに侵入した原因が何かが問題になる。
- アクセル系統の故障とすると、縁石接触前カーブ進入前から起きていた可能性がある。しかし、アクセル系統の異常に運転者が気づいている気配が無いように見える。
- 運転者は「ブレーキを踏んでも止まらないので足元を見たら、アクセルが床に張り付いていた。」と証言しているが、後続車の運転者のブレーキランプが点いていなかったという証言と矛盾している。
- メーカーの主張としてはアクセルを踏んだ記録はあるがブレーキを踏んだ記録が無い(多分EDRの記録)、ということだが、それが縁石接触前か後かは問題になる。後なら、車の異常な動きでパニックに陥った結果の可能性があり、最初の原因は何かが問題になる。カーブ前に異常があったかどうかはEDRでは記録されない可能性があり、EDRの記録だけで、車に異常が無かったという証明にはならないのではないか。
以上の事項を総合してみると、高速でカーブに侵入した直前に運転者の反応が無さそうなところから、車の異常とは考えにくい。車の異常ならその時点でなんらかの反応があるのが自然なように思える。このことからすると、やはり運転者の過失の可能性が高い。普段、スピードメーターで自車の速度を頻繁にチェックする運転をしていたのかどうか。縁石接触後の加速については、パニックに陥ってブレーキの心算でアクセルを踏んだままになったのではないか。
そもそもの問題として、歩くのがやっとのような脚で、とっさのブレーキを力強く踏めるのか。仮に、「アクセルが床に張り付いていた。」としても、充分な踏力でブレーキを踏めば車は減速する。フルブレーキを踏めないような状態では車の運転をするべきではないと思う。
(2020/10/14)
藤井聡太7段が木村一基王位を破って、棋聖と王位の2冠となった。この若者は天才だと思う。天才の特徴と筆者が考えるのは、これまでの常識に囚われない思考や視点を持つができることも一つだが、もう一つ重要なのが、普通の人がとんでもない苦行と感じることを、平気でむしろ楽しんでやれることもあると思う。師匠の杉本昌隆八段によると、重要な対戦の前でも、面白そうに詰将棋を解いたりしているそうだ。普通の棋士はタイトル戦などの前は頭を休めるために、詰将棋を解こうとしたりはしないそうだ。また、タイトル戦の翌日のインタビューで「自宅に帰ってやりたいことは?」と聞かれ(多分質問者は「ゆっくり休養して‥‥。」のような回答を期待)て「昨日の将棋をじっくり振り返られればと思います。」と答えて、全く飽くことが無い。苦行を楽しめる、とんでもない努力を努力と思わない、それと、「常識に囚われない」ということと関連があると思うが、最も自分に合った努力のやり方(努力の効率が高い)ができるというのは天才の特徴ではないか。
(2020/08/21)
メジャーリーグでは大谷翔平の活躍が著しい。この青年も天才だろう。他の選手にとっては苦行のような練習その他の努力をほとんど楽しんでいるようにやってしまう。天才だ。
(2023/04/11)
リーマンのゼータ関数というのがある。オイラーの等式の所でも書いたが、数学には不思議で驚くような等式がある。ゼータ関数のオイラー表示もその一つだ。

自然数の逆数のべき乗の和と素数とがこんな形で結びつくとは‥‥見れば見るほど不思議だ。こんなことに気が付くオイラーも、もう、天才というより不思議の域にある。
(2020/08/01)
「信頼の原則」というのがある。これは「自分の行動は、他人が法律を守って行動することを前提にして法律の範囲内で行動すれば良い。」ということである。この原則は特に交通事故において問題になる。交通事故が起きたときに、自動車同士だと過失割合が問題になるが、そのとき、保険業界の慣習では、一方だけが道路交通法違反をしていても、両方の車が動いていたら保険の過失割合は10:0にはならない。しかし、道路交通法上は信頼の原則により、一方が道路交通法違反をしておらず、他方が違反をしている場合にには、違反していない側は相手が違反をする可能性まで考慮して運転する義務は無く10:0になる可能性がある。ただし、以下の場合には10:0にならない。
- 相手方の交通規則に違反した行動を容易に予見できる場合。例えば歩行者が酔っ払っていることが十分認識されていたようなとき。
- 道路その他の状況から交通事故の発生のおそれが高い場合。例えば雪道で滑りやすい路面であったとき。
- 相手方が幼児、老人、身体障害者等の場合。これは常識的ではない行動を取ることが前もってわかるため。
実は筆者も歩行者信号のある広い道路(片側2車線)と信号の無い狭い側道(停止線あり)の交差点で当方が広い道路で信号が青の(当然歩行者は赤)ところを進行していて、細い道路から出てきた車に当方の車の左後部に衝突された経験がある。このとき非常に偶然にも当方の車の右直後を事故処理車が走ってきており、更に交番の前でもあったという状況だった。事故後、間髪を入れずに事故処理担当官が走ってきたのには驚いたが、事故の状況を見ていたらしく、こちらには何のお咎めも無く、ゴールド免許を維持できた。相手側の車は、停止線で一旦停止していたが、筆者の前のワンボックスカーが側道に左折したので、そちらだけに気を取られて右方向を確認せずに進行したらしい。当方も相手の車が停止線で停止しており、前車が左折したので減速して安心して通過していたのだが、相手の車が当方の車の前部横に来たときに突然動き出したので驚いてハンドルを右に切ったのだが間に合わず左後部に当てられた。その状況は当方のドライブレコーダにも記録されていた。この場合、相手の車が停止していたので、それが突然動き出すことを予測する義務は当方には無かった(信頼の原則)。
道路交通法的にはこちらに何もお咎めが無かったが、保険屋の慣習ではこちらも動いていたということで保険的な過失割合は1:9になった。保険屋に言わせると、押釦式歩行者信号のみの道路は歩行者信号の自動車側が青の場合、自動車に関しては無信号交差点と同じ扱いになり、広い道路側も側道から来る車に注意する義務があるとのことだったが停止している車に対して何を注意するのか、当方としては納得できなかったが、裁判を起こす気力もなくそれを受け入れたのだが。
そもそも、押釦式歩行者信号のある交差点については、優先道路側は歩行者信号が赤の時は「消灯」にするのが合理的だ。
(2020/07/24)
UV−C紫外線は強力な殺菌作用があるが、それ以外にも色々な物質に対して作用を及ぼす。人間の眼や皮膚には非常に有害だ。その他、プラスチックなども照射によって劣化する。先日、自作のUV−C殺菌ボックスに、配達された新聞を入れて取り出すのを忘れて1時間余り置いておいたら、新聞紙が薄黄色に変色してしまった。10W2灯の紫外線ランプのUV−Cを至近距離(10cm以下)から照射されたらこうなる。恐ろしい威力だ。
(2020/07/16)
NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組で、「『人一倍』はなぜ『人二倍』ではないの?」ということが話題になっていた。江戸時代は「一倍」は×2を表していたらしい。
子どもの頃、多分小学校低学年の頃、「『倍』が×2なら『1倍』は×2のことじゃないのか。」と言い張って姉から「屁理屈言うんじゃない。」と怒られたことがあるが、筆者の主張もあながち単なる屁理屈ではなかったようだ。ただし、江戸時代は「一倍」は×2、「二倍」は×3、「三倍」は×4のことだったらしい。
因みにネットで「倍」を調べてみると、
- ばい
-
[倍]
多くする。加える。それに同数・同量を足し加える。また、同じ数を何回か加える。
とあり、「倍」が「×」の意味ではなく、「+」の意味であることが書かれている。なので、「一倍」は「同じものをもう一つ付け加える」ので「×2」となる。つまり「『倍』を『×2』と考えることは誤り」だったということになる。ただし、現代の日本語の用法では「倍」は「×」の意味で使用されることが慣用になっているので「2倍」を「×2」の意味で使用するのが普通である。従って「1倍」は「×1」と解釈される。
(2020/06/06)
アビガンが新型コロナウイルスに効きそうだということで試験が行われているが、なかなか承認されない。これは、信頼のおける試験方法である「二重盲検法(DBT:Dowble Blind Test)」による試験が進まないことによるらしい。その原因は、現在のような感染状況とPCR検査の実施状況では、検体が不足して有意な結果を得られるようなDBTの実施が困難なことによると考えられる。現在のところ、「効く」という結論が得られなかったが、同時に、「効かない」という結論も得られていないのではないか。
DBTは確かに信頼性のある試験方法ではあるが、状況によってはそれに固執することが合理的かどうか考えるべきだ。海外では治療薬として承認されているところもある。
可成り症状が出ている患者がアビガンを投与した後どの様な時間経過で症状が緩和されたかの症例と、投与しなかった場合の症例を集めて、時間経過を比較すれば、可成りの程度効果を推測できると思われるのだが、現在はそういった観点からの評価はされていないようだ。このような比較でも効果が確認された場合には「仮承認」のような形で使用できるようにするべきではないか。
偶々、NHKのBS放送で脚気の予防法で、疫学的観点から麦飯を採用して脚気患者が激減した海軍の提言を、当時陸軍の軍医監だった森鴎外らが細菌感染症という考えに固執して病原を科学的に特定することができず、ガンとして海軍の提言を採用しなかった。そして、白米の支給を続けた結果、陸軍では大量の脚気による死者が発生し、それが森鴎外が死ぬまで続いてしまったという話が放映されていた。(フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿「ビタミン×戦争×森鴎外」)
厚生労働省としてはイレッサやサリドマイドの失敗のトラウマがあるのかもしれないが、脚気の轍を踏まないことを期待したい。
因みにロシアはアビガンのジェネリック(アビファビル)を暫定承認したとのことだ。
(2020/06/03)
アビガンは2021年1月現在、まだ承認されていない。アビガンについて富士製薬が試験結果を厚労省に提出したが、DBTでないという理由で却下された。富士製薬の試験が単盲検法(SBT:Single Blind Test)だったのが却下の理由らしい。確かに、DBTは現在のところ最も信頼性の高い試験方法だが、海外で承認され、ある程度の効果を上げている事実があっても特例承認しないというのは合理性を欠くと思う。一方、ワクチンの方は海外の承認に基づき承認するらしいので、一貫性も欠く。
現在、東京都では感染が判明しているのに入院ができずに自宅待機を強いられている人が1万人に届きそうな状況にある。この人達は実質的に「見殺し」に近い、「座して死を待つ」ような状況だ。アビガンが承認されれば、このような、入院待ちで自宅待機をしている感染者にも投与可能になり、治療されずに死んで行く者を減らす可能性が高い。
厚労省が合理的な判断をしない理由として、なんだか政治的なキナ臭い匂いがする。新型コロナに関しては、どうも政治の非合理的な動きが目立つ。政治が合理的判断をしないことが原因で死者が増えているとしたら、これはもう殺人だ。
(2020/01/21)
総務省の「特別給付金」の「よくある質問」のページ(https://kyufukin.soumu.go.jp/ja-JP/faq/)に以下の記述がある。
申請方法に関するよくある質問
Q 申請書以外に準備すべき書類はありますか。
A それぞれの申請方式により以下の書類が必要となります。
【郵送申請方式】
- 本人確認書類
マイナンバーカード、運転免許証、健康保険証等の写し
- 振込先口座の確認書類
金融機関名、口座番号、口座名義人が分かる通帳やキャッシュカード、インターネットバンキングの画面の写し(水道料引落等に使用している受給権者名義の口座である場合には不要)
【オンライン申請方式】
‥‥‥‥‥
「本人確認書類」や「振込先口座の確認書類」の項の書き方は曖昧だ。上記の書き方だと挙げてある書類の全てなのかどれか一つなのかはっきりしない。「以下の書類が必要となります」と上に書いてあるので、むしろ、「全て」と解釈する可能性が高い。もちろん、他の情報を総合すれば「どれか一つ」で良いことは想像できるがQAの回答文としては0点だ。この種の文はできるだけその文だけで意味が通じるように論理的に明確に書かなければダメだ。総務省にはこんな書き方しかできない出来の悪い人材しかいないのか。
ここは、面倒でも例えば「マイナンバーカードまたは運転免許証または健康保険証等の写し」のような書き方にするべきだろう。
(2020/05/11)
感染症の数理モデルについて「感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題」という論文がある。その中で例示されている予測式(ケルマックマッケンドリック型モデル)
S(t):感染可能者割合,I(t):感染者割合,R(t):免疫保持者割合とし、βを感染者が未感染者に感染させる割合、γを感染者の回復割合として
dS(t)/dt=−βS(t)I(t) ‥‥(1)
dI(t)/dt=βS(t)I(t)−γR(t) ‥‥(2)
dR(t)/dt=γI(t) ‥‥(3)
で、自然に放置した場合に、免疫保持率がどう変わるかについての予測式が、この論文の(2.1)第3式
dR(t)/dt=γI(t) ‥‥(3)
である。ただし、t時点での免疫保持者割合をR(t)とし、感染者割合をI(t)とする。これは、以下のようにして導かれる。
t時点での免疫保持者割合をR(t)とすると、Δt後の免疫保持者割合R(t+Δt)は、δを死亡率として、Δt後、感染者割合I(t)の内生き残った量(1−δ)I(t)Δtが免疫保持者割合の増分なので、
R(t+Δt)=R(t)+(1−δ)I(t)Δt
すなわち、
R(t+Δt)−R(t)=(1−δ)I(t)Δt
両辺をΔtで割って、
(R(t+Δt)−R(t))/Δt=(1−δ)I(t)
ここで、
Δt→0で
(R(t+Δt)−R(t))/Δt→dR(t)/dt
なので、
dR(t)/dt=(1−δ)I(t)
となり、γ=(1−δ)と置けば、
dR(t)/dt=γI(t) ‥‥(3)
R(t)はロジスティック曲線に似た曲線になる。
(2.1)第1式については
現在の感染可能者割合をS(t)とするとΔt後の感染可能者割合S(t+Δt)は、Δt時間の感染可能者割合増加は現在の感染可能者割合S(t)と現在の感染者割合I(t)に比例すると考えられるので、比例係数をβ(感染力を表す)として感染可能者割合の増分は(感染すると「感染可能者」でなくなるので)
−βS(t)I(t)Δt
つまり
S(t+Δt)=S(t)−βS(t)I(t)Δt
よって
S(t+Δt)−S(t)=−βS(t)I(t)Δt
すなわち
(S(t+Δt)−S(t))/Δt=−βS(t)I(t)
Δt→0で
dS(t)/dt=−βS(t)I(t) ‥‥(1)
S(t)はR(t)をひっくり返した形になる。
(2.1)第2式については
Δtでの感染者割合の増分は、Δtで新に感染する量βS(t)I(t)Δtから回復して免疫保持者になる量γR(t)Δtを差し引いた量なので、
I(t+Δt)=I(t)+(βS(t)I(t)−γR(t))Δt
I(t+Δt)−I(t)=(βS(t)I(t)−γR(t))Δt
(I(t+Δt)−I(t))/Δt=βS(t)I(t)−γR(t)
Δt→0で
dI(t)/dt=βS(t)I(t)−γR(t) ‥‥(2)
I(t)は一旦増加してピークに達した後減少する。ピークがどんな値になるかは、βによる。
(2020/05/02)
PCRの説明で「増幅(amplification)」という用語が出てくる。工学特に電気・電子工学ではこの用語は交流信号の振幅などをトランジスタやオペアンプ(ここで既に「アンプ(amp)」という用語が出ているが)などで大きくすることなどを言う。しかし、PCRでは同じ用語を「コピーして」数を増やすことに使う。微妙に意味が異なるので違和感がある。
(2020/04/17)
自動車のMT(マニュアルトランスミッション)における半クラッチとはどういう状態なのか。
MT車に乗っていたとき、半クラッチでアクセルを踏むと加速度が増加していたように思う。しかし、動摩擦係数は、高校程度の物理では摩擦速度に関係無いということになっている。より厳密なことを言えば、摩擦速度が上がると摩擦係数が下がるらしい。
速度が低い場合、岩同士の摩擦の場合、V*を規準になる速度、μ*を速度V*における摩擦係数として、速度Vでの摩擦係数μ(V)は
μ(V)=μ*+αlog(V/V*)
となるらしい。ただし、α<0。
これだと、アクセルを踏むとクラッチ板の速度差が増加して、摩擦が減るので加速度は下がりそうに見える。
MTのときに自然に加速できていたのは、加速時には無意識にアクセル開度に合わせてクラッチ圧を上げていたのかも知れない。
静止摩擦と動摩擦の関係も複雑で静止摩擦から動摩擦に移り変わる瞬間はなかなか複雑な現象が起きているらしい。
(2020/04/09)
19日の新型コロナウイルス専門家会議の提言の中で「爆発的な感染拡大」のことを「オーバーシュート」と言っていたが、正しい使い方なのだろうか。少なくとも工学畑だとオーバーシュートはある定常値があって、低い値からそれに達する直前に一時的にその定常値を行きすぎる現象をオーバーシュートと呼んでいる。「オーバー」にはその意味が含まれていると思うのだが。急激に増加するだけではオーバーシュートとは言わない。

オペアンプなどの場合に出力電圧の立上がり(増加)速度のことを「スルーレート(slew rate)」と呼ぶ。
(2020/03/20)
筆者は車そのものに工学的な興味はかなりあるが、チューニングなどには殆ど興味が無かった。ところが、さるサイトで「アルミテープチューン」なるものを知った。折しも、前のMobilioが200000km近くになって、不具合も幾つか出てきたので、別の中古のMobilioに変えたところ、前のより1km/Lくらい燃費が悪くなっていてどうにかしたいと考えていたので、半信半疑でやってみた。
アルミテープチューンというのは、車のプラスチック(不導体)部分にアルミテープを貼ることにより、プラスチックと空気の摩擦で生じる静電気を放電して、境界層の剥がれを防いで乱流を減少させ、気流をスムーズにすることにより、燃費向上などが図れる、というものだ。
やってみると、晴天時16km/L台だったが、アルミテープチューン後は17km/L台になった。他の色々なサイトも見てみると燃費向上の報告は多い。どうも、効果があるのは本当のようだ。
(2020/03/03)
テレビでコロナウイルスの感染の検査で使われる逆転写(RT: Reverse Transcription)PCR(PCR:Polymerase Chain Reaction)法についてコメンテーターに専門家が説明していたが、どうも要領を得ない。「逆転写」とは何か、「なぜ逆転写をするのか」などの説明が出来ていないので、コメンテーターは納得した表情をしていなかった。筆者の理解は以下である。
- コロナウイルスの遺伝子はRNAという物質でできている。
- ウイルスを調べるにはある程度の量の遺伝子が無ければ難しい。
- 転写とは歯形を採るのと似ている。転写結果は、遺伝子配列そのものではないが、遺伝子配列を復元できる情報を保持している。
- 通常はDNAからRNAに転写するが、RNAからDNAに転写するので、「逆転写」となる。
- 逆転写をするのは、RNAよりDNAの方が安定に増やすことができるからだ。
- DNAに転写した遺伝子を増やしてその遺伝子を染色するなどして元のRNA遺伝子を同定する。
以上のような要点を説明しなければ、理解してもらえないのではないか。
(2020/02/05)
現在、我が家には6台のディジタルアンプ(D級PWMアンプ)が動いている。3台はLP−2020A+、1台はLP−2024A+、もう1台はYAMAHAのYDA−138を使ったキットを組立てたもの。更に1台はYDA−138を用いた完成基板で製作したもの。効率が良くて、音が良い(一部のマニアはあまり良く言わないが、ブラインドテストで良さは証明されている)ので、我が家で増殖を続け、置き換えられたアナログアンプが5台も転がっている。特に、LP−2020A+の音は低域から高域まで、「エ!これが3000円のアンプか?」と驚くほどクリアで力強い。
少し、問題があるとすれば、中華製品の信頼性の低さと、電源が12Vなので、パワーが10W×2チャンネルしか出ないことだが、我が家のメインスピーカーは比較的高能率(93db/w(m))なので、16畳の洋間でとりあえず十分な音量で再生できている。
信頼性に関しては、やはり、残念ながら低い。4台のLepaiアンプの内LP−2020A+1台と1台あるLP−2024A+が不具合を生じている(使用中に「ブツッ、ブツッ」と言い出した)。とりあえず、ケミコンの劣化の可能性を考えて、交換用のケミコンを購入したがこれで治るかは判らない。
寝室で使っているのはTDA7297というMOS−FETのアナログICアンプ基板を使ったアンプである。これには、10cm口径のユニット(88db/W(m))で作ったバックロードホーンスピーカーをつないでいるので、10cmとしては比較的能率が高く、寝室には十分というより過大な音量が出せる。昔はアンプに大金を掛けたものだが、良い音が本当に廉く手に入る時代になった。
(2020/01/28)
ブツブツノイズが出だしたディジタルアンプだが、電源のケミコンを交換したら正常動作するようになった。
(2020/03/30)
小学校の算数の問題で小学生の答えが話題になっている。
問題文は
ゆきこさんの 家から えきまで 30分 かかります。
8時50分に えきに つくには、 家を 何時何分に
出ると よいでしょう? りゆうも かんかえましょう。
である。小学生の答えは
家を[8時15分]に 出ると よい。
8時20だとぎりぎりであせるとあぶないから。
算数としては×とするのもやむを得ないかもしれないが、上記のような問い方なら正解としても良い答えだ。先生も「この答えは普通の算数の答えとしては×になるけれどもこの問い方の答えとしては正しい。」ということを他の生徒の前ではっきり評価して説明するべきであろう。ただ、「なぜ正しいか」をちゃんと説明できる先生がどれくらいいるか‥‥。
上記の問題文の問題点。
-
問い方が「何時何分にでるとよいでしょう?」となっている。
これは「良い/悪い」という価値評価を算数の中に持ちこんでしまっている。そのため、件の小学生は「良い/悪い」の評価を含んだ上記のような答えにしてしまったのであろう。このように、価値評価を含んだ問いにしてしまったため、上記のような生徒の答えも正解になってしまう。算数や科学に価値評価を持ち込むのは根本的に間違っているのだ。これは「何時に出ればぴったり8時50分につくでしょう。」のような問い方にするべきだ。上記の問題文の問い方だと、「5分くらい遅れても大丈夫と思うから8時25分でよい。」という答えが出てくる可能性さえある。
-
更に、「りゆうも かんがえましょう。」は多いに余計だ。問題としては単に引き算の問題なので「理由」も何も無い。にも関わらず上記のような問いかけをされると、「良い/悪い」という価値評価を含む問いなので大人でも上記の小学生のような価値評価を含んだ理由を付けた答えをする可能性がある。
こう言った、出題意図が歪んで伝わってしまう問題文が作られることを防ぐためにも「国語教育の改革」が必要だろう。
(2019/11/06)
高校の国語が論理国語と文学国語になるらしい。このやり方が妥当かどうかは別として、筆者は、これまでの「国語」が文学作品の鑑賞に偏っていたことには不満を持っていた。
小学校のころから国語に関して(というより言語に関して)「いぬ」はどうして「いぬ」なんだろう。「意味」って何だろう。「(日本語の)単語の意味を(日本語で)書けたら本当に意味が解っていることになるのか?」。「文法とは?」など、言語そのものに関する興味があったが、国語の授業では文学小説の感想などばかりが重視されて面白くなかった。その意味で「国語教育の改革」は必要と感じている。
高校の国語なら言語学や意味論、論理学などの分野の話題ももっと取り上げるべきだし、その方が遥かに好奇心を刺激するし、将来的にも役に立ちそうに思える。文学小説などから何を受け取るかは文学理論の「受容理論」でも指摘されているように、読者の自由に委ねられるものなので、学校の授業になじみ難いのではないか。それに対し、上記のような言語学的観点は普遍性のある議論が可能であり授業にも適している。
(2019/10/18)
askomaという国語教員の方のサイトで
「僕たちは論理だけでは説得されない」ということだ。実際、人を説得する文脈でよく用いられるのは、論理の組み立てというよりも、印象的なレトリックや物語(エピソード)の力なのだ。
と書かれていた。
これは事実であろう‥‥が、むしろレトリックなどに惑わされずに、その文章が述べている論理を正確に読み取る能力を養うことが重要なのではないか。ネットで比喩(レトリックの一つ)ばかりを持ち出して議論する人と論争したことがあるが、比喩は論証とは似て非なるものであり、比喩で説得されるととんでもない結論に誘導される可能性があり、とても危険なことなのだ。人の説得にレトリックや物語(エピソード)を使用するのは後のトラブルを考えるとかなり慎重でなければならない。レトリックや物語(エピソード)による納得は本当に主張の正しさを理解した上での納得ではないことに注意しなければならない。
同ページに「論理的文章は『論理的』ではない?」という見出しで、同ページの筆者が考えるらしい「論理的文章」が論理的でないと書いてあるが、その記事での「論理的文章」がレトリックや物語(エピソード)で出来ているとしたら、その様な文章を「論理的」と考えることが、学会の論文の査読や若い人の論文のチェックをしてきた筆者には驚きである。
「説得力のある文章」よりも「論理的に筋の通った文章」を書ける教育が重要なのではないか。政治家?や詐欺師には説得力のある文章作成能力が必要かもしれないが、正確なコミュニケーションには論理的にきちんとした文章を書ける能力の方が重要であろう。
国語教育が「論理の組み立てというよりも、印象的なレトリックや物語(エピソード)」の文章作成能力の育成に偏ったものであるとしたら、正確なコミュニケーション能力の学習を阻害することにならないか。
「論理国語」が筆者の期待する効果を発揮するかは判らないが、現状の国語教育が上記のような内容だとしたら改革は必要であろう。
(2019/10/19)
普通、小学校で例えば(33−7)をするやり方として「1の位では引き算ができないので、10の位から10借りて来て、(10−7)=3,3+23=26」のような計算をするように指導される。
筆者は小学校時代から「借りて来て‥‥」というのがなんだか気持ち悪くて、「3から7を引くと4引き足らないので30から4引いて26」のような考え方で計算して来た。「4引き足らない」というのは(−4)という負の数を実質的に使ってきたことになる。もし、子供がそんな計算の考え方を披露したら小学校の先生はどう評価するのだろう。
ネットで見ると(33−7)のような計算は「10の位から10借りてきて(10+3)=13にして(13−7)=6。そして6+20=26」というような説明をしている。しかし、このやり方だと「1の位で引き算ができない」という状況は回避できていないので、合理的な説明とは思えない。この場合は「(10〜19まで引く一桁)の九九」のようなものを覚えておく必要があるように思える。
(2019/10/08)
繰り下がりのある引き算についてネットで調べてみたら、筆者のやり方はほぼ「減減法」というやり方らしいことが判明した。33−7=30+(3−7)=30−(7−3)と式変形して計算しているのと同等であり2回引き算をする形になるのでこの名称が付いたらしい。「減減法」でやっている人は全体の1割くらいらしい。ただし、減減法では上記の計算で「(7−3)をしてその結果の4を30から引く」となるが、筆者の場合(7−3)をやっている感覚は無く、あくまで「(3−7)で4引き足りない」と考えていた。実質的に同じことなのだろうが、感覚的には違う感じがする。標準的な減減法においては(3−7)をするのに引く数7と引かれる数3をひっくり返して(7−3)をするので、これを「筆算で躓く誤りのパタン」として減減法の欠点としているものがある。確かに(3−7)を(7−3)にしてしまうと混乱を招く可能性があるかもしれない。しかし、筆者は(7−3)ははやっておらず、感覚的には(3−7=−4)をやっていた。なので、「減減法は筆算で躓く」というのは「4引き足りないから」という考え方には当てはまらないのではないか。実際、筆者は筆算で困ったことはない。(3−7)を(7−3)にするような教え方をするから拙いのではないか。「4引き足りないから」という考え方を子供がしていたらそれはそのまま生かしてやる方が良いと思う。また、上記のような理由から「4引き足りないから」という考え方は標準的な減減法とは根本的に異なる考え方なのではないかと考える。
(2019/11/16)
優先道路とそうでない道路の交差点において、優先道路に設置した押しボタン式歩行者信号は、優先道路側は通常青信号になっていて歩行者が押しボタンを押した時のみ「黄信号→赤信号」となる。
このような信号は、自動車にとっては法律的には信号の無い交差点と同等のものとして扱われるが、これは以下の理由から合理性を欠くと考える。
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青信号で走行中の優先道路側が、非優先側に車両を見た場合、減速などの、無信号交差点と同等の運転行動を採ることは優先側の円滑な交通を妨げる危険性がある。
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青信号が点灯している道路を走行中の自動車にとって「信号無し交差点」(と同等な交差点)であるか、単なる横断歩道用の信号であるかを徐行せずに識別することは実用上難しい。
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通常、特に夜間は地上の視認性低下により、運転者は青信号を視野の端に認識しながら地上の周囲の交通状況に主要な注意を向けるので、目前の信号が「押しボタン信号」であることを認識しようとして信号を注視すると、他の車両等に対する注意がおろそかになり返って交通事故を誘発する危険性がある。
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そもそも、「無信号交差点と同じ扱い」とするなら、歩行者が押釦を押していないときは「信号消灯=無信号」とするのが論理的に一貫性がある。歩行者が押釦を押していないときに青信号にするのでは論理的に一貫性が無い。
上記のことを考慮すると、優先道路と非優先道路の交差点において無信号交差点と同等の注意義務を優先道路側に要求するのであれば、「押しボタン信号」の優先道路側の点灯制御は「通常消灯⇔赤点灯」にするか、「通常黄点滅⇔赤点灯」にするべきではないか。
(2019/08/26)
最近、3D映像が普及してきた。テレビ、映画などやVRなどで、3D映像が与えるインパクトは絶大だ。しかし、現在一般に普及している3D映像には問題がある。
現在普及している3D映像は、人間の両眼視の「視差距離」を再現する方式だが、人間が距離感を得るには他に「焦点距離」、「輻輳距離」がある。
「視差距離」は二つの眼から1点を見た時に対象の見える面の差異に基づく距離知覚であり、「焦点距離」は眼のレンズ(水晶体)の厚みを変えて網膜に焦点を結ばせる眼の筋肉の感覚に基づく距離知覚である。「輻輳距離」は二つの眼が対照の1点を見るときにできる2つの視線の角度を、眼球を動かす筋肉の感覚として知覚する距離知覚である。
現在の3D映像が視差距離しか再現できていないということは、焦点距離と輻輳距離は固定されたまま視差距離だけが変化するということになり、焦点距離・輻輳距離との矛盾が生じる。現実世界では人間の視覚は3種の距離感覚を総合してそれらの感覚に矛盾を生じない形で距離知覚を行っているので、総合が巧く行かないのである。そのため、3D映像を見ると眩暈のような症状が出たり、眼の疲労を生じたりする。
(2019/06/27)
色空間には「RGB」、「HSV」、「L*a*b*」その他幾つかあるが、人間の感覚に近いのは「L*a*b*」と言われている。「人間の感覚に近い」とは「人間が感じる色の差がその空間における距離と大体一致する」という意味である。その意味では例えばRGB空間は人間から見ると「歪んだ空間」ということになる。RGB空間において人間の感覚と同じような距離を考えるには歪んだ空間の幾何学である「リーマン幾何学」が必要になる。
非常に直観的な表現をすれば、リーマン幾何学とは空間の各点に空間の密度のような値(これを「リーマン計量」と言う)が与えられていて、これに基づいて距離を計算するということになる。密度の高いところでは速度が低下し実質的な距離が長くなる。
実は、リーマン幾何学はアインシュタインの一般相対性理論を記述するのに使われる数学である。一般相対性理論では空間は質量の存在によって歪む。これを記述するためにリーマン幾何学が必要になった。
色空間のことを調べていて色空間の変換を考えるときにリーマン幾何学が出てきて、匂いを嗅ぐ程度にリーマン幾何学(とっても難しい)を勉強したら、一般相対性理論の言っていることが何となく(非常に浅くだが)解った。RGB空間におけるリーマン計量は実験的に「マカダムの楕円」という形で有限の点について得られているので、これを適当な方法で補間して空間の任意の点に与えることにより、RGB空間での測地線が決定されその長さ、つまり、知覚的色距離を定義することができる。
(2019/06/26)
法律用語で「執行猶予」という言葉がある。これは奇妙だ。「猶予」という用語を辞書で索いて見ると、
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実行の日時を延ばすこと。(goo辞書)
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となっていて、「実行をやめる」とはどこにも書いていない。ところが、「執行猶予」は猶予期間が過ぎると執行が消失することを言う。こんな誤用がまかり通るのが法律なのが不思議である。
(2019/06/25)
数学には不思議なそして驚くべき事実が潜んでいる。表記の「オイラーの等式(Euler's identity)」などはその代表例であろう。この式は数学に興味がある人ならまず知らない人はいない式ではあるが、見れば見るほど不思議の念にかられる。
数の体系は自然数(1,2,3,‥‥)から始まり、整数(‥‥,−2,−1,0,1,2,‥‥)、有理数(整数の分数で表される数)、実数(有理数と無理数(有理数に根号が掛かった数および超越数)を含めた数)そして複素数(実数と虚数単位×実数の和の形の数)のように拡張されてきた。
無理数は有理係数の代数方程式の解として出てくる「代数的数」と「超越数」に分かれる。代数的数は√(2)=1.41421‥‥などで、いくらでも思いつくことができるが、超越数は我々がよく目にするπ=3.14159‥‥以外では、e=2.71828‥‥くらいしか思いつかない。この2つの数は、片や円周率という名で良く知られているし、もう一つは自然対数の底として数学や自然科学、工学で非常に重要な数である。そして、虚数単位iは√(−1)であらゆる虚数の元になる数である。この3つの数は不思議なことに次のような驚くほど単純な関係が成り立つ。
eiπ=−1
これが、オイラーの等式である。e、π、iはそれぞれ別の数学分野から出てきた数であり、かつ、eもπも超越数である。超越数の超越純虚数乗が整数−1になる!?これらの数がこんな形で結び付くことは不思議かつ驚きである。このようなことになるのは、人間の物事の認識・理解のやり方が深く関わっているように思える。
この等式はオイラーの公式
eiθ=cos(θ)+isin(θ)
において、θ=πとすると
eiπ=cos(π)+isin(π)=−1+0=−1
として求められる。
(2018/11/29)
小学生のころ、国語の時間は好きでなかった。国語のテストでは漢字テスト(これが一番嫌だった)と共に単語の意味を書かせる問題も良くあったが、当時の筆者は、「単語の意味として辞書に書かれていることが書けても意味が解ったことにはならない。単語の意味が解るとは、その単語を適切な場面で適切に使えることだ。」と考えて、出題に反発を感じていた。
また、先生がやたらと文学小説をありがたがって、感想などを要求するのが面白くなかった。筆者はむしろ、「いぬ」ってどうして「いぬ」という名詞になったんだろう、といった語源や単語の意味の意味などに興味があったので、それを扱ってくれない授業はつまらなかった。この疑問に初めて触れてくれたのは、大学に入って英語の講義の一つで「The tyranny of words」という意味論に関するテキストを扱ったものだった。正に、子供の時からの自分の疑問に関わる内容だったので、面白くて夏休みの間にテキストを全て訳した。おかげで、その講義の成績は優であった。
(2018/11/28)
人は自分がこの世から消えてなくなりたいと思ったとき、どのように考えて、それから逃れるのだろう。
筆者は、小学生低学年のころ色々なことで自信が無く、孤独であった。学校や家庭などで逃げ出したいことが結構あったが、次のような内容の考えをして諦めていた。
自分が居なくなったとしても、必ず、自分と同じ顔をした子供がどこかに現れて、その子が今の自分と同じ境遇になっていて、自分と同じように考える、それは実は自分なのだ。
これも幼い考えではあるが、一種の哲学?かもしれない。
(2018/11/28)
世の中では「人は誰でも天から与えられた存在意義を持つ」というようなことが言われる。障害を持った人達に対してこのようなことを言うことが多いように感じられる。これは「障碍者は社会の邪魔者」というような考えに対する反論として出てくるようだ。しかしこれはおかしいと思う。まず「意義」という概念は価値評価に関する概念なので、価値評価主体が居なければ存在しないし、その評価主体によって価値は変わるので「意義」も変ってしまい、上記のような場合に想定している「生まれながら」の「意義」は存在しない。個人の存在意義は個人の行動により自分に付与する、あるいは付与されるものである。つまり、「『個人の存在意義』は、生まれた後にその個人が造り出すもの」なのだ。「個人が作り出す」ものなので、どのような人も自分にとってあるいは他人にとっての何等かの「価値」を造り出すことができるという意味で、障害者であろうと健常者であろうと「存在意義」を持ち得るということになる。
民主主義では個々人の価値評価を認め、それに基づく意義を互いに尊重(人に直接的害を与えない限り)しよう、という姿勢なので、どのような人にも「存在意義」が認められることになる。そうでない社会は民主主義社会ではない。
(2018/11/02)
「進化」という用語は奇妙なものだ。「進化」というと何か良い方向に変化したような語感だが、必ずしもそうではない。例えば、人間の眼とタコの眼を比べてみると、タコの眼の方が合理的に思える。
人間の眼の網膜は不思議なことに、視細胞の前に神経線維がある。そのため、神経線維を脳につなげるために、網膜の一部に穴を開けて眼球の後ろに引き出す構造になっている。その引き出した穴の部分は視野の欠損となる。これが「盲点」である。ところが、タコの眼球は神経線維が視細胞の後ろにあるので、網膜に穴を開けずに脳につなぐことができている。
視細胞の前に神経線維があるのは視細胞の受光のじゃまにならないのであろうか。少なくとも、じゃまにならないような神経線維になる必要があったはずで、なぜ、そのような面倒な形に進化したのか不思議である。
どうして人間の眼は上記のような構造で固まってしまったのだろう。盲点があることが、あまり生存に不利にならなかったのだろうが、進化といっても結構そんな不合理に見える特性を残している場合がある。
(2018/10/11)
最近、「鳥肌もの」とか「感動して鳥肌が立った。」といった言い回しがよく使われる。つまり、「鳥肌が立つ」を良い意味で使っている。ところが、これを「『鳥肌が立つ』は、悪い意味で使うものなので誤用だ。」と主張する人がいる。確かに辞書を牽くと
鳥肌が立つ(Weblio辞書)
強い寒さや悪寒、あるいはそれに似た感情を覚えることにより、腕などの肌の毛穴が収縮した様子を指す表現。さながら羽を毟った鳥のようになる。
などとある。しかし、これはおかしい。感動で鳥肌が立つことは事実としてあるので、誤用もなにも単に事実を述べているだけである。表現の問題ではない。むしろ、「鳥肌が立つ」の意味として上記のような意味しか載せていない辞書の方が間違っているのであって、それを基に「誤用」などと言うのは無知でしかない。辞書の記述はその単語あるいは言葉の最大公約数的な意味を(辞書編纂者が)要約して書いてあるに過ぎないし、それまでの代表的な慣習をとりあげて書いたものにすぎない。例えば、「風邪」は昔、「悪霊が取り付いて起きる病」と考えていたが、今はそのような意味と考える人はいない。無知がもたらした誤った認識に基づく「意味」は改めるべきものであってそれに固執するのは愚かである。
筆者は、毎年「第九」をプロオケとやっているが、第3楽章の変奏が始まるところや、第4楽章の「歓喜」のテーマが弦楽合奏になるところで毎回余りの美しさに鳥肌が立つ。
これは以前に触れた「収納スペース」や「収納庫」の意味で「収納」という用語を用いるのとは別の問題(*)だ。辞書編纂者の無知がもたらした弊害だ。
このことに関しては最近は
ディジタル大辞泉(小学館)
寒さや恐怖などによって、皮膚に鳥肌があらわれる。鳥肌立?(だ)?つ。「怪談に―・つ」
[補説]近年、「名演奏に―・つ」のように、深い感動の表現としても用いられることがある。
のように記述があるものもあるが、これも少しおかしい。「感動表現としても用いられる」のではなく、単に事実を記述しているのであり、「表現云々」という問題ではない。事実を述べることを妨げるような規範や慣習は改めるべきである。
オックスフォード大学で
感情が湧き上がった結果、肉体的変化(鳥肌)があった被験者は、「聴覚野と感情を処理する領域をつなぐ神経線維の密度が、普通より高い」ことが判明した。
という研究結果が掲載された。
https://academic.oup.com/scan/article/11/6/884/2223400
この論文を見て解ったのだが、世の中のかなりの人が、感動で鳥肌が立たない脳の構造をしているということである。とすると、そのタイプの脳の人にとっては「感動で鳥肌が立った。」は比喩的表現でしかなく、「『鳥肌が立つ』という表現の使い方の間違い」といった話になるのも頷ける。一方、感動で鳥肌が立つタイプの脳の人にとっては「感動で鳥肌が立った。」は事実をそのまま記述しただけで、表現の問題とは関係の無い話なので、なぜ「誤用」などと言われるのか理解できない。
筆者も、ある程度以上の感動があると誰でも鳥肌が立つものと思っていたので、誤用だという人が理解できなかったが、脳の構造が原因で誤用と感じる人が一定数以上いる以上「感動で鳥肌が立った。」と書くのは少し慎重になった方が良いのかも知れない。
(*)「収納庫」「収納スペース」と「収納」の問題は「物」を表す名詞と「事」を表す名詞の混乱の問題であり、「鳥肌」は名詞そのものの意味記述の不備の問題。
(2018/09/22)
最近、住宅の設備の説明で「収納」という言葉を頻繁に聞く。筆者にはこれが気持ち悪くてしかたがない。住宅設備の説明等で使われる「収納」はほとんど「収納庫」あるいは「収納(戸)棚」、「収納スペース」のことである。しかし、「収納」は本来、
- 中に入れて、しまっておくこと。「たんすに衣類を収納する」「収納家具」
- 現金や品物などを受け取っておさめること。国または地方公共団体の会計では、現金を受領することをいう。「国庫に収納する」
- 農作物などを取り入れること。
などの意味で使われ、「収納庫」のような意味は無い。つまり、「収納」は「事」を表す語であって「物」を表す語ではなかった。更に、「物」の意味では「収納庫」「収納家具」などの用語が既にあるのにどうして上記のような用法が広まってしまったのだろう。
(2018/09/13)
極限の概念の定義に「ε−δ論法」というものがある。この考え方を初めて知ったのは高校の時に読んだ「数学序説」(吉田洋一・赤攝也著、培風館)であったが、大学に入って明確な形で教わった。その時は「なるほどそういう風に考えることもできるな。」程度の印象だったが、後に哲学好きと議論する機会があったことや認知科学に関わったりしたことで、この定義の巧妙さに気づかされた。著名な科学哲学者にもこの論理が理解できていない人がいるようだ。
ガリレイ−ニュートン流の関数f(t)のtによる微分は、
{f(t+Δt)−f(t)}/Δtで、Δtが0になったときの値
としていたが、このニュートン流の定義は0/0というような数学的な不都合を生じるので、既に1800年代前半にコーシによって棄てられ、現在では「Δtが0になったとき」即ち「長さ0の時間で割る」というような不都合を生じないようになっている。その考え方が「ε−δ論法」というものである。
ε−δ論法による微分の定義は下のようになる。
あるg(to) があって、どんな(に小さな)ε>0に対しても適当なδ>0を採れば、
|{f(to+δ)−f(to)}/δ−g(to)|<ε
とできるときg(to) をf(t)のto における微分という。
この定義の巧妙な点は、δを0にしてしまう必要はないということと、関数の変化量ε(即ち速度の話の場合について言えば移動距離(=位置の差))を先に提示する形になっていることである。つまりこれを認知的な見方を絡めて言えば、「どんなに小さな位置の差でも『その差εが知覚できる限り』、それに対してδを定めることができて、{f(to+δ)−f(to)}/δとg(to) の差をε以下にできる」ときに「g(to) をf(t)のto における微分という」ということでである。つまり、δが0でないときの「状況」しか使っていないので「長さ0の時間間隔で割る」などという不都合を避けられ、人間が直感的に知覚する微分と非常によくマッチする。
(2018/08/11)
微分という演算がある。関数の傾きなどを計算する方法なのだが、たとえば、関数f(x)のxにおける微分f'(x)は、

だが、Δx→0とすると、結局0/0という状況になる。これでは微分は計算できないことになる。ところが、例えば、f(x)=x2の場合

={(x+Δx)2−x2}/Δx
=(x2+2xΔx+Δx2−x2)/Δx
=(2xΔx+Δx2)/Δx
分子を因数分解
=Δx(2x+Δx)/Δx
=2x+Δx
となり、Δx→0としても、ちゃんと値2xが得られる。
ここで使われた「因数分解」は、中学のときに習って、その意義がよく解らないままでいたが、それがこんな所で力を発揮し、計算できなさそうな計算ができてしまう。直感的にも、滑らかな曲線には接線が存在すると考えられるが、その直感通り極限値が計算できて接線が求められ、微分という方法の有効性が確認される。
因数分解が数学上で発明(発見?)された時代は微分が発明された時代より遥かに昔だったので、それが微分に使われて極限値が求まるなどということは予想だにしなかったに違いない。それが、予定調和のように巧く使われる‥‥高校のときはこの事実にあまり驚かなかったが年を経るにつれ段々驚きと不思議の念に駆られるようになった。数学にはそんな事柄が沢山あり、数学の異なる分野の定理などが予想外のところで繋がりがあったり精密に絡み合っていたりして、数学を揺るぎないシステムにしている。
(2018/02/14)
科学知識なしに哲学をやることは危険である。例えば、以前に書いたネット上の議論の相手のI氏のように数学知識なしに考えてしまうと「アキレスと亀」のような詭弁に簡単に騙されてしまったりする例がある。
科学哲学をやっている有名人でもちゃんと科学を理解せずにやっている人がいるし、以前に以下のような例に出くわした。
LCCワークショップのまとめ(〜2002/11/31)
「共約不可能性」について少し調べて書いているが、以前個人的な興味からI.ラカトシュ&A.マスグレイブ著森博他共訳「批判と知識の成長(原題:Criticism and the Growth of Knowledge)」を原書と対照しながら読んだのが役に立っている。これはいわゆる「科学哲学」書である。日本語訳を読みながら妙なところを原書で確認すると、どうもこの訳者達は物理学の知識に欠けるところがあるようだった。例えば「ふくれあがる惑星」という訳があって、そんな妙な惑星は聞いたことがないと思って原書を見ると「赤道が膨らんだ(bulging)の惑星(典型的な例は木星や土星、地球もそうであるが)」のことだったり、「諸々の惑星は本質的には、ほぼ球形をしていて重力に引かれて動くスピニング・トップである。」という訳があり、「spinning top」がカタカナのままにしてあったりする。これは、訳者が「spinning top」の意味が解らなかったからだろうと思われる。原文は「the planets are essentially gravitating spinning-tops of roughly spherical shape」である。文脈からして、「重力に引かれている回転する独楽」と訳すのが正しい。哲学者が科学について論じるときに科学を理解せずに論じている例が、特にポストモダンという思想に毒された人々において、かなりあるようだ。そんな例は、「知」の欺瞞という本に沢山引用されている。
「bulging planet」についてWebで検索していたら、ニュートンが「地球は赤道半径の方が極半径より大きいはずだ。」と推測した経緯の説明があった。
ニュートンの主張
...if our earth were not a little higher around the equator
than at the poles, the seas would subside at the poles and,
by ascending in the region of the equator, would flood
everything there.
もし仮に我々の地球の極半径より赤道半径が少し大きくないとすると、
海は、極のところでへこみ、赤道のところで上昇するはずで、赤道で
はすべてが洪水に飲み込まれるはずだ。
[解説]
The implication is that the Earth's surface must be (very nearly)
an equi-potential surface, because otherwise the waters would slide
sideways in the direction of the lower potential.
この意味は、地球の表面は(ほぼ)等ポテンシャル面になっていなければ
ならない、なぜなら、そうでなければ水は低いポテンシャルの方向に滑
っていってしまうことになる、という意味である。
(藤田注:赤道付近では遠心力によって等ポテンシャル面が少し高くなる。)
「遠心力で赤道が膨れた。」というのではなくて「液体(海水)が作る面は等ポテンシャル面だ。」ということから根拠づけているところが偉い。地球のような複雑な個体が遠心力で均等に膨らむのは結構複雑な過程になると考えられるが、海水という比較的力学的に純粋なものに着目し、矛盾を提示することで論証したところがすごい。
(2017/09/25)
日本の鋸は引いて切るように刃がついている。一方、洋鋸は、押して切るように刃がついている。筆者には、日本の方式の方が合理的に思える。
鋸は薄い鋼板でてきている。なので、押した場合「座屈」という現象が起きやすい。洋鋸はそれを防ぐためにぶ厚い鋼板で出来ているが、そうすると、鋸跡の幅が大きくなり、おが屑も多くなる。また、高精度の工作もしにくくなる。何故、不合理な鋸が西洋では使い続けられているのか不思議である。
(2017/08/10)
ネットを検索すると押切の方が切るときに体重を掛けやすいし切る対象が台に押し付けられて動きにくいという主張がある。確かに鋸を対象の上の向こう側から切り始める場合には押し付けられる形にはなるが、多くの場合その程度の下方分力では対象の台との摩擦は小さく対象は動いてしまう。そもそも、体重は体重以上の力は発生できないので、結局筋力がものを言うことになるが、斜め上から押して切る場合は筋力が体重を上回ってしまうことになり体が浮いて力が掛けられなくなる。この場合は押すよりも引く方が脚で抑えて支点にできるので強い力が得られる。また、通常はクランプやバイスなどで対象を固定する場合も多く、その場合、切断は引く方が力の方向が安定する。これは、棒を使って物を動かす場合に、力点が対象の手前にある場合、押すよりも(引っ掛けることができれば)引く方が安定して動かせることからも明らかだ。
金切鋸の場合、数センチ径の鉄棒を切る際に体重を掛けられる方が切削が速いという主張もあるが、本当にそうなのか疑問だ。鋸の刃をフレームに付けて切る限り、圧力をどの程度書けられるかは押す場合も引く場合も大きく変わらないと考えられる。
金属の場合、通常は対象を手で固定して切ることはまず無く、ほとんどの場合バイスやクランプで固定して切るので、鋸のフレームと柄の両方を持って使うことが多く、押す引くで対象の安定性も変わらない。また、金鋸はフレームに取り付けて使うのが基本だが、筆者の場合、フレームが邪魔になる場合があり、刃に包丁のような簡単な柄を付けて使うことも多い。このときは引く方向に持つ方が遥かに切りやすい。
金切鋸も慣習や伝統を鵜呑みにせず、合理的に考えて状況に合った使い方を選ぶ方が良い。
(2024/03/23)
「死んだら天国/極楽に行ける、あるいは神様/仏様になる。」といった類の教えの宗教は有害だ。その宗教思想に沿った行為で死ぬことを推奨する結果になる。今、各所で起きている自爆テロは正にその典型だろう。戦時中に兵隊を死地に赴かせるときに使われた考えもこれに通じる。「死んだら何もなくなる。」とか「死んだら地獄におちる。」と説かれたら、少なくともその宗教思想のために命を粗末にすることは少なくなるだろう。
また、「神」は多くの場合、殺人を正当化する。ISにしても、旧日本軍にしても、かつての十字軍にしてもそうである。「神」などという概念は早急に棄てるべきだ。「神」は人間に都合の良いように創り上げられた「概念」に過ぎない。
(2016/07/05,0217/01/31追記)
熊本、大分で地震が続いている。震度7が2回あると多くの家は倒壊するようだ。我が家は、2012年に改装増築した際、耐震補強もした。その効果は確かにあったと思われる。以前に震度4程度の揺れがあった時は、家全体からギシギシ音が出た。今回は、かなり揺れたが音があまりしなかったので不思議な感じだった。
二階の揺れもあまり大きくなかったようで、押入れの物が少し落ちたのと、立てかけていた板が倒れたのと、積んでいたレコードなどが少し落ちた程度であった。二階の箪笥、一階の食器棚などは固定してあったので、全く問題なかった。耐震補強は有効だ。
(2016/05/02)
小選挙区制をやめるべきだ。原理的に民主主義に反する。国民の51%しか支持しない党が100%の議席を得ることが可能な制度は民意を反映しないという意味で根本的に民主主義に悖る。いろいろの屁理屈を付けて小選挙区制を押す人は結構いるが、原理的におかしい制度が民主主義を達成するはずがない。現実に、国民の支持が30%に満たない政党が議席の2/3以上を占めているのが現状である。そのため、独裁政治に近い状態がもたらされ、憲法違反の法律が易々と国会を通過する。
日本の民主主義を歪めた最も大きな要因が小選挙区制の採用だ。
かつては、コミュニケーション手段が貧弱で、選挙運動などは候補者自ら、あるいは運動員が各地を回って演説等するしかなかったが、現在はインターネットなどコミュニケーション手段が発達して、個人が簡単に世界に向けて考えを発信できるようになってきていて、選挙区を小さくする意味は無くなった。むしろ、全国一区も可能になっているし、全国一区の方が国全体を考える政治家が出やすい。にもかかわらず、相変わらず小選挙区制にかじりついている。大政党の党利党略・民意無視以外の何物でもない。
(2016/04/11)
小選挙区制の害悪は選挙が民意を反映しないということだけでなく、世襲政治家ばかりになることだ。多くの世襲政治家は収入のために政治家なっていることがほとんどだ。最も重要な「国民のため」という動機が全く見えない。自分の収入を増やすための政治しかやらない。それが政治を劣化させる大きな要因だ。
(2024/01/31)
2016年4月8日、栃木女児殺害事件の判決が下りた。この判決に、取調べの映像が大きな影響を与えたらしい。しかし、この判決には大きな疑問がある。
- 映像は約80時間あるらしいが、裁判員が見ることができたのはその1/10に満たない7時間分しか無かった。これでは、公平、客観的な判断は無理である。結局、検察側に都合の良い部分を上手く編集して判決の誘導があったとの疑いを拭えない。
- 80時間の映像も、取調べの全てではないとのこと。取調べの可視化制度において、少なくとも、事実を明らかにしようとするなら、取調べの全過程を可視化することが必須であることは明らかであるにもかかわらず、現在のような形にしてしまった。これではむしろ有害な制度だ。
- 裁判官が、これで、自分が正しい判断をしたと考えているとしたら、その裁判官はもはや人を裁く資格は無い。非常に危険である。
こういうやり方を見ていると、我々、一般人は何時なんどき無実の罪で、死刑や無期懲役にされるかわからない。恐ろしいことである。
そもそも、裁判における判決を下す過程は大きく分けて3段階になると考える。
- 事実を明らかにする。
- 明らかにされた事実を法律に照らして有罪/無罪を決定する。
- 有罪の場合、量刑を行う。
第1段階は本質的には科学的領域である。この領域においいては観測事実を正確・厳密に見ることが不可欠である。現在の可視化制度はこの観点からは全くもって不十分どころかむしろ有害な構造になっている。ついでに言うならば、第3段階は法律知識を十分に持つ法律の専門家が行うべきで、裁判員にも行わせる現在の裁判員制度は問題である。
今回の判決においては立命館大学人間科学研究所インクルーシブ研究7「取調べと可視化―新しい時代の取調べ技法・記録化と人間科学―Transparency of Interrogation: Innovative Data Recording and Analysis by the Human Science 報告2:日本における取調べ可視化の現状と課題」において渕野貴生教授が述べられていた懸念
結局、録画をしていない取り調べのところで被疑者に圧力をかけて、被疑者を完全に屈服させて、自白させたあとにそれから録画をスタートさせて、再演させるということになります。そこでスラスラと供述をするというところだけを録画するというのでは、かえって違法な取り調べを隠蔽する効果をもたらさないか懸念されています。
がそのまま現実となっているのではないか。
(2016/04/10)
香川県警が女子大生を誤認逮捕した。その際の取り調べのやり方は「取り調べ完全可視化」がいかに重要かを示している。この女子大生に対する取り調べは恫喝・脅迫以外の何物でもない。薄弱な根拠しかないのに、初めから女子大生を犯人と決めつけて女子大生の言い分を何も聞こうとしない。そこにいるどの刑事もである。恐ろしい話である。この女子大生はよくそれに耐えた。もし、精神的耐えられなくなって嘘の自白でもしていたらそのまま裁判で有罪になる可能性は非常に高かった。このような取り調べをした刑事たちの情報は公開されない。公務としてやったことはどんな酷いことをしても護られる一方女子大生のプライバシーは保護されていない。誠に片手落ちというか、警察に都合の良いことになっている。むしろ公務としてやったことなら、公開してしかるべきだ。もちろん、個人としての責任は問えないにしても公人としての責任はある。警察・検察が「取り調べ完全可視化」に反対するのはこのような取り調べを続けたいからではないか。
それにしても、警察官、検察官、裁判官のどれを取っても科学的・合理的思考力の欠如が目立つ。捜査、起訴、裁判のどれを取っても科学的に合理的な観察とそれに基づく推論と判断がまずあって、その上で法律的な判断ができるはずのものだが、基礎になる事実認識の能力や技能の欠如の問題が多すぎる。これらの人々に対しての科学教育(科学的な観察力、科学的な推論力、科学的な評価力を付ける教育)は法律の勉強以前の基礎として絶対に欠かせないものと思うのだが。
(2019/08/23)
NHKの番組の「逆転人生」で警察によるでっちあげ冤罪事件のドキュメンタリーを見た。検察・裁判官が警察官の言い分だけを聞いて目撃者の証言などの客観的事実を無視した結果、冤罪を作ってしまった。この場合も上記の三者の科学的・合理的思考力の欠如が目立つがそれに加え公務中の事件にも拘わらず「警察官のプライバシー」を主張して証言記録を不開示とし続けた検察の保身が見え隠れして不快だ。
(2019/11/13)
学校の体育で大きな人間ピラミッドを作ろうとして失敗しけが人が出ることが年に8000件もあるらしい。ニュースでも昨年失敗してけが人が出ているにもかかわらず今年もやってけが人を出した学校の校長が出ていたが、「安全に対する配慮が足りなかった」などと間の抜けたことを言っていた。こういうことをする教師には力学的思考力が無いに等しい者が多いように思う。
一番下の段について考えると、2段の場合、2人で1人を支える、つまり1人当たり1/2人を支える。3段の場合、3人で3人を支える、つまり、1人当たり1人を支える。4段の場合、4人で6人を支える、つまり1人当たり3/2人を支える、というように段を増やすと一人当たりに掛かる重量が増加する。これを下の段が2次元的な広がりを持つような形にしても、1人当たりの加重が、段を重ねるにつれて大きくなることに変りはない。しかも、人間は剛体ではないので、実際には下の者は、自分の上段数分の人数に近い力を受けることになる。さらに、中段の者は不安定な人間の上で自分を支えることになり、段を重ねるということが力学的に非常に不安定な状況を作り出す。このことが解っていないのではないか。
人間ピラミッドをやりたがる教師は「みんなで一致協力することの大切さを学ぶ機会になる。」「うまくできたときの達成感と感動を経験することは教育的な意義がある。」などと言っているが、そもそも「一致協力」は単に目的達成のために効果的な手段でしかないということを忘れている、いや、解っていない。多くの体育教師は競技スポーツで無批判に「一致協力」をしてきたのでそのことの意味を知らないのであろう。
「一致協力」はそれに相応しい「目的」があって初めて意義を持つ。早い話が、「一致協力して泥棒」をしたり、「一致協力して殺人」をしたりするのを是とする人は少ないであろう。先の大戦で闇雲に「一致協力をする/させられる」ことの危険性を身にしみて経験しているはずなのだが‥‥。「一致協力」そのものを「良いこと」と勘違いしている人が多いように思う。
学校で無批判に「一致協力」を教え込むことは止めた方が良い。無批判に「一致協力」を是とする教育は、集団の中で大勢の方向に同調しない者を「悪者」とみなす生徒を作り出す。もっと、「一致協力」の危険性も教えるべきだし、「何が一致協力するに相応しいことなのか。」を考える力を養う教育をするべきである。
また、「達成感」や「感動」は「危険」を伴うことでなくても様々な事柄で経験できる。
結局、「大きな人間ピラミッド」は教師の見栄、競争心と愚かな親の満足感のためにやっているとしか見えない。
(2015/10/10)
このところ、「関係性」という用語を色々なところで聞く。筆者の印象では、「関係」で良い場合でも「関係性」と言っている場合が多いようである。では、「関係性」と「関係」は同じなのか?筆者は異なると考えている。
「関係」は数学的には部分集合を規定する概念である。関係には2項関係、3項関係、‥‥、n項関係などがあるが、ここでは2項関係を考える。
一般にxとyにRという関係があるときxRyのように表す。例えば、数xと数yに大小関係「<」があるときx<yのように表される。そして、このような関係にある(x,y)の対の集合は{(x,y)|x<y}であるがこれは図的に表せば、(x,y)平面上の点の集合の内、直線y=xを境界としてその左上の半平面の中の点の集合すなわち(x,y)平面の点の部分集合と対応する。つまり「関係は部分集合を規定する。」ということになる。他の例としてはx2+y2≦1などは、点(x,y)が半径1の円周または円内にあるという関係であるし、x2+y2=1は、点(x,y)が半径1の円周上にあるという関係である。関係はこの他にも無数にある。つまり、「関係」とは「関係がある要素の集まり」と「関係が無い要素の集まり」を分ける機能がある。
話を「関係性」にもどすと、上記のような議論の中で「関係性」という用語を使用して違和感が無い場合があるであろうか?例えば「数xと数yの関係性は‥‥。」といったような場合、何を思い浮かべるか。筆者は、「数xと数yに何か関係があるのか、あるとすればどのような関係か。」といった議論を思い浮かべる。具体的には「xとyは『xはyより大きい』という関係なのか『xはyより小さい』という関係なのかどちらなのだろう。」というような場合だ。「関係性」という用語は明確な関係がある場合に用いるのではなく、「関係があるかもしれない。」という状況で、「あるとしたらどんな関係か。」といったことについて考えるとき、あるいは「複数の事象における『関係』という側面」を表すときに用いるのではないかと考える。
最近では、明確で具体的な関係について言う場合にも「関係性」という言葉を使っているように感じる。例えば、
日本語/英語の単語をノードに見立てて,それぞれの言語の各単語の関係性を平面グラフに描いたとしたとき
http://www.hcn.zaq.ne.jp/___/WEB/
一般に感情や情動といった概念は、西欧形而上学の歴史のなかで、魂の自己感受といった意味あいで、世界へのわたしたちの受動的な関係性を規定するものであった。
http://heideggerforum.main.jp/ej8data/kobayashi.pdf
本論では「けれども」や「が」の前で述べられている文を「前件」、後で述べられている文を「後件」とし、前件と後件の関係性の観点から両用法を分析する。
http://www.pu-kumamoto.ac.jp/‾h-hando/kumade/shouron.htm
地域によって、また相手との関係性によって、さまざまな表現を用いることがあります。
http://whitebear0930.net/archives/3660
などは、単に「関係」だと思うがどうだろう。
(2015/10)
2011年3月11日の大地震により、福島の原子力発電所が破壊された。その結果、これまで、「安全」「経済的」等と宣伝してきたことが全くの嘘であることが露呈した。
そもそも、日本には原子力発電は向かないと思う。狭い国土は断層だらけで地震が多い。地球上で起きる地震の1割がこの狭い日本で起きているという。日本のような狭い国土に原子力発電所を作って、数十年で廃炉にして使えない跡地を増やして、国土を狭くするというのはいただけない。原子力を推進してきた自民党の人々は、北方4島や尖閣諸島のことを声高に言うが、自分から国土を捨てようとしているのに等しい行為をして、矛盾も極まれりだ。更に、将来の日本を放射性廃棄物だらけにして、住むところを減らす結果になるのも問題である。
「原子力は経済的」という論も全くの虚構であった。税金を使っての膨大な補助金や廃炉処理、各種補償費、事故処理費、宣伝費、その他を含めると「原子力だから必要となる経費」は膨大なものになる。このような施設を、貧乏な自治体の頬を札束ではたくようなやり方で、補助金という麻薬づけにしてやってきたのが「原子力発電」である。しかも、原子力を推進してきた輩は何の責任もとっていないし、取ろうともしない。あまつさえ、「再稼動、再稼動、そうでなければ電気が足りない」と、2011年以降、ほとんど原子力に頼らずに電力供給できた事実を無視して叫び続ける。恥ずかしくないのか。
(2011)
経済的に成り立たないことが証明された原子力発電だが、安倍政権は2019年4月現在も原子力発電を推し進めようとしている。どうしても原子力発電を続けたいようだ。どうも電力業界からの献金が欲しいだけではなく、プルトニウムを持ち続けたいからではないかと思われる。つまり、本心は、将来、核兵器を作りたいからではないか。プルトニウムの保持はテロ組織から狙われる可能性があり、とても危険な馬鹿げた行為だ。
(2019/04/27)
以前から気になっていたが、「暑い」「熱い」のイントネーションと
「厚い」「篤い」のそれが同化あるいは逆転している。NHKの
アクセント辞典では、前者は「あ/つ\い」であり後者は
「あ/つ い」の
はずだが、NHKのアナウンサーも「厚い視線」や「厚い戦い」の
ように発音するので、気になってしかたがない。NHKはアナウンサー
教育をちゃんとやっているのか?つい、「何センチの視線や!」と突っ
込みを入れたくなる。
体操競技は変である。体操競技の着地はひざや体全体のばねを駆使してできるだけ衝撃が少なくなるような着地とは正反対に、衝撃がまともに体に伝わるようなものを高評価とする。そのため、体操選手は鼠径ヘルニア(脱腸)になるのだそうだ。こんな体をダメにするような演技を高評価にするのでは、体操は病気の原因となる「不健康なスポーツ」ということになる。
ついでに言えば、フィギアスケートも変である。スケートは滑る道具なのに、やたら「ジャンプ」を評価する。そのため、事故や怪我が多い。まあ、そんなことを言い出したら、競技スポーツは皆不健康なものになる。勝ち負けに拘るあまり、無理な練習をして選手の多くは怪我・故障だらけである。一番の問題はスポーツを「競技」にしてしまったことかもしれない。
東北電力や東京電力で過去に臨界事故が発生し、それを隠蔽していたことが発覚し、問題になっている。もちろん、事故の隠蔽は非常に問題ではある。しかし、解せないのは、「制御棒が抜け落ちて臨界に達した」という点である。原子炉の制御棒は、当然、抜け落ちたら燃料の中に落ちて、反応が止まるようになっているものと思っていた。原子炉のような危険な装置は、フェイルセイフ、すなわち、故障は安全側に起きるようになっているものと思っていた。PWRは、そのようになっていたようだが、BWRは、制御棒が抜け落ちると、制御棒は炉心の外になるらしい。なぜ、こんなバカげた構造にしてしまったのであろうか。理解に苦しむ。
東京の有名ビルで回転ドアに子供が挟まれて死亡する事故が発生した。この種の事故は、最近あちこちの大きなビルで起きているらしい。これについて、マスコミその他では、相変わらず「安全基準ができていない。」「センサの設定が間違っていた。」等の見解を言いたてている。しかし、私には、もっと別の根本問題があるように思える。
そもそも、人がしょっちゅう出入りし開け閉めするドアが1.5tもある、そのこと自体の不合理性を問題にしないことがおかしいと思われる。このドアの設計者の力学的センスが問題である。巨大な城門などは何トンもあるものもあるであろう。しかし、この種の門は、人が通る度に開け閉めするものではない。普段は閉まっていて、いったん開けたらしばらくは開けておく。更に、通常、人が通るのは「通用門」という小さな門である。
軽いドアならば、人が挟まれそうになったりした場合、人力で簡単に止めることができる。しかし、1.5tもあるドアは、動かすのにもなんらかの動力が必要であるし、何かあったときに人手で瞬時に止めることは不可能である。そのことの異常さを感じない技術者は、技術者として失格であろう。
(2004/04/08)
朝通勤途中で信号待ちをしていると、筆者の前をストレートヘアが腰近くまである女性が自転車に乗ってゆっくりと横切って行った。それで、ふと考えたのであるが、人間というのは妙な動物である。頭以外にはほとんど毛が無いのに、頭の毛だけはやたらと長い。この長さは、ものに引っかるなど生存には多分有害なのではなかろうか。頭髪もある程度の長さまでは、頭部を外傷から守るという機能があるであろうが、腰まである必要はなさそうである。とすると、なぜこんなものが遺伝的に残ってしまったのか。
筆者は次のように考えるのだが、妄想をたくましくしすぎであろうか。人以外の動物の場合、生存に不利な形質を持つ個体は淘汰されて次第に消滅するであろう。しかし、人間は巨大な脳のおかげでこの無用の長物をうまく処理(例えば短く切る、適当に折り畳んでまとめるなど)して、不利を克服する方法を考案することができた結果、長い頭髪が生存にほとんど影響しなくなったのではないか、と。あと、人間が樹上生活から平原へ生活の場を移したことも関係ありそうである。樹上では長い頭髪は木の枝等に引っかかって危険であるが、平原ならばそんなに問題にならない。
(2003/08/29)
進化についてのある人との議論。
(2003/07/21)
中学生が幼児を殺害したとして補導された。これを聞いた鴻池祥肇青少年育成推進本部副本部長が「犯罪者の親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい。」などと発言した。
このごろの少年の凶悪犯罪は、自分の行為の結果がどんな事態を引き起こすか、ということに思い及ばず、短絡的に行動に走ってしまっているように見える。いろいろな状況を考えて行動することができず、一つの側面だけの判断で行動する。この傾向は子供だけではないようだ。上記の鴻池氏など、最も多面的な思考が必要な立場にあるのに、単純に上記のような短絡的な発言をするのでは、凶悪犯罪を犯す少年と大して違わない。同氏のような人間が青少年育成推進本部副本部長などという役についているのでは、現在の複雑な状況を多面的に考慮して行動できるような、まともな青少年の育成ができるとは考えられない。
どうも、最近の傾向として、複雑な状況を強引にぶった切って単純化してしまおうとすることが多いように見える。一見、歯切れが良くて気持ちが良いが、これでは、昔、無知ゆえに物事を大雑把にぶった切って判断してきた愚を反省し、より正確な状況認識の下に木目細かい対応をしようという現在の社会の方向とは逆行することになる。
このことについては、最近の朝日新聞で推理作家の高村薫氏も「粗雑な言葉、粗雑な思考は、中間の複雑な条件を全部取っ払いますから結論しか残らない。それが、極端な考えを生む大きな原因だ。みんな別に戦争は好きじゃないけれども、途中の複雑な条件を勘案することができないから、ぱっと結論のところへ行く。朝鮮半島情勢が緊迫しているから北朝鮮はけしからんという単純な結論になる」「要するに、言葉に行きつく。複雑なことを考える思考能力が危機に瀕している。だから感情論にしかならない。鴻池さんだって12歳の少年が事件を起こして、感情でけしからん、と思ったのでしょう。これを言ったらどうなるかということが考えられない。これを言うことが大変に教育的配慮を欠いたひどく極端な意見であるといった自制が働かない」と述べている。
筆者もかってインターネットのとある掲示板で、ある若い(と推察される)人と論争したことがあるが、「水も氷もどちらもH2Oだから同じだ。」という主張をするので、「それは分子組成として同じだけれども、物理的性質はまるで違う。1kgの氷で殴るのはたやすいけれど、1kgの水で殴るのは難しい。ものごとを一面だけでみるのは拙い。」と言ったら、反論に窮したのか、おふざけで誤魔化し始めてしまった。複雑なものもある面では単純であるけれども、その面だけで単純にぶった切ってしまい、複雑な面を受け入れる力が無くなっているのか。
(2003/07/12)
筆者の宗教についての視点。
筆者としては宗教は「嘘も方便」もっと言えば「麻薬」と同類のものと思っている。
(2003/07/05)
ツェノンが昔提出した「アキレスと亀」の詭弁を未だに「パラドクス」と思い込んでいる人が結構有名な哲学者や、科学者にもいるようである。下のページは「アキレスと亀」について、あるMLで論争した記録である。
アキレスと亀というパラドクシカルな命題について
(2002/11/9)
昨日、女房が見ているテレビの中で、武田鉄也が科学好きの生徒に「科学も良いが、人間に非常に役に立ったのも科学だが、人間を最も苦しめたものも科学だということを認識しないといけない。」というようなことを言っていた。こういう見当はずれの認識をさも正しいかのように放送するのは困ったものだ。科学は人間が得た力の一つに過ぎない。科学が人間を苦しめたのではない。人間を苦しめたのは人間である。特に、自己の利益あるいは自分の属する狭い集団だけのために動くような一部の政治家や軍の支配者あるいは宗教家、企業家達ではないか。そのような輩が科学という力を振りかざすとき人々にはかり知れない苦しみを与えてきたのではないのか。
一部の政治家が政治権力という力を悪用して数え切れない人々を苦しめてきたからといって、政治権力自体を非難しても始まらない。科学が強力であることを非難するなら、政治権力が人を殺す法律をも作れることを非難することにもなる。力があることとそれをどう行使するかの問題を混同してはいけない。
それともう一つ、非常に重要なことであるにも拘わらずあまり認識されてないことは、科学を何か不自然なもののように考えている人が多いようだが、科学は人間の脳の構造に根ざした、人間にとって極めて自然な、言うならば「非常に(こういう言い方は好きではないが)人間的な」ものなのだ。
(2002/3/29)
最近、いろいろな地域での宗教が絡んだ争いを見るにつけ、宗教は人類の幸福に役立っているのか?という疑問がわく。昔、情報の伝わり方も人の移動も非常に緩慢で量的にも少なかった時代にできた宗教という思考・信念の形態は、そのような時代において、他の集団との接触が少ない状態では、その集団に属する個々人の幸福には役立ったかもしれない。しかし現代のような何もかもが地球規模で瞬時に動く時代には、宗教はむしろ害の方が多いようにも思える。
宗教の特性の一つはものごとの「善悪」あるいは「正邪」を言うことである。これが問題である。(科学でも「正しい/正しくない」という言い方はするが、科学での「正しい」とは宗教上で言うそれとは異なり単に「現象と合い、論理的に他と整合性がある。」という意味であるので、「科学も正しいかどうかを言うではないか」との反論は的外れである。)。
「善悪」は、価値観に基づく。価値観は価値評価主体の存在が前提であり、評価主体により「善悪」は全く逆になったりする。そんなものが世界共通の規準になりようがないのは明らかだ。もう一つの特性は、多くの宗教が、不可知なものを出発点としていることである。「不可知」であるということは、「検証」を受け付けないということであり、これがそれぞれの宗教間の歩み寄りや理解を阻害し、「自分の信じる宗教だけが正しく他は間違いである。」という思い込みからの脱却を困難にしている。特に、「唯一全能絶対の神」を持つ宗教は教義に現実にそぐわない点があっても、教義自体を疑うことを拒否するので害が多い。
上記、二つの特性が組み合わさることにより、現代において宗教同士が他を否定するという構図を作り上げ、宗教的な争いの原因を作っている。少なくとも大部分の宗教についてはその「使い方の問題」というよりも、地球規模で見た場合に根本的に不都合な部分があると思われる。「宗教」は「人間」が生きやすくなるためるに「人間」が造り出した「考え方」の一つに過ぎない。
地球規模の総体的な幸福を考えるとき、そろそろ、宗教に頼るのは止めた方が良いのではないか。
(2002/4/9)
昨日、女房が見ているテレビの中で、武田鉄也が科学好きの生徒に「科学も良いが、人間に非常に役に立ったのも科学だが、人間を最も苦しめたものも科学だということを認識しないといけない。」というようなことを言っていた。こういう見当はずれの認識をさも正しいかのように放送するのは困ったものだ。科学は人間が得た力の一つに過ぎない。科学が人間を苦しめたのではない。人間を苦しめたのは人間である。特に、自己の利益あるいは自分の属する狭い集団だけのために動くような一部の政治家や軍の支配者あるいは宗教家、企業家達ではないか。そのような輩が科学という力を振りかざすとき人々にはかり知れない苦しみを与えてきたのではないのか。
一部の政治家が政治権力という力を悪用して数え切れない人々を苦しめてきたからといって、政治権力自体を非難しても始まらない。科学が強力であることを非難するなら、政治権力が人を殺す法律をも作れることを非難することにもなる。力があることとそれをどう行使するかの問題を混同してはいけない。
それともう一つ、非常に重要なことであるにも拘わらずあまり認識されてないことは、科学を何か不自然なもののように考えている人が多いようだが、科学は人間の脳の構造に根ざした、人間にとって極めて自然な、言うならば「非常に(こういう言い方は好きではないが)人間的な」ものなのだ。
(2002/3/29)
先日、本学で「ものづくりシンポジウム」というものが開催された。そこで講師の先生がある装置をわざと故障状態にして学生にその故障を見つけさせるということを実際にやらせていた。
こういった場面で問題になるのは、最近の若者の力学的・物理学的感覚である。ものの動きや装置の力学的性質について抽象的には理解していても感覚的に理解していない。こんなことがあった。自動車好きの学生に「車のドライブシャフトはものすごく丈夫だね、よくねじ切れないもんだ。」と言ったら「ねじ切れないように設計してあるんでしょう。」と答えた。そんなことは分かりきったことである。普通の乗用車のドライブシャフトは高々直径4cm程度のものである。これで、直径60cmくらいのタイヤ回すわけで、ギヤをロウに入れてグッとアクセルを踏むと普通の乗用車でもタイヤをスリップさせることができる。このときにどんなすごいねじり応力(せん断力)がドライブシャフトにかかるか思い浮かばなくてはだめである。60cmの円盤に4cmの軸を付けて、子供に円盤を持たせて、自分が軸をねじってみる場合を想像してみればそんな細い軸で円盤を回すのがいかに大変か。まして、タイヤには200kgw以上の荷重が掛かっていて、ゴムと地面の摩擦は相当なものであろう。こういったことが実感として感じられないような技術者は心配である。
(2002/3/25)
代理母(ここでは、厳密に言うと「代理出産(妻の卵子と夫の精子の受精卵を別の女性の子宮内に着床させて育ててもらうこと)」を指す)の事実を担当医師が発表して問題になっている。多くの論調は、代理母について批判的である。曰く「女性を道具にしている。」、曰く「生まれてきた子供にどう説明する?」など。さらにはクローンに対する反応と同様の「生命を弄んでいる。」。
代理母が「女性を道具にしている」のは事実である。しかし、それを批判するならば、次のような場合はどうであろうか。仮にある夫婦がいて、夫は子供が欲しいと考えており、妻は欲しくないと考えていたとする。夫が妻に「子供を産んでくれ。」と要求するとしたらこれは「妻を子供を産む道具として考えている」ことにならないのか。「妻」ならばそれが妥当だとすることに疑問は無いのだろうか?子供が欲しいならば「養子」という手もあるはずである。自分の遺伝子を残したいのであれば、クローンと言う手も近い将来可能になるであろう。夫と妻だけの話ではなく、いわゆる「跡取りを生んでくれ。」と言った類の話はゴマンとある。これらは、今回の代理母ほどの非難はされていない。これは片手落ちではないだろうか。
むしろ、「代理母まで頼んで自分の遺伝子を残す」ことに固執する精神構造あるいは社会にこそ、問題があると思う。
現在のところ、「子供を生む。」ということは女性にしかできないことなので、代理母であろうと普通の母であろうと、必然的に「女性は子供を生む道具」という一面をもたざるをえない。これは、いかに美辞麗句を並べても覆い隠すことができない事実なのだ。だから、「女性を道具にしている。」という批判は筋が通っていない。「女性を道具にしている。」と批判する人達は人工子宮ができて女性に頼らずに子供を作れるようになったら、よしとするのだろうか、そうは思えない。
もちろん、人類という種を存続するために、生まれつき「子供を生む」という役目を担わされた性をいかに支援するかという問題は重要であるが。
「生まれた子供にどう説明するか。」と言う問題は、高々、「養子に自分の出生をどう説明するか。」と言う問題と本質的に変らないと思う。これもクローンの場合と同様で、むしろ、「代理母から生まれた人は異常だ。」という偏見やそれに起因する差別の方が問題であろう。「どのような生まれ方であろうと、人間の遺伝子をもって、人間としてのコミュニケーションができる者は人間だ。」ということは平等を謳う社会の基本であろう。
「生命を弄んでいる。」という批判は、全くの見当はずれだと思う。上記の医師はごく真面目に子供が欲しい夫婦のことを考えているので、「弄ぶ」などという概念とは無関係である。
最後に残る問題は、「生みの母」と「遺伝子の母」との関係および心の問題であろう。しかし、この問題は通常の養子の場合よりも深刻ではない。なぜならば、代理母と子の間には遺伝子的なつながりはないという認識が双方にあり、養子の場合のような「生みの母との血のつながり」ほどの関係の強さはないと当事者は感じると予想されるからである。したがって、もし問題が起きたとしても「代理母」を依頼した/引受けた者同士、当初の合意・約束に従うのが当然であろう。ただし、代理母になる/依頼することによる結果がどのような事態を生む可能性があるかについては充分なコンセンサスが必要である。逆に言えば、代理母よりもむしろ、養子をもらう場合や子供を持っている者が再婚する場合などに起こってくる事態に対して、現在、充分なコンセンサスを確立する手順を踏んでいるのか・・・、よく聞く、再婚相手の連れ子の虐待などを考えると疑問が多い。
(もちろん、「代理母」に金が絡んでくると、いろいろな弊害が出てくる可能性はある。しかし、金が絡んで弊害が出るのは「代理母」に限ったことではない。また、医学的な危険性については現段階ではあるかもしれないが、いずれ克服されるであろう。)
(2001/5/30)
テレビのある番組で、読書について取り上げていた。その中で、飯島愛が「私は図鑑や辞典が好きで、読み始めると1日中読んでいることがある。」と言ったところ、渡辺正行が図鑑や辞書を読むのは読書とは言えないというような態度をとった。なるほどそうか!と思った。私も子供のころ、理科の図鑑が好きで図鑑を読みふけっていたが、国語の時間に「図鑑や辞書を読むのは読書ではない。」と言われ先生に反感をもったのを思い出した。そう言った種類の読書を読書として認めない風潮も私を国語嫌いにした一因である。
小学校にしても中学校にしても読書というのは、「読んで感動の涙を流すようなもの」という固定観念が先生にあったように思う。しかし、私が図鑑を見ているとき、「ヘーッ、この機械はこんな仕組みになっているのか!」とか「体の中はこんなになっているのか!」といった、「分かること、知ることの感動」を体験していたと思う。国語教育が、その種の読書を読書として認めないものであるらば、国語教育は偏狭な固定観念に毒されているといわざるをえない。
(2000/11/26)
NHK教育テレビで「10代に聞く・少年犯罪をどう思いますか?」という番組が放送されていたが、その中で、「なぜ、殺人・自殺はいけないか。」という話題があった。そして、識者達が、「人の命はなによりも重いものだから・・・。」というような理由を根拠に文学的とも言える意見を述べていたが、どうも的外れに思えてしかたがない。「人の命の重さ」などということは一つの価値判断であり、ものごとの価値判断ほど、あやふやで立場によってどうにでもなるものは無い。そんなものを根拠に「殺人・自殺」を否定してみても、ほとんど説得力は無いと思う。
そもそも、「殺人・自殺」をしてはならないのは、それが「死」という生命について決定的に不可逆的な事態を引き起こすからである。この厳然たる事実に根拠を置かなければ、説得力のある説明はできないであろう。
もし、「死」が可逆的な現象ならば、「死」の重大さは無くなるし、縁者の悲しみも無くなるであろう。「死」が重大なのは正にこの「不可逆」という一点にある。それが、殺人・自殺の重大さの根本にある。生きることに何らかの文学的理由付けをしたがる人達から「そんな単純なことか?」とバカにされそうだが、人が生きることそのものに「理由」は無いのだ。では、「なぜ生きるのか?」といえば、「生きるようにできてしまったのが生物だ。」としか言い様が無い。もちろん、ある個人が死ぬことによって、悲しむ人々や困る人々が居るかもしれない。しかし、それも「死が不可逆である」ことの裏返しでしかない。
「殺人・自殺」をしてはならないということの説得・教育は徹底してこの「死の不可逆性」を教え込むことから始めなければ効果が無いと思う。人が、生きているとき、喜び、悲しみ、笑い、そしていろいろなことに興味を持ち、いろいろな行為をし、いろいろな人間との関係をつくり、いろいろなものを創造し、・・・といった生きているときに行なう/行なうであろう、あらゆることが、「殺人・自殺」によって不可逆的に断たれることになる。そのことの認識なくしては説得力のある議論は成り立たない。
(2000/11/25)
雪印乳業のいろいろな問題点が話題になっている。昨日も、同社のある工場で停電があり、その間放置された牛乳に黄色ブドウ球菌が発生したものをそのまま製品にしてしまい、毒素が残ってしまった件について報道していた。
ある新聞には、そうした(停電などが起きた)ときのマニュアルが無かったことを非常に大きい問題として取り上げていた。しかし、これは違うのではないか。確かに、いろいろな事態に対処するマニュアルは必要である。しかし、事故というものは往々にしてマニュアルが無いところで起きる。あらゆる場合を想定したマニュアルなど作れない。重要なことは不測の事態に陥ったときに、起きている状況を正しく把握して原理原則に基づき最悪の事態を予測できることである。上記の例でも、牛乳を3時間も細菌の繁殖し易い温度で放置すればどんなことが起き、どうしなければならないかは、ちょっと考えれば解ったはずである。マニュアルに頼りすぎると、こういったマニュアルにない状況に陥った場合に思考停止してしまう。これは、以前にあった核燃料会社の事故の場合にもあてはまる。まず、「核燃料混合装置がどうしてあんな形になっているか」といった原理的なことを理解していれば、ばかげた「裏マニュアル」などできることはなかったであろうし、また、「裏マニュアル」に盲目的に従って事故に至ることもなかったはずである。
これらは、どうも受験勉強が原因のように思われる。小学校の、いや、幼稚園のころから、「問題の解き方=マニュアル」と「それに盲目的に従って解く」ことばかりを教え、根本原理に立ち戻って「なぜか」を考える姿勢を失わせている。これでは、「マニュアルが無ければなにもできない/マニュアルがあれは何でもしてしまう」人間を作ってしまう。
(2000/8/25)
東海村の核燃料工場での事故については、10月2日以降のニュースを聞くにつけ、あきれかえってしまう。安全性を無視した「ウラマニュアル」などというものがどうして存在し得たのか。また、科学技術庁等の関係者の発言で「原子力発電所以外のところで臨界量に達する可能性については想定していなかった。」などと言っているがどこからそんな結論が出てくるのだろう。核燃料工場においても当然人間はミスをするし、もし、悪意を持った者が、核燃料を勝手に操作したらどんな事になるか等を考えなかったのだろうか。核燃料を重油と同じように考えているのだろうか。既に書いたように、核燃料工場などでは、臨界量を超えさせようとしてもできない仕組みになっていなければならない。そうでない施設を認可した科学技術庁の責任は重い。さらには、しゃにむに原子力発電を押し進めるため、原子力発電所の安全性だけに金を掛け安全性を宣伝してきた政府の責任も重大だ。そのため、付帯する施設の安全性が無視され、こんな事態を招いた。
(1999/10/4)
茨城県東海村の核燃料工場で全く信じられないような事故が起きた。核燃料が臨界量に達して制御不能の連鎖反応が起きたのだ。幸い、液体だったのでネガティブフィードバックが掛かって大爆発には至らなかったが、ぞっとする話だ。核燃料を原子炉以外のところで臨界量以上に集積してはならないということは、核燃料を扱う上で基本中の基本、鉄則の中の鉄則のはずだ。だから、そういった工場では、仮に人間がミスを犯しても、あるいは故意に臨界量以上を集積しようとしても、そうならないようにしてあるべきだし、そうなっているものと思っていた。ところが全くそのような仕組みはなかったようである。恐ろしい話だ。核燃料を瞬間的に臨界量以上に集積して連鎖反応を起こし巨大なエネルギーを発生させるのが原子爆弾なのだから。
それと、この事態を報道するマスコミなどが「放射能漏れ事故」と呼んでいるが、止めてもらいたい。事態を矮小化することになってしまう。事態は「放射能漏れ」といったなまやさしい言葉でよばれるようなことではなく、ミニ核爆発事故とも言えるような、もっと、根本的に深刻な事態なのだ。
科学技術庁長官の「(事故を起こした当事者は)技術者としてのモラルに問題があった」とのコメントはいただけない。むしろ、当事者の根本的な認識の間違いとシステムの設計ミスの問題だろう。認識やシステムの設計ミスの問題をモラルの問題にすりかえてはならない。上に述べたように、「臨界量超過は起こそうとしても起きないシステム」になっていなければならない。
(1999/10/1)
ドリーというクローン羊以来、クローンについて、いろいろと問題になっている。特に、農水省が、クローン技術による肉類をそれと明示せずに売ることを許している。これは、なぜだろう。なぜ、個々の消費者の選択の自由を奪うのだろう。何を好むかは個人の自由だと思うのだが。情報公開が叫ばれている昨今、なぜこんなことがまかり通るのであろうか?ちゃんと公開して消費者の選択の自由に任せればよいと思うのだが。
上記のようなことを書くと、クローン反対のような印象を持つ人もいるかもしれないが、私自身は、なぜクローン技術がこんなにも忌み嫌われるのかも分からない。妙に怖がる人もいるが、これまで、動物や植物で無数の掛け合わせが行われて、新種の動植物が作られてきた。これには何の疑問も抱かずに、クローンを恐がるのでは、支離滅裂といわざるをえない。掛け合わせの場合、できてくるものはもとになった二つの親とは異なる遺伝子を持つ訳で、これこそどんな危険な生き物ができるか分からない。クローンの場合、既に存在する親の遺伝子をそのまま持った生き物であるから、むしろ得体が知れている訳であり、それをどうして怖がるのであろうか?確かに、まだ、技術的に未熟な面があるが、これはクローンそのものの問題ではない。
人間のクローンにしても、もし技術が確立すればそれほど問題があるとも思えない。避妊をしたり人工受精をしたりするのとどこがそんなに違うというのだろう。ただの、年の違う双子にすぎないのに。もちろん、同じ遺伝子を持った人ばかりになるといろいろと問題が出てくるが、そうでなければなにがそんなに問題なのであろうか?
クローン人間を嫌がる人は「クローン人間は正常な人間でない」と考えているふしがある。ここが根本的に間違っているのではなかろうか。どういった手段で生まれてこようとも人間の遺伝子をもち人間とコミュニケーションができれば人間だ、とは思わないのだろうか?これは、人種差別と同根の問題を含んでいるように思える。そして、農水省のお役人も「クローンは正常でない」と思っていて、「国民には隠しておかなければ」と考えているのだろうか。
(1999/9/22)
先日、増水で川の中州でキャンプをしていた人が流された。そのとき、ある赤ちゃんを川の近くの住人が命懸けで助けることができたことが報道された。この報道で、記者かアナウンサーかがしきりに「奇跡がおこり」を連発していた。例えば宗教的な話で「奇跡」がよく出てくる。非常に都合よく希なことが起こったらさも神秘的なことが起きたように「奇跡」と言い立てる。しかし、これは単に「自分に都合がよい」と言っているに過ぎない。事象に対する非常に身勝手な人間の解釈でしかない。不都合なことが起こったら神秘的とは思わないのか、「奇跡」とは言わない・・・それが「奇跡」と呼ばれる事象と同程度に希と考えられることであっても。
実は世の中に起きるどんな事象も同程度に希で奇跡的なものだということに気が付いていないのではないか。
(1999/8/18)
宮部みゆきの「理由」という推理小説が直木賞を取ったが、まだ、読んでいない。「理由」という言葉で思うのは、人は何と「理由」を知りたがる生き物であるか!ということである。何か(特に不都合なことが)起きるととにかく「理由」を知って納得したがる。もちろん、この性癖が、人間をこれほどまでに発展させた要因ではあるのだが。あるがままの事態をとりあえず受け入れるということができず、とにかく「なぜ?」を問う。しかも、性急に答えを要求する。「なぜ?」と考えることは、人間の発展にとって非常に有用であることは確かであるが、その答えを性急に得ようとするのは問題が多い。これが高じると、理由が解らないときに強引にそれをでっち上げる。全能/万能の神様を持つ宗教などはこの例だろう。その時点で理由が解らないことが起きると神様のせいにして納得する。この意味で、この種の宗教の役割は、「簡単に理由が分からないことの理由を探し続けて苦しむのを円満に終了させ、より生産的な方向に向かわせる」ということにある。しかし、今解からないことに安易な解決を付けず将来解決するべき問題として保持しつづけるということが無ければ進歩・発展は望めない。
(1999/2/26)
やや自慢めいた話であるが、数日前、高校生の息子が、「ローレンツ力の磁界は仕事をせんよなあ?」と言い出した。ローレンツ力とは磁界中を運動する荷電粒子が受ける力のことである。例えば磁界中を電子が走ると軌道が曲がることは、テレビのブラウン管の偏向コイルなどで利用されている。私は、そんなことを頭に浮かべ、電子の軌道が曲がるということは電子に何らかの仕事をしてるので、磁界は仕事をしていると答えたが、息子は「磁界が荷電粒子に及ぼす力は、荷電粒子の運動方向に直角だから、仕事をしていないはず」と反論する。考えてみれば確かにそうなのである。たいていの場合、物体が力を受けながら動くと仕事をされたことになるが、その先入観で判断してしまっていた。(実は、息子の学校の物理の先生もそのようである)
これは実に虚を衝かれた感じである。というのは、私自身は30年以上も昔ではあるが、工学部の電気工学科出身で、学生時代マクセルの電磁界の微分方程式を何度も解き、ローレンツの法則も知っていたはずで、電磁気学については高校生などより遥かに良く解っている積もりであった。ところが、ローレンツ力についてエネルギー的に考えた記憶が無いのである。上記の事実は考えてみれば全く当たり前のことで(下の解説参照)あるが、「眼から鱗が落ちたような」を実感した。つまり、ローレンツ力とは、摩擦の無い束縛なのである。
[解説] ローレンツ力をF、粒子の電荷をq、速度をv、磁界の磁束密度をBとし、ベクトルの内積を「・」、外積を「×」で表すと、
F=(qv×B)/ζ
の形になる。つまり、力は速度にも磁界にも直交する。仕事は速度と力の内積
v・F
=v・(qv×B)/ζ
=0(この場合直交するので0になる)
を時間で積分したものであるので、積分結果も0となる訳である。
[荒唐無稽な想像] もし2次元の世界があったらローレンツ力はどうなるのだろう?速度にも磁界にも直交する第3の方向は存在しないのだから。点電荷による電界は、(1/r)に比例することになるのだろうか?すると、点電荷から有限の距離のポテンシャルエネルギーは無限大になりそうである。
(1999/2/17)
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